王座に座る者
どういう原理かはわからないが、景色のブレがなくなると俺は王座の間に立っていた。
一応体感したことを思い返してみると、まず外履きが消える感覚があり、次にスリッパを履かされた感覚。
その次に寝ていたベッドが起き上がり直立するような感覚。最後にアリンの手の感触がなくなって……、今に至る。
まあどうでもいいよね。
「しっかし、わらわも懐かれたものじゃ」
「む」
アリンは一緒に移動したはずなのに、すでに王座に座り脚を組み、右手で頬杖をついて俺に話しかけてきていた。
「わらわの後ろをついて回りおって。一度はあんなに凹んでおったのにのう?」
ニタニタと話を蒸し返す金髪ドリル。
おかげで聞きたいことを一つ思い出すことができた。
「そういえば、奴隷って言われてる人にも会わせてくれよ。どういう人なのか会ってみたい。同じ人間の人なんだよな?」
「あのな……。いや、おぬしの呑気さにかかれば、わらわも形無しじゃな」
さすがにズケズケと言い過ぎたかと心配したが、アリンは全然楽しそうなままだった。
「ま、もちろんあやつとも顔を合わせることになるじゃろう。じゃが、今は待て。元よりもう少し後で会わせるつもりじゃったのじゃ」
「むむ。わかった」
どうやら俺から言わなくても会える予定だったようだ。なら、その人のことは今はこれ以上聞かなくてもいいだろう。
「確認なんだけど、ここに今住んでるのは俺とおまえとニムさんマーレさん、最後に奴隷の人。それで全員なんだよな?」
「そうじゃな」
「それで、後一人おつかいに出ていると。結構大きな屋敷なのに、一人帰ってきても六人しかいないのか」
「わらわはもっと小さな屋敷でも構わんと言ったのじゃがな……」
「そうなんだ」
アリンはこの地に開拓者として降り立ったらしいが、その経緯を推測する場合、都落ちして仕方なくという理由も考えられる。
しかしさっきの台詞からも、何よりアリン本人が悲壮感を出していないことから、切羽詰まってどうしてもこの場所に来なくてはいけなかった説はなさそうだ。
「でも、掃除が大変そうだな、この屋敷。まあこれからは俺も頑張るけどさ」
「いや、意気込んでいるところを悪いが、この屋敷は掃除をあまり必要とせん。それに、マーレはおぬしが手伝いを申し出ても断ってくるじゃろう」
「えええ?」
俺が役立てそうな数少ない場面が、早くもなくなりそうだった。
「掃除が必要ないって、魔法がかかっているとか?」
「うむ」
「マーレさんが俺に手伝わせてくれないって、あの人が完璧主義者だから? 自分の仕事は自分だけで最後までやりたい的な?」
「ん、んんん? たしかにマーレは不精者ではないが、完璧主義というわけでもないぞ。適当に要領良くやっておるはずじゃ」
「そ、そうなのか。誤解してたみたいだ」
「そもそもあやつの本業は医家じゃよ」
「ぶっ、お医者さんだったのか!?」
「それを今の役目に無理矢理落とし込んでおる。まだまだ不慣れな部分は多いじゃろうな」
「はー……」
「完璧主義者というのなら、今の役目は受けておらんはずじゃからのう」
「なるほどなあ」
パーフェクトメイドさんかと思っていたら、まさかの女医属性持ちの新米メイドお姉さまだった。まあ、優秀な人なのは変わりないのかもしれない。
「でも、じゃあなんで俺を手伝わせてくれないんだ?」
「主や客の手を煩わせるのは己の恥、という考えじゃろ」
「ふむ……」
悔しいけど、ここに来たばかりの俺がお客様扱いされるのは理解できる。でも俺って下僕のはずなんだけどなあ。雑用とかも手伝わせてくれないのだろうか。
「そういえば、奴隷の人にも手伝わせてないの?」
「あやつの担当は、もっぱら風呂じゃな」
「お風呂か……」
仮に風呂も掃除が必要ないとしても、全自動でお湯が張られて入れ替えられてというようなお風呂ではないだろう。
水を汲んでお湯を沸かして……。魔法がどれくらい関わっているのかはわからないけど、重労働っぽくて奴隷という立場の人がさせられそうな仕事ではある。
でも、重労働だからって仕事させられているんじゃなくて、別の理由がちゃんとあってお風呂を任されているような気がするんだけど……。
