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月の蘇る-4-  作者: 蜻蛉
第二十話 面影
25/71

4

 馬車の中に甘い香りが漂う。

 春の花の匂いと、香ばしい菓子の匂い。

 供は最低限の人数で、国王夫妻は忍びの外出だ。

 行先は貧民街。決して治安の良いとされる場所ではないが、護衛は朔夜一人。

 ただ、王も本人も護衛だとは思っていない。そんなものは不要だと知っている。ただ、桧釐が無用心だと煩いからそういう事にした。

 華耶は初めて訪れる場所を楽しみにしている。何度も小さな窓を覗き込み、街並みの中に目的地を探している。

「どうして桧釐さんはあんなに心配していたんでしょう?ただ子ども達に会いに行くだけなのに」

 後宮の外では王たる夫に対する口調は改まる。特に誰が何を言った訳ではないが、自然とそうなった。

「貧民街だからな」

 素っ気無い程の龍晶の答えには、華耶のみならず朔夜も顔を顰めた。

「答えになってねえよ」

「そういうもんだろって話だ。一般的な認識だよ。実際、一般人が近寄れば酷い目に遭う場所だった、かつてはな」

 貧しさ故の犯罪が横行する。確かにそれは有り得る事だろうが、あの街に限っては想像がつかない。

 龍晶と共に歩けば、人々の偽らざる笑顔に遭う。それが朔夜の抱くあの街の印象だ。

「母上がそれを変えた。自ら危険だとされる街に足を運び、住人達と話をし、必要な支援をした。診療所を作り、医師を連れて来た。動ける者には仕事を斡旋し、動けぬ者には衣食住を世話した。それで人々は変わったんだ。ま、それは俺が産まれる前の話だけど」

「お母さまがお話なさったのですか?」

 華耶の問いに龍晶は首を横に振った。

「自らの功績を話すような人じゃなかった。これは俺が街に通う中で、街の人々から教えて貰った事だ。俺は既に母を亡くしていたも同然だったから、少しでも寂しさを紛らわせてやろうという彼らの優しさだった」

 少し考え、自らに頷いて、言った。

「俺はあの街に育てられた。だから、孝行せねば」

 華耶は微笑んで、夫に言った。

「陛下にとって親であるなら、私にとってもそうです。共に孝行いたします」

 沼地の上に架かる橋を渡ると、目的の場所が見えてきた。

 その橋こそ龍晶の母が架けたもので、整然と並ぶ白い住居は母に対する息子の応えだった。

 遠い日の記憶。

 傷付き果て、全てを失って初めて、この街を己の足で訪れた。

 それまでは母に付き従って訪れていたが、その母を牢に残して出て、やっと己の意思でここへ来た。自分たち母子が囚われる前に城外へと逃していた祥朗の無事を確認しに来たのだ。

