花開く
魔法陣を完成させたルーシェは、足元に注意しながらもすぐにこちらへと駆け寄ってくる。
俺からそんな彼女に声をかける。
「おつかれさま。こんなに立派な魔法陣を描いてくれたってだけで、もう俺的には大感謝だよ」
「ふふん。なに言ってるの、あなたが私に感謝するのはこれからよ。頑張ったんだからね? 危ない目に合わせないようにするのはもちろんのこと、この魔法陣にはあなた向けの秘密が隠しているわ!」
ルーシェは人差し指を俺に突きつけるようにして、とても嬉しそうな笑顔で言い放った。
「……なんかもう、もはや感謝どころか感動ものなんだけど」
「だから、感動するのも早いわよ。この魔法陣はあなた向けって言ったでしょ?」
可愛らしいドヤ顔で、ルーシェは説明を続ける。
「魔法の最後には天に昇る大きな柱が生まれるんだけど、ちゃんとあなたにも魔法を使っているっていう実感がわくように、その天に昇る柱の色をあなたの意志で好きなように変えられるようにしてみたんだから!」
「……おおー……」
俺は彼女の言葉に、少し抑揚のない声で答えた。
しかしそれは無感動だったからではなく、感動しすぎて声が出てこなかったからだ。
「いやあ……、本当に感動した。ありがとう、ルーシェ」
「……成功するかどうかわからないけどね」
ルーシェは表情を、困ったような憂いを帯びた笑いへと変えていく。
「これは、その実験なのよ。あなたは魔力を持ってないし、魔力の流れもほとんどわからないけど、でもそれは、魔力を操れないということと等しく繋がるわけではないはずよ」
勇者の言葉は、俺の頭に稲妻のような衝撃を走らせた。
彼女が言っているのは、俺は魔力さえ得ることができれば、魔法を使えるようになるかもしれないということだ。
彼女はちゃんと、俺が魔法を使えるようになるために試行錯誤してくれていたのだ。
「だから、この魔法陣は極力あなたの意志を伝えやすいようにしてみた。頑張って、魔力を操ってみせてね?」
「……おう! 頑張ってみる!」
ルーシェは俺の意気込みに、もう一度弱々しく笑った。
俺は早速、彼女に問いかける。
「ここに立って念じてるだけでいいのか?」
「……基本的には、そうだね。大きく位置を変えなければ座り込んでもいいよ。地面だからオススメしないけど」
「わかった」
ルーシェは未だに憂いを帯びた微笑のままだ。
その理由はわかる。
俺向けにお膳立てされたこの魔法陣。これで魔力を操れなかったら、俺には現時点では魔力を操る能力すら持っていないことになってしまう。
ルーシェは、辛い現実を突きつけることになるかもしれない、と心配しているのだろう。
俺は笑って彼女に言った。
「さあ、今度こそ俺の初めての魔法になると言えるんじゃないかな? それともやっぱりルーシェの魔法をちょっと変えるだけで、俺の魔法とは言えないかな?」
ルーシェも笑って、そしてつぶやいた。
「あなたってやっぱり強い人ね。わかった。私も心を決める」
ピンク髪の勇者は、再び人差し指を俺に突きつける。
「じゃあ、柱の色の変え方……、ううん、魔法の使い方の基本となる教えを言うわよ!」
「待ってました!」
「私も師匠に聞いた言葉だから! 短いけど超有名な一文なんだから、心して聞きなさい!」
「おう!」
そうして俺は、魔法の使い方に触れる。
「魔法とは意志の力である! 自らの魔力を礎に、ときに周囲の魔素に働きかけ、自らの意志を具現化する方法である!」
人差し指を手のひらに変え、彼女は芝居がかった口調で語り続ける。
「精神を研ぎ澄まし、魔力を練り上げよ! 己の意思を意志に変え、魔力に託し解き放て!」
ルーシェは一息つくと、手を下ろした。
なんとなく俺は、彼女に拍手を送る。
「カッコ良かったけど、内容は単純……、と言ってもいいよね?」
ルーシェはそれをあっさりと認める。