と、そんな風な常識的であろう考察をしていた俺に、気がつけばアリンが人を小馬鹿にした笑みを浮かべていた。
「風呂と聞いて、早速何を想像しておったのじゃ?」
「……油断してたわ。おまえってそういうやつだったよなあ」
げんなりとしながら、黙り込むタイミングが悪かったかと反省する俺。
アリンは喜々として俺をバカにし続ける。
「ここには見目麗しい妙齢の女しか暮らしておらんからのう。おぬしが風呂に行く場合は、特に注意せんとのう?」
「え、俺以外みんな女の人だったの!?」
意外なアリンの発言に、ついつい声を上げて驚いてしまった。
一人で使いに出ている召使いさん。捕虜になって呪われて重労働をさせられているかもしれない奴隷の人。
偏見だったのかもしれないが、どちらも女の人だとは思わなかった。
そこで、またもやアリンがキラキラとした瞳を向けてきていることに気付く。
「おぬしは本当にわかりやすいのう。女ばかりの環境がそれほどまでに嬉しかったのか?」
「く……。自分の軽率さが恨めしい……」
心底後悔しながらうなだれる俺。
格好のオモチャとなった俺を、アリンが見逃すはずもなかった。
「誰と一緒に入るところを想像したんじゃ? ニムか? マーレか? それともまさか、わらわと入りたいとでも申すのか? さっきからわらわについて回っておるが、つまりはそういう意図があったのかのう?」
ギリギリと歯噛みしたくなるような、厭味ったらしい粘着質な口調。
アリンには他人の神経を逆撫でする才能があるのだろうか。悪魔を自称するだけのことはある少女だった。
「いやいや、業の深そうなおぬしのことじゃ。まだ会っておらぬ者も含め、皆を侍らせて中心で悦に浸りたいのかもしれんのう?」
いい加減、俺もブチ切れた。
「なに当然のように自分を含めてるんだよ。おまえはたしかに見た目はいいかもしれないけど、性格は最悪じゃん。俺は気持ちのほうが大事だと思うから、おまえなんてこっちからお断り――」
と、そこまで言ったところで、アリンが無垢な少女のような微笑みで首を傾げたのがわかった。
「あ、か、勘違いするなよ? いえ、誤解しないでくださいアリン様。あなた様のような高貴な御方と一緒に入るというのは、実におこがましいという意味でして――」
「まあ良い」
「ふぎゃぁああああああ!」
まあ良いと言いながらも、しっかりと電撃は撃ち込んでくるアリンだった。今までで一番の威力だった気がする。
俺は全身を焼かれ、床に倒れ込んだ。しばらく回復してくれないかと思ったが、あっさり魔法は飛んできて、いつものように過剰に癒やされた。
「いてててて……」
実際には痛みは微塵も残っていないのだが、俺はそう言いながら体を起こす。
すると、怒ったような笑ったような不思議な表情を浮かべたアリンと目が合った。
「ふむ。必要以上にわらわに怯える姿もつまらんが、かといってわらわに反抗的すぎるのも考えものじゃな?」
「ご、ごめんなさい」
謝る俺に、アリンが笑う。
「そう従順な姿も嫌いではないのじゃが、もっとこう、自然にわらわのことを敬わせることはできぬものじゃろうか」
下僕をどう料理してくれようか。そんな感じで何かを企んでいくアリン。
さすがに言い過ぎたかなと思っていた俺は、おとなしく黙ってアリンの話の続きを待つ。
「んー、そうじゃな……、おぬしには一度わらわの実力を見せておいたほうが良いかもしれんのう?」
俺そっちのけで、一人ブツブツとアリンは話を進めていく。
またイタズラされてしまうのだろうか。そんな考えが浮かび、俺は気分が沈んでいった。
「うむ。実際に奴隷のあやつにも会わせて、わらわの呪いを見せつけるのも面白そうじゃな。そうするか」
どうやらアリンの悪巧みは何をするのか決まったようだ。
彼女はゆらりと王座から浮き上がる。仁王立ちをしているわけでもないが、貫禄を感じさせるように宙に立つアリン。
「くっくっく……」
邪悪そうに、薄気味悪く、凄惨にアリンは笑った。そして、彼女はそのまま目を閉じる。
俺への指示は何もなかった。待っていればアリンの実力とやらが見えるのだろうか。
