お題の小説 生きる→祈る でハッピーエンドで終わる
おもいところがあります。でも目をそらさないで見ていただけたら嬉しいです。
生きる幸せ。それが何かあまり分かって居なかった。
私は何気ない日常を歩んでいた。
毎日繰り返される起床と就寝。
毎日揺られる電車の中、
毎日見てきた建物達、
いつも声をかけてくる仲間、
毎日綴る日記とその中の落書き。
あとは少しづつ内容の変わるやるべきことと移りゆく季節、ゆっくりとしかし確実に変化していく人間関係と持っていた夢。それを何気なく見つめながら歳を食い死んでいくものと思っていた。
ある日前に受けた検診の結果が出た。
隠れた病があった。
言われた当初は驚いたが、「嘘かもしれない。どうせドラマで見る画像の取り違え。」そんなことを心のどこかでは思っていた。
しかし、その闇は着実に私に変化を与えていった。
心が歪む。
世界が歪む。
体が歪む。
人間関係までもが歪む。
その症状に襲われた時私は正気ではいられなかった。
周りに、当たり散らした。迷惑をかけた。恐怖させた。驚かせた。苦しめた。
そして、そんな自分に今までにないくらい絶望した。今までが嘘のように思えるほど不自由だった。
そんな死に至る病の中での光は愛する人たち。
彼らは一冊のノートを私に渡した。
「日記をつける、なんでも良い。他愛もないことでも大きいことでも。」
必死で書いた。ページを重ねるにつれこのノートと寿命が一緒な気がしてきた。
ノートをページを破りルーズリーフに貼り付ける。前の私ならそんな手の込んだことはしないだろう。でも、何故かできた。ある意味自由なのかもしれない。
ある日、急に胸が苦しくなった。病気のせいでは無い。感情の歯止めが効かなくなったからだ。
それまで生きたい感情も強かったが、少しだけ楽になりたい気持ちがあった。しかし溜まっていくノートの切れ端とルーズリーフを見て生きたい感情しかなくなった。
はっきりした風景が滲む。止めどなく涙が溢れ口は塩っ辛さで一杯になった。変化の少なさに飽き飽きしていた頃の私はあまりに愚かだった。変わらないことが難しいそんな世界でなぜ変わることに憧れを抱いたのだろう。人を傷つけず、自分も傷つかない。そんな世界が良いはずがないことにこの時気づいた。傷つき傷つけられるのも生きる喜びではないのか?自分自身が周りから邪魔でいらない存在なんてなんであの時言えたのだろう。お荷物だと勝手に思い込んでいただけだった。生きたい気持ちと周りとの愛情、友情そして思い出。それだけでは語り尽くせない何かが私の目の前に溢れ、重なり、くっつき、私に語りかけてきた。
私が病床でやってきたことは無駄ではなかった。こんなに生きたいと思わせてくれるモノを作ったのだから。それはどんな激励の言葉より、どんな夢物語より分かりやすく実感の湧くモノだった。
この病と何年付き合っただろう。
「死ぬかもしれない」そう思っていた病は徐々に回復していった。
今も完全に治ったわけではない。時たまふっと症状が現れ私を苦しめる。しかしそれすらも生きている証だと私は思うから、私はそれらを受け止めることにした。
人間社会は儚く残酷だ。嫌われるかもしれない。痛めるかもしれない。苦しむかもしれない。明日死んでしまうかもしれない。
でも一方で確く優しい。好いてくれる。癒してくれる。支えてくれる。明日も新しい命が生まれる。
苦しい時ほど積み重ね。
そして僅かでも明日今までより明るく、生きる実感を生きて感じられることを私は心の奥底で祈る。
見てくださって有難うございました。
これから増えるであろう別作品も見ていただけると幸いです。