「そうね。元々は若い学生向けの演説だったようだし」
「ほほう」
「今では基本を疎かにしないようにって意味で使われてるわ」
「なるほど」
俺は頷くと、自分なりに噛み砕いた解釈を言う。
「要するに、気合を入れて精神を集中させて、想像しているものを念じ続けろってこと?」
「うん、それでいいと思う」
「ずいぶんと簡単なんだな」
「ふふ。さっそく疎かにしてない? 魔法とは意志の力。基本を軽んじちゃダメよ?」
「わかった。肝に銘じとく」
俺は心に刻みこむように「意志の力、意志の力……」とつぶやいた。
ルーシェがそんな俺に、優しげに話しかける。
「これで準備は整ったわ。でもね、この魔法陣はあなたの助けになればいいと思って描いたけど、純粋に輝く光を楽しんでもらうだけでもいいから」
「わかった! ありがとう!」
「うん……。じゃあ、始めてもいいかしら?」
「お願いします!」
ルーシェは微笑むと、軽く目を閉じ何かをつぶやき、そして最後に俺の胸をトンと人差し指でノックした。
魔法陣に命が吹き込まれる。ルーシェはまたも足元に注意しながら、小走りに陣の外へと出て行った。
それは、あたかもドミノ倒しが進んでいくかのような光だった。
俺を起点として、青白い光がゆっくりとルーシェの描いた魔法陣を点灯させていく。
複数の光が同時に進んでいるので、すべてを目で追いきれない。それが残念に思えるほど見事な光景だった。
「(これ、俺のために作ってくれた魔法陣なんだよなあ……)」
幻想的な魔法陣の中心に自分が立っているという事実は、俺の胸を打った。
気恥ずかしさと申し訳なさと、そしてなにより嬉しい気持ちで心が一杯になる。
「(さあ、そろそろすべてに光が灯る……。いよいよ魔法が始まるのか)」
最後に残った二つの光が魔法陣の外周を走り始める。それが合わさった瞬間、魔法陣は虹色に光り始めた。
「えっ!?」
声を出して驚く俺の目の前で、いつしかポツポツと七色の球体が浮かび上がってくる。
魔法陣から生み出される色とりどりの球体。大きさも色もバラバラだったけど、それらは決まって宙を漂うと、やがて俺の体に吸い込まれていく。
とうとう俺は、ルーシェへと振り返る。
あのピンク髪の勇者は、俺の視線を受け取った瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「隠してたけどねー! 魔素を集めて魔力として可視化する魔法陣でもあるのー! それならあなたも魔力の流れがわかるんじゃないー?」
ピンク髪の勇者の、サプライズだった。
俺は彼女を見ながら頭を掻くと、再び前を向いた。
「(今だけは、雨は降らないでくれよ)」
俺は両手を握りしめると、しっかりと目を開いて自分の体を眺める。
たくさんの球体が、俺の心臓辺りへと吸い込まれていっていた。自分の上半身くらいある大きな青の球体が流れてきても、胸の近くに来るとみるみる小さくなって最後には体に飲み込まれていく。
しばらく球体が流れ込む様を眺め続けていたのだが、ふと体が熱を持ち始めているのではないかと思えた。
意識を集中してみると、たしかに体の中にわずかな熱のようなものを感じる。それはほんの僅かな変化だが、徐々に大きくなって加熱もしているようだった。
「(魔力の流れ、わかるかも)」
気がつけば、それは相乗効果なのだろうか、俺の体が球体を吸い込む速度が目に見えて速くなっていた。
体の中の熱もどんどんはっきりと感じられるようになってきている。
「(ルーシェには大感謝だな)」
吸い込む球体が大きければ大きいほど、たしかに体に感じる温かさが増えている。
感じることができないほどのわずかな違いでも、今追加されましたよという視覚的フォローがあればわかりやすい。
やがて俺は目を閉じる。瞑想を始める。