「(痛いのは嫌だなあ……)」
アリンは俺に凄んできてはいたが、ぶっちゃけ怖くなかったと言うか、可愛げすら感じていた。
そういえば俺を殺すとかも言ってたよなあ、という感じで脳天気に構えていた俺。
考えていた不安はどれだけの痛みを与えられるかだけだった。それも、後で回復してくれるだろうと当然の事のように考えていた。
「(でも、いつまで待てばいいんだろ?)」
アリンは目を閉じたまま動かなかった。知らぬ間に微笑みもなくなり、瞑想をしているような姿になっていた。
何の変化もなく過ぎていく時間に、元々深刻に考えていなかった俺は緊張感を失っていく。
「えーっと、……アリン様?」
とうとう俺は恐る恐るではあるが、アリンに声を掛ける。
するとアリンはその声に反応し、パッチリと目を開いた。
「魔力の流れを感じることはできんようじゃな。こうなるまで何も気づかないとはのう」
「……一体何を言い出すんだ?」
唐突に話しかけられた言葉に、俺は眉をひそめて返事をする。
すでに実力を見せつけた後だと言うのだろうか。自分の両手を確認してみても、何も変わったようには思えない。
ただ、アリンの様子に呑まれてしまったのか、少しの寒気は感じ始めていた。
「もっと丁寧に練り上げてもよかったのじゃが、あいにく誰かさんのせいで疲れておってのう。ずいぶんと雑な具現化じゃが、まあ許せ」
「だから、さっきからおまえは何を言って……」
俺の話を遮り、アリンは微笑む。無理に背伸びをしているようには見えないのに、小さな姿には不釣り合いなほどの妖艶な微笑みを浮かべていた。
「さあ、わらわの力のひとかけらを見せてやろう」
その言葉の、直後だった。
アリンの小さな体から、黒い炎のようなものが吹き出す。まるでアリンが爆発してしまったようだった。
直後に不可視の突風のような衝撃が俺を襲う。それでも俺は、アリンの突然の変化に目が離せなかった。
「え、え……?」
戸惑いの声を上げながら、それでも俺は本能的に後ずさった。
アリンの輪郭が陽炎のように揺らめく。彼女の赤い瞳が爛々と輝き、その陽炎の中で彗星のように淡い軌跡を描き続ける。
黒い炎はますます色濃く燃え上がり、すべてを飲み込んでしまいそうな闇色へと昇華しつつあった。
アリンが漆黒の炎を纏い覚醒してしまった。
真っ白になっていた俺の頭では、そうとしか思えなかった。
輝く赤い瞳が、俺を捉える。視線を感じただけで、俺の心臓は剣を突き立てられたように苦しくなった。
「さてどうじゃ。この程度でも、おぬしには惚れ惚れするほどの力強さじゃろう?」
それは、部屋の空気すら変わったというべきか。
とんでもない圧力がアリンから発せられていた。
相対しているだけで、魂が凍え膝が震える。
自分の本能が、自分の命そのものが、逃げろ逃げろと警鐘を鳴らし続けていた。
「は……、は……、は……」
まばたきする間に、俺は呼吸すら覚束なくなっていく。
思考はすでにまともに機能せず、ただひたすらに怖いという感情のみを生み出す。
絶対的で絶望的な恐怖が、俺を完膚なきまでに縛り付けていた。
「くっくっく。実に良い表情じゃが、そろそろ目を覚ませ。わらわに脅されてもなお、馴れ馴れしく接してきておったおぬしはどこへ行ったのじゃ?」
アリンが笑う。俺をバカにしたニヤニヤ笑い。怖くなくなっていたはずの、金髪ドリルの笑顔。
だが、俺は動けない。完全に理性が本能に食いつぶされていた。
野放しの猛獣に迫られているような、鋭利な刃物を眼前に突きつけられたような。
あるいは、透明度の低い巨大湖を生身で泳がされているような、右も左も分からない真っ暗闇に一人で放置されているような。
高所恐怖症の人がどんなに愛しい人に誘われても崖に立てないように、理性では制御しきれない恐怖が俺を支配していた。
「ほれ、いつまで縮こまっておるつもりじゃ。一度落ち着いて息をしてみよ。この力はおぬしに害を与えるものではないのじゃぞ?」
笑いながら、アリンがゆっくりと宙を漂い俺に近づいてくる。
しかし俺は、荒い息を上げ奥歯をガチガチ鳴らしながら彼女から距離を取る事しかできなかった。