 血の繋がらぬ弟は、およそ一年の間に変わり果てた兄の姿を見るなり駆け寄り抱きついて、泣いた。

 その時自分は、何の感情も出せず茫漠とした様で、ただ為されるがままになっていた。

 街の人々がその異変に気付かぬ筈が無かった。貧民街とは言え、城内の惨劇は断片的に伝わっていただろう。

 声を掛けるに掛けられず、痛ましい表情で兄弟を囲んだ。

 ただ、葬られようとした母子についての正確な情報は、街の人々の知る所では無かった。

「朱花様はご無事ですか」

 自分達を取り囲んだ中の、一人が尋ねた。

 横に居た者は表情から察して、おいやめろと小声で窘めた。

「母上は牢から出される事は無いと言われた」

 それを街の人々に知らせるのが己の義務だと思い、感情無く告げた。

 感情など込められなかった。悲しみを感じる事が出来なくなっていた。

 心は、その時もう壊れていた。

 一方、告げられた人々は立ち尽くすより無かった。

 自分達の慕う人が、言われなき罪で牢に繋がれ、もう日の目を見る事は無い。

「…恩を、お返しする事が叶わぬと、そういう事ですか」

 老人が呟いた。咽び泣く声が、祥朗一人のものだけでは無くなった。

 龍晶は力を失って、街に唯一敷かれた道の真ん中に座り込んだ。その周囲を囲む人々は、一人、また一人と増えた。

 その彼らが、口々に王妃から受けた恩を語り始めた。

 飢えて死にかけた所に食べ物を分け与えられた者。追われた住まいを取り戻して貰った者。

 病を治す薬を分けて貰った者。

 優しく声をかけられた、笑顔を向けて貰えた、そういう者も居た。

 皆が皆、龍晶に聞かせようと口を開いた。それこそがせめてもの恩返しだとばかりに。

 母の姿を思い描き、孤独を癒されて。

 自分より二つ三つは年下であろう女の子は、人形を差し出した。

「朱花さまからいただいたお人形、お兄さまにあげます」

 思わず受け取って。

「これはお前のものだ。…けど、少し、借してくれな…」

 そこに母の温もりを感じて、不意に涙が溢れた。

 この人形を縫っていた姿を覚えている。嬉しそうに、あの子にあげるのだと言って。

 どうして。

 そんな優しい人が、こんな事に。

「母上…会いたい…」

 人形を胸に抱いて、声の限りに会いたいと叫び、泣いた。

 泣いて、喚いて、声が潰れ疲れ果て、気を失って眠った。

 気付くと診療所の寝台の上で、母がこの街に乞うて連れて来た医者先生の背中が見えた。

 顔や腕など、目立つ箇所の傷には治療が施してあった。

「先生」

 細い声で呼ぶ。すぐに振り向いてくれた。

「お目覚めになりましたか。ご気分は如何ですか」

 問いに、小さく首を横に振る。

「分からない。ずっと苦しくて」

「お疲れなのでしょう。熱があるようですし、僭越ながらお怪我は診させて頂きました。しかし、このような傷をすぐ診るべきはお城の医師でしょう。そちらを頼られる方がよろしいかと」