せっかくのルーシェの魔力の可視化だが、それももう必要なくなった。体でしっかりと魔力と思われる何かを感じ取っていたし、そもそも球体がとめどなく流れ込むようになってきたので目が追いつかなくなってきたのだ。
ここまでしてもらったのなら、絶対俺も魔法を使えるようになりたい。そういう気持ちが芽生えてきた。
過度なプレッシャーを感じるわけでもなく、自然体で手助けに応じたいという気持ち。
思えば俺は受け取るだけで、こちらからは何も返せていない。
自然と握りこぶしがきつくなる。俺はこの世界で何が出来るのだろうか。
会ったばかりだというのに、俺に色々してくれる屋敷の住人たち。
勇者のルーシェはちゃんと俺のことを考えて色々と親身になってくれている。立派な魔法陣も描いてくれた。
悪魔メイドのマーレさんは、俺が凹んでいるときにすぐに助けてくれた。彼女が俺の味方をしてくれると言ってくれたときは嬉しかった。
猫耳のニムさんには、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。今はまだ少ない接点だけど、そのとき受けた恩に、俺はまだお礼を言えないでいる。
そして、金髪ドリルのアリン。本気でムカつくこともあるけれど、彼女には色々と教えてもらったし、さり気ない気遣いもたくさん受けてしまった。
と、皆のことを思い浮かべながら精神を集中させていると、集まっていた魔力が一斉に空に飛び出ていきそうな気配を感じた。
俺は慌ててそれを体に押し止めようと思い浮かべる。最初はなかなか上手くいかなくて魔力を逃してしまいそうになったが、魔法を使いたい一心で俺は暴れる魔力を押さえつけた。
無我夢中の行為ではあったが、やがて思いが通じたのか魔力は動きを止めて俺の体に留まってくれた。ルーシェの短い悲鳴は、集中していた俺には聞こえなかった。
ホッと安堵する俺。そこで俺は気が付く。自分は魔力を操ったんだと。魔力の流れに続き、魔力の扱いも一歩を踏み出したのだと。
胸に喜びが溢れた。魔法。不思議な力。
それを俺も使えるようになれば、みんなにできる恩返しの幅も広がるだろう。やりたいことが次々と頭の中に思い浮かんでくる。
食材探し。畑の開墾。家事の手伝い。お風呂はまだ見てないけど、改良できる点があれば改良したい。猫耳なあの人が海魚が好みだというのなら、海を探して大冒険にも出てみたい。
あっという間に途切れることなく未来への希望が広がっていく。
ヤバげな生物が存在するこの魔界では、俺は屋敷から出歩けない。魔法が使えるようになってせめてそれらから逃げ出すことができるようになれば、たったそれだけのことでも世界は広がるだろう。
やっぱり魔法が使えるようになりたい。このルーシェの魔法陣で何かを掴みたい。
幸いにも、俺は歩みを始めている。ほとんど進んでないと言われるかもしれないけど、アリンは頑張れば魔法を使えるようになると言ってくれたんだ。
このまま努力を続けていれば、俺は――。
「――ル! ハ――! ハル! ハル!」
と、夢から呼び覚まされたように、俺の思考は中断させられた。
俺はルーシェの叫び声で目を開く。どうにも、自分の世界に閉じこもり過ぎていたようだ。
なぜか切羽詰まったような彼女の声。俺は彼女のほうを振り向こうと思ったのだが……。
その前に目に飛び込む異常な光景に、俺は言葉を失った。
あれほど幻想的だった光景が、一変していた。
虹色に光っていた魔法陣が、壊れたネオンのように不気味な点滅を繰り返す。
視界を埋め尽くすほどあった綺麗な球体が一切見えない。代わりに、何やら放電のような閃光のような光がバチバチと音を立てて魔法陣の上を飛び交っていた。
今もまた、すさまじい放電のような現象がすぐ近くで起こる。思わず顔をしかめてしまったが、俺の瞳は正しく放電の中心を捉えていた。
