二人きりの昼休み
一歩ごとに廊下を進み、キュッキュッと大きく耳障りな音が響く。
周囲の生徒がそれに気付いて振り返り、私、藤原麻衣の勢いに一様に驚いた顔をするけど、気にしてなんかいられない。
走り出したい気持ちを抑えて、私は目的の場所へ向かってひたすら前進した。
時々足がもつれそうになりながら、歩く生徒や先生達を辛うじて躱していった。
この廊下を一直線に進むと…見えた。
私は部屋の入り口の上にある『保健室』というプレートを確認すると立ち止まり、息を整えながらそろりと引き戸を引いた。
入った瞬間、ひやっとした空気が肌に触れる。
棚といくつかのベッドが並び、それぞれがカーテンで遮られている様は、まるで病院の一室を思わせた。
窓はブラインドが下りていて、適度に明るい日差しを遮っている。暑すぎず寒すぎない空調が心地よく、汗がすうっと引いていく。
これまで縁が無かったから知らなかったけど、流石に生徒数が多いだけあって、保健室の設備も整っている。私は思わず感嘆の溜息をついた。
…いや、今は学校の充実した設備に感動している場合じゃない。
軽く頭を振ってから引き戸を閉めて室内をぐるりと見回したが、保健の先生どころか誰もいないように見える。
近くの机を見ると、利用者名簿と書かれたノートがあった。入室した時間と、クラス・名前を記入するものらしい。
ページを捲ってみると、今日の日付のところにお目当ての人物の名前を見つけた。
『3-3 山本朱莉』
これ以降に名前は書かれていない。
私は顔を上げて、もう一度室内を見渡した。
「山本先輩、いますか?」
静まり返った室内に、私の声だけが響く。
もしかしてすれ違いになったのかと一瞬不安になった時、奥のベッドから声がした。
「…麻衣ちゃん?」
「はい!」
声のしたベッドに近付いてカーテンを引くと、そこにはベッドに横たわった山本先輩がいた。私の顔を見て、驚きに目を丸くしている。
見た限りでは、顔色も悪くないし目立つ傷もない。私は内心ホッと胸を撫で下ろした。
「よく私がいるって分かったわね」
「倒れたって聞いて、凄く心配になって来たんですけど…でも、良かった。見たところ元気そうで安心しました」
「たいした事じゃないわ、軽い脳震盪よ。クラスの皆とバスケをやってたら接触しちゃったの…まったく、大袈裟なのよね」
そう言って苦笑いしながら、山本先輩は身体を起こそうとした。
私は咄嗟に彼女の肩に手をかけ、慌ててそれを制した。
「駄目ですよ! もう少し安静にしていてください」
「もう平気よ」
「倒れたの、ついさっきなんでしょう? せめて昼休みの間だけでも休んでください。お願いですから」
本人が大丈夫だと言っていても、頭を打ったのであればしばらく安静にした方がいい。
私は掌に力を込めて、必死にお願いした。すると山本先輩は、「分かったわ」とベッドに押し戻されてくれた。私は安堵の息を吐き、掌の力を緩めた。
薄手の布団から腕を出し、それを胸の下あたりまで引き下げると、山本先輩はおもむろに口を開いた。
「麻衣ちゃん、お昼食べた?」
「はい。自分のクラスで食べてきました」
「そう、だったらいいよね。麻衣ちゃんもしばらくここにいて。一人でじっとしているのもつまんないし、何か話そう」
「分かりました」
無論そうするつもりだった私は、山本先輩の予想通りの様子に少しだけ笑みをこぼし、手近にあった椅子を引き寄せた。
腰を落ち着けると、私は改めてベッドに横たわる山本先輩を見た。
いつもは高いところにある視線が、今はやや見下ろす形となるのが何だか新鮮だった。
「なぁに、じっと見て」
「いいえ…えーと、何を話しましょうか」
「そうね……麻衣ちゃんの話を聞かせてくれる?」
「え? でも、一体何を話せば…」
「何でもいいの。いつも私から話をして、麻衣ちゃんはいつも聞き役に回るでしょ。たまには麻衣ちゃんの話が聞きたいな」