その声を聞くだけで、全身の筋肉がつぶれて引きちぎれてしまうように緊張する。何を言っているのかなんてわかるはずもなかった。
そんな俺を見て、アリンがいい加減しびれを切らしたように苦笑を浮かべる。
「おぬし……、はぁ、まあ良い。今回だけは特別じゃ。わらわが目を覚まさせてやろう」
金髪ドリルが微笑む。表情だけを切り取るなら、それは彼女がたまに見せる優しい微笑み。
アリンは落ちてくる何かを受け止めるように左手を顔の前まで上げると、その手のひらに真っ黒な炎を生み出した。
アリンは悪魔だ。
厳密には違うのかもしれないが、似たようなものじゃろ、とは本人の談。
そんなアリンが、まるで天使のような振る舞いを見せる。
手のひらに生み出した炎越しに、俺を優しく見つめるアリン。
彼女はその手を、炎を俺に向けて。
口づけをするように唇を細めて。
「ふーっ……」
優しく息を吹きかけた。
たとえ怖気がするような真っ黒な炎を纏っていても、こちらに伸びてくる吐息の残滓が闇をも溶かす底なしの暗闇だったとしても。
その姿は、まさに祝福を与える天使の、いや、女神ともいえるほどの神々しさだった。
吐息に乗り、炎が優しく俺に迫る。
だが、このとき俺は。
アリンの絶対的な力の前に晒され、恐怖に縛り付けられた俺は。
「うわぁああああああ!」
無様にも尻餅をつくことで、その炎をやり過ごしていた。
「……あ……」
こぼれたつぶやきは、アリンの声だった。
しかし同時に、俺の心の中でも発せられたものだった。
炎は行き場を失い、宙に消えた。
部屋は静寂に包まれ、アリンは息を吹きかけた姿のままで固まっていた。
「……く、くくくく」
やがて部屋に、突如くぐもった笑いが響く。
アリンは目を閉じ体を折るようにして笑うと……、直後に大きく天を仰いだ。
「はーっはっはっはっは!」
大声で笑う金髪ドリル。黒い炎に包まれる中で、彼女の綺麗な白い歯が際立った。
アリンの感情の高ぶりに比例し、周囲の炎が一層激しく燃え上がる。
再び暴風のような衝撃波が部屋を駆ける。
俺は反射的に片手をかざし半身を背け、祈るような気持ちで耐え続けた。
だが、その猛威は一瞬だった。
「……ふっ!」
短く声を発し、アリンが左手を薙ぎ払う。
すると、一瞬でアリンの全身を纏う炎が左手に収束する。
小さなブラックホールを連想させるような黒い球体が、アリンの左手を覆った。
アリンはそれをゆっくりと体の前に持ってくると、勢い良く握りつぶすようにかき消した。
「…………」
気がつけば、嵐は過ぎ去っていた。
アリンが音もなく床に降り立つ。
無言で俺を見るアリンと、尻餅をついたままの俺。
やがてアリンは不敵に笑うと、俺に向かって歩き始めた。
「我ながら情けない話じゃ。どうやらおぬしに会ってからこのかた、わらわは地に足が着いておらんようじゃの」
ぺた、ぺたん、ぺたん。音もなく歩いてきていたアリンだったが、王座の周囲の絨毯を越えたところで足音が鳴り始める。
「今回も抑えたつもりじゃったが、またもやり過ぎてしもうたかのう。おぬしに舐められまいと気張ったところがあったのやら」
くくく、とアリンが笑う。
彼女は俺の側まで歩いてくると、無言で左手を差し出してきた。
「ほれ」
手を差し出し、一言アリンが言う。
優しい表情だった。俺をバカにすることも蔑むこともなく、純粋に気遣ってくれているような表情だった。
未だ床に座ったままだった俺は、アリンのその表情を見上げることとなる。
次いで、その差し出された左手を見た。白くて細くて、女の子らしい指だなと思った。
「……くっくっく。これは時間がかかりそうかの?」
ぼう然と指先を眺めていた俺は、頭に降ってきた言葉で顔を上げる。
困り笑顔で手を引っ込めるアリンの姿を見て、そこでやっと、差し出された左手の意味を理解した。
「あ、悪い――」
追いすがるように、アリンの手を求めて体を起こそうとする俺。
ようやく、ようやく思考が回り始めた瞬間だった。
しかし、俺とアリンの間を裂くように、部屋にバタンという大きな音が飛び込んでくる。
アリンが力を誇示した理由は、俺を脅すことともう一つあった。
そのもう一つがやって来たのだ。