放電を引き起こしていた原因。それは、握りしめた俺の右手だった。
「ハル! 聞こえてるなら右手を上げて! それを空に捨てて! 撃ち出して! 早く!」
ルーシェに言われ、俺は慌てて右手を天に突き出すように掲げた。
魔法は意志の力。俺は右手から魔法を撃ち出そうとイメージする。しかし、イメージは真っ白な衝撃でかき消された。
真っ白な衝撃の正体は再び起こった放電だった。その衝撃で下がってしまう俺の右腕。
撃てと頭の中で命令した瞬間に、爆発のような衝撃が生まれたのがわかった。まるで銃の暴発のようだった。
「ああ!? もう前でもいい! 撃って! 地面より上ならまだ助かる! とにかく早く!」
俺は言われた通り、再び意識を集中させようとする。
そこでやっと、自分の体が異常に発熱していることに気付いた。
右手も泥で塗り固められたように重く、押しつぶされそうな圧迫感がある。
早くと急かされていたので、今度は自分の腕を大砲の砲身に見立て、魔法を撃ち出すイメージをする。
左手を添えて、右手を水平――それより少し上に向けて、頭の中で命令する。発射。
すると今度は放電ではなく、爆発した。明確な、爆炎と爆風を伴う爆発だった。
右腕で発生した爆発に、俺は顔をそむけることしかできなかった。
だが、爆発が起こったというのに、不思議と壊滅的な痛みは感じられなかった。
視線を向けると、俺の服の右腕の部分がスーッと消えていく瞬間が見えた。
この服は、アリンが作ってくれたという魔法の服。俺はそれに守られたのだろうか。
だけど残念なことに右腕は露出した。次は、なさそうだ。
「ダメ! もう強く握ったままでいて! 私が行く!」
「ダメにゃ。もう完全に魔法陣は暴走してるにゃ。今異物が入ればどうなるかわかんないにゃ」
「止めないで! 離して! ハルが! ハルが! 今も力が膨れ上がってるの! 大変なのよ!」
ルーシェの声に混ざり、いつの間に来たのだろうニムさんの声も聞こえてきた。
どうやら魔法陣が暴走していて、俺は大変な状況らしい。
そして、俺も冷静さを失っていたようだ。彼女らに言われるまで、右手の重みが増し続けていたことにも足元の魔法陣から力が供給され続けていることにも気が付かなかった。
「ハルには基本しか教えてないの! たぶんあそこで困ってる! どうすればいいのかわからないはずなの!」
「ルーシェが落ち着かないと、ハルくんも焦っちゃうにゃ。ここからどうすればいいか教えてあげるにゃ」
「そんなに簡単に教えられるわけないでしょ!」
俺がのろのろしているせいで、ルーシェとニムさんが口論になってしまった。次がないだなんて言ってられない。
俺は歯を食いしばると、今度は右手を引き絞っていく。大砲がダメなら、空を殴り飛ばすイメージで撃ち出してやる。
そう思いながら、俺は冷静慎重を心がけ意識を集中させていく。しかし、無慈悲にも放電は発生した。今回は小規模だったが、それでも右手は一発でズタボロになった。
痛みと衝撃で膝を付き、右手を抱える。
途端に魔力の維持が大変になった。傷を切っ掛けに、不安や焦り、恐怖などで集中が途切れる。危ういところで保たれていたバランスが、一気に崩壊していく。
「(……クソッ!)」
空気が入りすぎた風船のように膨らんでいく右手の力に、俺は気力を振り絞って押さえつけるイメージをぶつけていく。
その努力は、辛くもギリギリのところで成功した。しかし同時に俺は、それを抑え込むだけで精一杯になってしまった。
「もうダメ! アリンを! アリンを呼んできて!」
「ダメにゃ。ボクがいなくなると、ルーシェは助けに入っちゃうにゃ」
「そんな! だ、だったら! 私が呼びに行く!」
アリンの名前が聞こえる。追い詰められていた俺は、その名前を聞いてホッとした。
