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薄暗がりの中に突如として現れたのは、髪が真っ白になるほど歳を取った男性の顔だった。老いは一見にして分かるその皺の波。
だけど、老衰とは無縁なほどに獰猛に血走った目が、瞬きもせずにぼくを凝視している。かと思うと、老人はいきなり黄色い汚い歯を剥き出しにして、ぼくの首元に目がけて何の躊躇いもなく襲いかかってきた。
「うわあァツ!」
と、ぼくは情けない悲鳴を上げながら、身をよじらせた。すると、ドスンと音を立てて、ぼくの身体が床へと落ちる。
どうやら、ぼくはベッドに横になっていたらしい。いつの間に、僕は眠っていたんだ。そんな疑問が頭に過ぎったが、それに構っている暇は残念ながらなかった。
「おぉああぁッ!」
と、老人は獣のような雄叫びを上げて、再びぼくに飛びかかってきたのだ。ぼくは反射的に足で追い返す。枯れ木のように軽い老人の身体は、それだけで部屋の端へと吹っ飛んでいった。
歳を考えない人間の惨めな襲撃の結末に、罪悪感がぼくの心の中に立ち込める。だけど、そんなものは杞憂だ、と老人は実にエネルギッシュに立ち上がり、短距離走者のような勢いでぼくに走りかかってきたのだ。
「うおおぉッ! 何じゃぁ、こいつはぁッ!」
ぼくも急いで立ち上がり、手近にあった杖で襲撃者の頭を思いっきり叩いた。ゴキッという鈍い音と一緒に、何かを割ったかのような感触が、確かにぼくの手に伝わる。
こういう場合は、正当防衛とでも言うのだろうか、それとも緊急避難とでも言うべきなのだろうか。咄嗟のことだっとはいえ、滝のように血を流す老人の頭に、ぼくはいよいよ後悔を覚え始めた。
だけど、あろうことか、何と老人はそれでも倒れずに、ぼくにまた襲いかかってきたのだ。ぼくが持っていた杖を掴み、老人とは思えない力でぼくを抑え込み、黄色い汚い歯で必死にぼくに噛みつこうとする化け物。
ここに至って、ようやくぼくは老人が人間ではないことに気がついた。このままでは、ぼくは映画やアニメの端役みたいに、目の前の敵の餌食となってしまう。化け物の涎がぼくの首元にかかると、いっそうそれは否定しがたい現実となって降りかかってきた。
「駄目だ! もう助からない!」
諦めにも似た気持ちと一緒に、そんな言葉が頭の中で木霊する。しかし、化け物に杖を掴まれ、壁へと押しやられたところで、ぼくの腕に何かの液体が入ったガラス瓶がぶつかった。
こんな状況で、何をするでもなく棚の上で呑気に鎮座しているそれは、成るほど、確かに頼りない。だけど、ボウリングのピンのようなその形状は、何とも手に持ちやすいことも確かだ。
ぼくは何を考えるでもなく、その瓶を掴んで化け物の頭を叩いた。すると、ガシャンと儚い音と共にガラスが空中へと砕け散り、そして中に入っていた液体が化け物に降り注いだ。
化け物相手に、こんなことしても無意味だろう。ぼくは何て馬鹿なんだ。行動し終えてから、ぼくはそのことに気がついた。でも、不思議なことに、そこからの変化は如実で、それでいて急激なものだった。
「ぎゃあああぁぁぁッ!」
と、化け物が急にもだえ苦しみ始めたのだ。見てみれば、さきほど浴びた液体の箇所から火が吹き上がり、化け物を灰に変えていっているではないか。
そしてその炎は逃げ回る化け物にまとわりつくように決して離れず、まるで燃料を得たかのように煌々と激しく燃え上がった。老人だったものが燃やし尽くされ、灰になるのには、そう時間がかからなかった。
「……一体、何なんだ?」
焦げ臭い煙が漂う中、ようやく静かになった部屋で、ぼくはペタリと床に座り込み、ようやっとのことで呟いた。