書架
そこに初めて迷い込んだのは、一か月前のことだった。
本を探して広い図書館の中をうろついていたら、そこに迷い込んでいた。どうやって入ったのかは、自分でも覚えていない。そして、どうやって戻ってきたのかも、実は覚えていないのだ。
気が付くと、そこは温かい部屋だった。室温が温かいということではない。木製の書架、テーブル、椅子、閉め切ったカーテン、一輪の花。鉄とコンクリートの街が失ってしまったものが、そこにはあった。
「あれ、珍しいなあ。」
少年の声だった。誰もいないと思っていた部屋には、一人の少年がいた。柔らかそうな髪は、きちんと整えられている。頬は赤く、瞳には子ども特有の輝きがあった。
「迷ったんだね。」
まるで、何でも知っているかのように彼は言った。
「申し訳ないんだけど、僕にもわからないんだ、帰り道。」
この部屋には入口はない。そして、出口もない。帰る道は自分で見つけてくれ――もっとも、それは「自力でこの部屋から脱出してくれ」と言っているのではないことを、知っていた。
この部屋に迷い込めるのは、「何かから抜け出せない人」だけという話を聞いたことがある。柔らかな木の色に、私は癒された。とても落ち込んでいた。理由はよくわからない。あの日は、呆然と涙を流していた。何かが悲しくて、何かが悔しくて、何かが腹立たしかった。失恋したわけでも、特別悲しい出来事があったわけでもないのに、ただ、涙が流れた。無自覚だったのかもしれない。知らないうちに傷ついていたのかもしれない。
「泣きにきたの?」
彼は普通に尋ねた。
「無自覚って、そんなに怖い?」
怖い、とは答えられなかった。本当は無自覚ほど怖いものはないと思っているが、言えなかった。
「あ、別に何も言わなくてもいいんだよ。僕は喋っていたいだけだから。」
本当に喋っていたいだけらしく、彼は延々と本について語った。あの作家のあれが素晴らしいとか、この作家は好みではないとか、そんなに本を読まない自分には全く理解できない。そして、まだ帰り道とやらは見つからない。
「そういえば、これ読んだことある?」
「『ふたりのロッテ』? 題名しか知らないけど。」
「へえ。結構面白いんだけどなあ。」
彼は、私に本を差し出した。ケストナーの『ふたりのロッテ』。読んだことはないが、題名は忘れたことはない。
あれは、去年の夏だった。
去年の夏は、本当に暑かった。
家は風通しが悪く、冷房が苦手な私にとっては地獄に近かった。
そんな日に出会った、とある少女。病気であまり外に出られない人らしかった。
「あの、この本読んだことありますか?」
図書館で、冷たい空気にあたっていると、彼女に声をかけられた。その時彼女が持っていた本が、『ふたりのロッテ』である。何故私に声をかけたのかはわからないが、とりあえず読んだことはないと返事をした。
そこで私は思い出した。彼女は、写真でしか見たことはないが、私の従妹だ。きっと、彼女もどこかで私の写真を見ているのだろう。
それからしばらくして、母とともに彼女のお見舞いに行く機会ができた。彼女は、「また会いましたね。」と笑った。あの時から、私は彼女と文通をしていた。そういえば、最近返事が来ない。何かあったのだろうか。
「うーん……。原因、それじゃない?」
急に、少年が喋りだす。
「まあ、悩んでも始まらないよね。あ、とりあえずこれ、読む?」
そう言うと、少年は再び『ふたりのロッテ』と差し出した。彼女とそっくりの仕草だった。
「この書架ね、本当に読みたい人がいないと本を取り出させてくれないんだよ。ということは、君は今本当にこの本が読みたいってことだよね。僕は今ケストナーの気分じゃないから。」
少年は笑う。私は、その本を受け取ってみた。
「そういえば、一年前の夏にも、これを借りに来た女の子がいたね。ミュージカル見て原作読みたくなったみたいだけど、どうしてるかな。」
おそらく、それは従妹だ。どんな様子だったのかは気になるが、あえて訊かないでおくことにした。今から、確かめに行ってみよう。
「あ、出口。」
少年は、驚いている。
「目的、見つかったんだ。」
少しさびしそうに微笑むと、少年は手を振った。
あの子は今も、元気だろうか。