絶対的な力を持つ彼女。彼女が来てくれれば、事態は解決するはずだ。
すべてを吹き飛ばして広場を元の静けさに戻し、俺の傷を癒やしてくれるのだろう。
そう考えるととても安心できて、そして――とても悔しかった。
「――ッ! 甘えるな、俺!」
魔法は意志の力。基本軽んずべからず。
なるほど。さっきから魔法が成功しないのは、たしかに当たり前のようだ。
俺には覚悟が足りなかった。甘ったれた俺は、最後はアリンがどうにかしてくれると考えていたのだ。
そんな腑抜けた考えで意志の力を引き出そうだなんて、我ながら情けなさすぎて笑えてくる。
俺は基本のことしか聞いていない。経験もない。どうすれば魔法を上手に使えるのなんてわからない。きっと足りないテクニックなどもたくさんあるのだろう。
しかも、今俺の右手に集まっている力は、勇者の名を冠するルーシェですら焦ってしまうような強力な力らしい。
そんな俺が強い力を制御して魔法を使うのは、いくら意志が強くても難しいことなのかもしれない。
だけど、諦めるのは嫌だ。
アリンがやって来て、皮肉げに俺を罵りながらも心配してくれて。ルーシェにはごめんなさいと本気で謝られて。そんな光景なんて絶対に見たくない。特にルーシェには、これ以上の後悔なんて絶対にさせたくない。
「うぉおおおおおお!」
雄叫びを上げながら、俺は立ち上がった。
体を無理矢理動かしたことで、放電と爆発が激しくなる。
だけど、かまうものか。魔法が意志の力だというのなら、俺は愚直に意志の力で魔力をねじ伏せてやる。
「ああああああ――ッ!」
俺は血にまみれた右腕を天に突き上げた。
天に光を突き刺すイメージ。俺は頭で想像しながら、行けと右腕に命令する。
右手は応えてくれなかった。すさまじい放電と衝撃が周囲を襲う。負けてなるものかと強い意志でそれを押さえつける。アリンの服が、どんどん裂けて破れ飛んでいく。
破滅的に暴力的な右手の力と、俺の意地とが激突していた。暴れ狂う力を無理矢理ねじ伏せ、行け、行けと命じ続ける。
やがて、ひときわ大きな閃光が生じた。その光は俺の目に刺すような痛みを与え、俺は反射的に目を閉じてしまった。
だけど俺はすでに見ていた。閃光の中、たしかに一筋の光が天に伸びていったことを。
「いっけぇええええええ!」
霞む目を精一杯見開き、俺は叫ぶ。
拮抗していたバランスは、今度は俺に傾いた。そして一度傾いたそれは、あっという間に大きな傾きへと変わっていった。
閃光が指向性を持ち始める。光が集まり、それらが天へと昇っていくのがわかる。
とうとう一本の柱となった光が、暗雲を貫いた。俺は自分のイメージ通り、右手から光の柱を撃ち出していた。
轟々と流れる光の奔流。軽くなっていく自身の体と、右手。まだかまだかと思いながらも、俺は力を込め続ける。
だけど、俺はやっぱり素人で。詰めを誤ってしまった。
順調に見えていた状況だったが、あるとき不意に、俺の右腕が負荷に耐えきれなくなったのかひどい痙攣を起こした。
「あぐッ!?」
予期せぬ激しい痛みに、俺は集中力を切らせてしまった。上手くいったという慢心もあったのだろう。
完全に力が抜けてしまい、握っていたはずの右手が解かれる。
俺は覚悟を決めて左手で顔を覆ったのだが……。
予想していた右手の暴走は、もう起こらなかった。
俺はボロボロになっていたけど、それでも及第点くらいは叩き出していたようだった。俺は、やり遂げていたのだ。
「は、ハル! すごい! すごいわ!」
気が付けば、右手の――いや、全身に集まっていた魔力をほとんど放出することが出来ていた。
今も魔法陣からわずかに力が注がれているのがわかるが、もう危機は脱しただろう。
「そこを動かないでね! 今魔法陣を止めるから!」
ルーシェがこちらに駆け寄って来ようとする。
そんな彼女に、俺は薄目で笑いかけた。