 今度は激しく、かぶりを振った。体も震えだした。

「どうしました?」

 怯えきった顔で医師を見上げ、龍晶は訊いた。

「先生…俺の体、診てくれる?」

「勿論。それが医師の仕事です」

 震える足で床に降り立つ。一つ息を深く吐き出して、帯を解き、衣を脱いだ。

「城の奴らは、こんな事をしたから…頼るどころか、近寄れない」

 全ての衣が床に落ちる。

 女児と見まごう裸体が露わになった。

 ただ、手術痕は生々しく残っていた。

 言葉を失う医師を悲しく見返して、問うた。

「こんなになってまで、俺は、生きなきゃいけない?」

 医師は衝撃から我に返ると、衣で小さな体を包み、膝を付いて肉の無い薄い肩を抱いた。

「生きねば、お母上に再びお会い出来ませんよ。あなた様が朱花様をお救いせねば、他に誰がそれを出来るのですか」

「…会えるのかな、母上に」

 絶望の中の唯一の願いはそれだけだった。

「生きておれば、必ず」

 肩の上の小さな顎が引かれた。

 それしか縋るものが無く、信じるしか無かった。

「先生、俺を生かして下さい。城の奴らは誰も信じられないから、俺は先生だけを頼ります。母上の為に…お願いします」

 既に夜半となっていた。医師は鎮痛、解熱作用のある薬を調合し、失意の王子に飲ませた。

 貧民街の粗末な医療所で、父王の死んだ日以来初めて、不安を忘れて眠った。

 翌朝、祥朗とその遊び仲間達が訪ねてきた。

「兄様、あそぼ!」

 自分より年下の子供達は皆、兄と呼ぶ。祥朗に倣ったのだろう。

「こらお前達、龍晶様はお加減が良くないんだぞ。遊ぶなどと…」

 先生の叱る声を、自ら止めた。

「大丈夫。先生の薬が効いてるから」

「しかし、それで無理をなさって悪化したら…」

「遊んで体が悪くなる事なんて無いよ」

 子ども達ははしゃぐ声を上げ、手招きしながら外へと向かう。

 彼らに聞こえぬよう、先生に言った。

「これ以上、あいつらを不安にさせたくない」

 昨日の報せと己の姿に、祥朗は何を感じただろう。

 絶望させたくなかった。自分のようには。

「でも俺、遊んだ事ないけど大丈夫かな」

 人生の経験の中で遊ぶと言えばせいぜい、後宮の女官達と蹴鞠や隠れんぼをした程度である。同世代の子どもと遊ぶ事など無い。

 医師は目を丸くし、ああ、と納得して微笑んだ。

「遊び方は教えてくれるでしょう。大丈夫です」

 一つ頷いて、子ども達に招かれるまま、小さな街で初めて子供らしく遊んだ。

 心から楽しんでいたかというと程遠い。だが、遊びを覚えて体得するのに必死で、一時的に何もかも忘れていた。

 終わる頃になって、これが楽しいという気持ちなのかなと思ったりして。

 日の暮れる頃、望まぬ迎えがやって来た。

 城の兵隊が二人、住人に案内をさせて、龍晶の前に立ちはだかった。

「どれだけ探したと思ってんだ!勝手に城を抜け出しやがって」

 近寄って来るなり頬をぶたれた。次いで腹を蹴られ、転がった脇腹にまた蹴りが入った。

 苛立ちも露わな態度に、一緒に遊んでいた子供達は怯え、凍りついた。

「来い!帰るぞ」

 兵は細い腕を掴んで引き摺り歩きだした。

 抵抗など出来ず、縺れる足で帰りたくもない城へと向かうしかない。

 その後ろから、多くの足音が迫ってきた。

「な…なんだ、お前ら!」

 振り向いた兵が怒鳴った。

 貧民街の住人達が道いっぱいに並び、怒りの目をじっと兵らに向けていた。

 一人が石を投げた。

 掌より小さな抵抗の意思は、兵の肩に当たった。

「何をする…!殺すぞ!」

 刀を抜いた腕に、龍晶は縋り付いていた。

「やめろ!殺すなら俺を殺せ!」

 叫んで、街の人々に向かって首を横に振った。

「やめてくれ…!俺なんかの為に、命を懸けちゃいけない。こいつらは本当に皆を殺してしまうから…!」

 人々は動きを止めた。

 上から舌打ちが聞こえ、縋り付いていた腕から振り落とされた。

「構うもんか!こんな虫けら同然の奴らなんか斬り捨てちまえ!」

 刀が無抵抗の住人に迫る。龍晶は叫んだ。

「その人たちを手にかけたら、俺は舌を噛み切る!」

 兵はまた舌打ちして動きを止めた。

「兄上は理由あって俺を生かした。それをお前達が無下にしたら、罰せられるが良いか?」

 誰もが動きを止めた場に、医師が駆けて出た。

「もうよろしいでしょう。何卒、この場は穏便に…」

 忌々しげに兵らは踵を返し、龍晶へ怒鳴った。

「行くぞ!」

 薄く笑って先生に頷きかけ、立ち上がって兵らの後を追った。

 その後ろを、祥朗が追ってきた。

「お前…」

 ぼくもかえる、と弟の口は言った。

 帰る場所に母は居ない。もう祥朗は城に居場所など無い。

 それは分かっていたが、龍晶は笑んで頷いた。

「ああ。帰ろう」

 橋を渡る前に、もう一度振り向く。