その口調がやけに甘く聞こえて、内心ドキッとした。
どうしよう、顔に熱が集まってきそう…。落ち着いて、私の心臓。
私は努めて何でもない風を装うと、会話を続けた。
「私の話、ですか。でも…本当に何でもいいんですね? つまらなくても文句言わないでくださいよ?」
「文句なんて言わないわ。私が聞きたいって言ったから」
何だか責付かれた気がして、私は話題を探すべく記憶の底をさらった。
なんだかんだ言いながら、話題は尽きなかった。
高校に入ってからの話だけでなく、中学校・小学校、果てはもっと小さな頃の事まで、私は思い出せる限りのエピソードを引っ張り出した。
話をしている最中は、こんな話を聞いて面白いんだろうかと不安に駆られたりもしたけど、山本先輩は興味深そうに聞いてくれた。
時折相槌や感想・質問を挟みながら、私の話に耳を傾ける彼女は楽しそうだった。
こうしてちゃんと話を聞いてくれて、私自身の事を知ってもらえるのはやっぱり嬉しい。それが好きな人なら尚更だ。
話題が変わるごとに語る口調にも熱が入り、気が付けばそろそろ昼休みが終わろうとしていた。
「わっ、もうこんな時間! そろそろ戻らないと。山本先輩、どうしますか?」
私は壁に掛かっている時計に目をやり、次いで山本先輩の方を向いて問いかけた。
すると、山本先輩は一瞬目線を彷徨わせ、ちょっと間を置いてから再び私を見て言った。
「私はもう少し、ここで休むわ」
意外な返事だった。山本先輩の事だから、すぐにでもここを出ていくと言うと思っていたのに。
さっきは平気だって言っていたけれど、やっぱりまだ具合が悪いんだろうか。
「麻衣ちゃん……」
「え……わぁっ!」
何やら柔らかい感触がして下に目をやると、何と彼女は私の身体をぬいぐるみのように抱き込んでいた。
ピッタリと密着されて、鼓動が徐々に早くなっていく。
冷房が利いてないんじゃないかと思うぐらい体温も上がり、こんな自分を正面から見られていると思うと恥ずかしかった。
「な、なんで唐突にこんな事を……」
「そんなに緊張する事ないのよ。私が倒れたと聞いてすぐ来てくれたんでしょ。心配かけちゃったわね……ありがとう」
山本先輩が優しく微笑む気配が伝わってきて、私は顔が上げられなくなった。
そんな私に気付いているのかいないのか、彼女は更に優しい声音でそっと囁く。
「それが嬉しくて、麻衣ちゃんの事をすごい可愛いなって思ったの。それに、麻衣ちゃんの話を聞いているうちに…離すのがもったいなくなっちゃった」
抱きしめる腕の力が強くなった。恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちがごちゃ混ぜになって、胸の奥がむず痒い。
色恋沙汰に鈍感なようで結構鋭い彼女には、今の私の気持ちはきっとバレているに違いない。……いや、私が分かりやすいだけかもしれない。
「麻衣ちゃん」
「…はい?」
腕の力がほんの少し緩められ、名前を呼ばれた私は反射的に顔を上げた。
冷房の風が、出来た隙間を縫って火照った頬を撫でる。
山本先輩は私の鼻先で、イタズラを仕掛けた子供のように笑った。
「ずるい先輩でごめんね?」
「…絶対ずるいと思ってないでしょう、山本先輩」
これ以上なりようが無いほど顔を真っ赤に染めて悔しそうに言った私に、吐息だけで笑いながら山本先輩は口づけた。額に、頬に、そして唇に。
本当に彼女は、ずるい先輩だと思う。だって、私が最後にはこうやって許してしまうのを知っていてやっているんだから。まあ、結果が分かっていていつも流されちゃう私も私なんだけど。
これがいわゆる惚れた弱みというやつだとしたら…仕方ないと思う。
どっちもどっちだなぁ、と苦笑いしながらその心地よさに目を閉じると、昼休み終了のチャイムが遅れて鳴り響いた。