やっと終わった。これで一安心だ。
そう思って大きく安堵の息を吐いた瞬間、そのルーシェを制止する者が現れた。
「止まれ」
その瞬間、ルーシェの足がかなしばりにあったかのように動きを止める。
直後に空中が歪み、やがて言葉の主が現れる。勇者の体に、直接命令できる存在が。
「くっくっく。どうにも、おぬしは締まらんやつじゃのう?」
金髪ドリルの、大魔王アリン。
俺とルーシェの中間くらいに現れた彼女。黒いドレスに白いスリッパ姿で、宙に浮いていた。
彼女は俺に笑いかけながらも、同時に右手を軽く払う。すると、ルーシェの体が動き始めた。
「……アリン! フザケている場合じゃないのよ! 本当に本気で怒るわよ!」
ルーシェの怒鳴り声にアリンは一瞥をくれ、そして微笑みを絶やさず言う。
「まあ待て。せっかくのこやつの晴れ舞台なのじゃぞ? 最後までしっかり見届けてやろうではないか」
「……あなたは、何を言って――」
アリンはルーシェの言葉を最後まで聞かずに振り返る。
俺に向き直ったアリンは、やはり笑顔のままだった。
「さあ、褒美じゃ受け取れ!」
アリンが左手を振るう。地面に向けて何かを押し出すような動作。
その手から放たれたのは、赤いオーラに包まれた漆黒の球体。放たれた先には、ルーシェの魔法陣。
点滅も光量も弱々しくなっていた魔法陣は、しかし球体が着弾した瞬間、黒い火柱を噴き上げながら再起動した。
「ぐ、ぐああああああ!」
途端に俺の体に流れ込む、すさまじい力の奔流。
全身が焼けるような痺れるような、痛みのような快感のような感覚を覚える。
心音に合わせ、体中に脈打つように力が巡っていく。
「不格好と言えど、初めて魔法を成功させた褒美じゃ。ありがたく思うが良い」
「アリン……、あなたは……、一体何を考えているの……?」
「多少はおぬしの体の実験も兼ねておるが、まあ大丈夫じゃろう。おぬしは頑丈に出来ておるようじゃからのう。くっくっく」
ルーシェの言葉を無視し続け、アリンは楽しそうに話す。
俺は無言でアリンを睨みつけた。
「さあ、改めて見せてみよ。おぬしの魔法を」
「…………」
俺は、せっかく収まっていた事態をアリンが引っ掻き回したとしか思えなかった。
褒美を与えられたと言われても、体の傷が完璧に治ったこと以外は、厄介な魔力がまた体に宿ってしまったとしか思えなかった。
釈然としない気持ちで、俺はアリンを睨み続ける。
しかし、彼女はニヤリと獰猛に微笑み返してくるのみだった。
これは諦めたほうがいいか。俺はそう思い、せめてもの当てつけに苛立たしく息を吐いて空を見上げた。
そして右手を掲げようとした瞬間、アリンに言われた。
「たわけ。門出を迎えるというに、そんな辛気くさい顔でどうする。もっと笑わんか。くだらん思い込みで体の髄まで凝り固めておる場合ではないぞ?」
「……くだらない思い込み?」
アリンは笑う。大魔王としての笑み。
「決死の覚悟を秘めた魔法も良いじゃろう。それもおぬしの一面やもしれぬ。じゃがな、魔法を使う意志というのは覚悟からしか生まれぬわけではない」
俺は黙ってアリンの話を聞く。
「欲や望みが昇華しても、魔法を使う意志は生まれる。そしてその意志が、覚悟に劣るとは限らん。わらわとしては、能天気なおぬしにはそちらのほうが合ってると思うがのう?」
くくくと笑うアリン。
彼女の言葉で、俺の表情から強ばりが消えていく。アリンという存在を思い出していく。
「ま、いずれにせよ、わらわが手を貸してやったんじゃ。あくびをしながらでも具現化できるような状態であろう。難しく考えず、おぬしはおぬしの魔法を見せつけてみよ」
門出、褒美、晴れ舞台。
たしかに辛気くさい顔のままで迎えるのは、もったいない。
俺は不敵に、ニヤリと大魔王に微笑みを返す。
それを受けてアリンも笑い、そして言った。