 かけがえのない家族たちが、ずっと見送ってくれていた。


 同じ橋を渡って、今度は新たな家族を連れて来た。

 馬車の中を知る子ども達が、龍の描かれた旗を手に道の横を走り回る。

 この街に子どもの声が戻ってきた。人々の笑顔と共に。

 祥朗や医師から聞いた話では、あの時一緒に遊んだ子らはもうここには居ないそうだ。

 母の作った人形を差し出した女の子は、体を売る為に花街へと向かった。

 また別の一人は毒物事件の際に命を落とし、もう一人は反乱中に起きた火災に巻き込まれた。

 あの火災が起こる前、国軍は腹いせのように貧民街の人々を虐殺したそうだ。だから彼は、殺されたのか火に巻かれたのか、それすら分からない。

 俺が殺したようなものだーー心底、龍晶はそう思っている。悔悟は今も頭から離れない。

 守るべき人々を守る為の反乱であった筈なのに。

 結局何も出来なかった。だから今、付け焼き刃のように街を修復し、毒の入っていない食べ物を渡す。せめてもの償いだ。

 誰もお前のせいだとは思っていない、そう朔夜には言われたが。

 誰も思っていなくても、自分だけは真実を知っている。己の力が足りず愚かであるばかりに、生んでしまった犠牲を。

「ご気分が優れませんか?」

 はっと我に返れば、華耶が心配そうに覗き込んでいた。

「いや…大丈夫だ。つい昔の事を思い出してしまって」

「お母さまのこと?」

「うん…それもある」

 この街の事を想う事は、母を想う事でもある。

 彼女が守り、己が手に渡してくれた、大切な街だ。

 馬車は止まった。

 まず朔夜が降り、続いて華耶が降りた。浮き浮きとした足取りで、嬉しそうに。

 その様を見て、唐突に実感した。戦は終わったのだと。

 反乱の戦だけではない。

 弱き人達の為に、無理解な権力と戦う、長年に渡る戦。その権力は、今この手中にある。

 華耶の笑顔は、これまでの苦労と失われた命への報いだった。

「陛下」

 華耶が白くほっそりとした手を差し出して、街へと誘なう。

 初めて母とここを訪れた、あの日のようだった。

 馬車を降りて共に並べば、まず子ども達が歓声を上げて寄ってきた。

 大人達はのんびりとした足取りで、子ども達の後ろから目を細めて様子を眺めている。

 華耶は子ども達の目の高さに屈み、一人一人に包んだ菓子を手渡した。

「まるで朱花様が帰って来られたようですな」

 いつの間にか医者先生が横に並んで、華耶と子ども達を見ながら龍晶に言った。

 否、万感の思いの込もった独り言だったのかも知れない。

 過ぎし日を知る大人達は皆、同じようにこの様を見ているのだろう。

 龍晶もまた、それは同じだった。

「先生。近々、母の墓参に北州へ行こうと考えています」

「ああ…それは良い。朱花様が喜ばれましょう」

 華耶は子ども達に囲まれて話し、時には頭を撫で、肩を抱いた。

 皆、笑顔だった。

「先生に生きて母を救えと諭されてから今日まで来ましたが…結局、救えなかった」

「出過ぎた事を申しました。お許しください」

 龍晶は首を横に振った。

「あの言葉は俺を救ったんです。母を救う事は出来なかった…でも、再び会う事は出来ました。生きていて良かったと、今初めて思います」

 いつ投げ出しても良い命だと、信じて疑わなかったが。

 多くの偶然か奇跡が重なって、ここまで生き抜いた。

 この光景を見る為だったのかも知れない。

「それを、是非、朱花様にお伝え下されませ」

 龍晶は頷いた。

 顔を上げた視界に、一本道の遠くで佇む少年を見た。

 傷と痣だらけの裸の上に一枚の襤褸切れを纏って、眩しげにこちらを見ていた。

「陛下?」

 訝しげに呼ばれ、視線を一度外した後には、もう居なくなっていた。

「如何致しましたか?」

 いや、と小さく呟いて。

「ここに置き去りにした己の生き霊を見た」

 先生は更に訝しげに見詰める。

 苦笑して首を横に振り、龍晶は言った。

「この街の名を改めねばなりませんね。このまま貧民街と呼ばれては、王を育てた街として相応しくはないから」

「そんな大それた事は…。皆、あなた様をお慕いしておるだけです。しかし、名を付けて頂けるのなら喜ばしい事です。して、何と?」

「救民街…ではどうでしょうか。貧しい者傷付いた者を救う街として、王府の直轄地とする。協力して頂けますか」

「勿論です。この老体に出来る事は、何でも致します」

 街をぐるりと見渡すと、真新しい白い住居が並び、子ども達が笑いながら走り回り、体に不自由な箇所を抱える者達は安息の笑みを浮かべている。

 母から渡された夢は叶った。

 かつて全てを失い貧民街の孤児となった少年は、今この国の全てを持つ王となった。

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