「良い顔じゃ。特別に、さらなる褒美をくれてやろう!」
大魔王が、再び球体を撃ち出す。改めて火柱を上げて輝く魔法陣。
「ぐぅうううううう!?」
増える力の流入。破れた服が実体を取り戻すかのように再生していく。
でも、明らかに心臓が苦しくなってきた。鼻血が出そうなくらいの過剰なエネルギーが体の中に溢れているような感じだった。
「くくく。さすがのおぬしの体も限界のようじゃの。さあ、準備は整った。笑え、高らかに笑え我が下僕!!!」
金髪ドリルが、大仰な素振りで獰猛に微笑む。
視界の端に、玄関からニムさんがマーレさんを連れて出てくるのが見えた。
どうやら本当に準備は整ったらしい。
俺は彼女の言う通り、そして彼女を真似て、高らかに笑った。
「くくく……、はーっはっはっはっは!」
まだまだ先のことだと思っていた、自分の魔法。
それが早くも現実のものになろうとしていた。
もちろん自分だけの力で行うものではないが、それでも嬉しい。
この場に立たせてくれたみんなには、感謝の気持ちでいっぱいだ。
さあ、俺の魔法を見てもらおう。
空は暗雲に覆われてるけど、華やかな門出にしたい。
それも自分だけが楽しむものじゃなく、みんなが楽しい気分になれるものにしたい。
そのとき、赤黒く浮き上がる魔法陣を見て閃いた。
魔法を使う切っ掛けをくれたルーシェ。
彼女には心配をかけてしまったし、今も不安な気持ちで俺を見ていることだろう。
元は七色に輝いていた彼女の魔法陣。それは順当に最後まで進んでいれば、俺の意志で色を変える光の柱を生み出す予定だったらしい。その予定をぶち壊したのは、おそらく俺だろう。
なら改めて、それをやり直そう。七色に光る祭典を。
俺はこれから使う魔法を決めた。
ルーシェにありがとうの気持ちを込めて。そしてみんなにも、見て楽しいと思ってもらえるように。
暗い空を明るくする色とりどりのものといえば。門出に相応しい華やかなものといえば。あれしかない。
俺はチラリとルーシェに視線を送る。彼女は俺を見て怯んだような気がしたけど、大丈夫だと伝えるように微笑み返した。
そして前を向き、俺はゆっくりと右手を天に掲げる。
今度は握りこぶしではなく、精一杯開いた手のひらを。左手は右腕を掴みしっかりと補佐して。
俺は空に向かってアリンのように微笑むと、叫んだ。
「さあ、行けぇッ!!!」
右半身に衝撃を感じ、その次の瞬間、手のひらからわずかに光る光球が放たれた。
自分のイメージ通りに撃ち出せた。それは尾を引きながら空へ昇っていき、やがて見えなくなる。そのわずか後に。
ドーン!
大きな音とともに爆発が起こり、様々な色彩の光の筋が周囲に散った。
暗い空に咲く花。華やかな七色に光る祭典。花火だった。
今にも雨が降り出しそうな暗雲が背景だったが、その花火は、たしかな光で魔界の空を彩った。
俺は立て続けに魔法を撃ち出す。少し間を開けて、心地良い音が空に鳴り響く。
アリンの言った通りだった。みんなの笑顔を思い浮かべながら楽しい気持ちで撃ち出す魔法は、たしかに俺に合っている気がした。
落ち着いて感じてみれば、体の中の魔力の流れがわかる。体の中を巡っている魔力を、右腕に集めて、イメージを込めて送り出す。
「ははは……、ははははは!」
楽しい。魔法が使える。
魔界の空に、暗雲に包まれた空に、俺が魔法で花火を打ち上げている。
アリンの手助けと、ルーシェの教えと。二人のおかげで、俺は魔法が使えていた。
「はーっはっはっはっは!」
気が付けば俺は、高笑いをしながら何度も何度も魔界の空を彩っていた。
思いつく限りの種類の花火を。みんなが楽しく見ていてくれたらいいなと思いながら。
雨が降り始めるまでの間ではあったが、その日アリンの屋敷の空には、俺が来たという確かな証が打ち上げられていた。