病室
俺は、病院が嫌いだ。診察や注射が怖いなんてガキみたいな理由ではない。あの独特な白地の建物は世間と同じ空間にあるのに違う空間いわゆる隔離されているように思えるのだ。そこに居る者、訪れる者全てに対して世間の目が無いような哀しく切ない空間に思えるからだ。
「お袋さんによろしく。」省吾と楓が言う。
「ああ。いつも悪いな。今度また飯でも食いに行こうぜ。俺のオゴリでな。」
「いいね!じゃあ料亭に行ってみようぜ。」
「料亭?そんなもの何処にあるのかわからん。」くだらない会話をしている2人を見送り俺は病院の自動ドアの前に立った。アルコールの独特な臭いが鼻につく。
「こんにちは、春哉君。またお母さんのお見舞い?」俺はすっかり病院の常連だ。
「はい。いつも母がお世話になっています。」頭を少し下げ挨拶を交わしたあと七階にある母の病室へと足を運んだ。
母親の病室は702号室だ。母親が居るだけでその病室は俺にとっては家みたいな感覚さえ覚えている。あの荒んだ家庭なんかより・・・。
「よう。母さん元気か?」なるべく優しい声でゆっくりと引き戸を開けて挨拶をする。
「あら、春哉。また来てくれたの毎日毎日忙しい中ごめんね。」寝ていた体を起こして俺を出迎えてくれる。
「寝ながらで良いよ。」ベッドの横に備え付けられている椅子に腰を掛けながら言う。
「いいの。こっちの方が春哉の顔も良く見えるし、私も楽しいわ。」優しく笑いながら背凭れに寄り掛かる。本当に優しい笑顔ができる人だ。
母は、小さい頃から体の調子が良くない人だった。俺を生む時には、医師から猛反対されたらしいが、断固それを受けいらなかったそうだ。全くあんたらしいよ。
「今日、学校で何か面白い事はあった?」
母は決まって最初に話す内容はこれだ。
「相変わらずさ。いつもの面子につまらない授業の一日を送ってきたさ。」自笑するように言う。
「でも、今日の春哉は何だかとっても機嫌がよさそうよ。」母はニコリと笑いながら言った。
今日みた不思議な夢のことは、母に余計な心配をかけないためにも言わないつもりでいたが、どうやら顔に出ていたらしい。
朝起きて検査をして、暇なときは本を読むことしかできない母の日常を考えたら、心配をかけてしまうかと分かっていても、何か面白い話をしてあげたいと思う子供心を誰が責められようか。
「実はね・・・。」俺は、なるべく面白く、演劇をみせるかのように今日の出来事を母に語ってあげた。
「そんなことがあったのね。私も、その不思議な街に行ってみたいわ」と優しく俺に微笑んできた。
「母さん。絶対俺の言ってること嘘だと思ってるだろ。」眉間にしわを寄せながら言う。
「そんなことないわ。春哉が改まってする話に、今まで一度も嘘はなかったもの母さんは信じるわ」窓から差し込んでいる夕日で、血色がよくなっているように見える母の表情は分からなかったが、声だけで俺の話していることを信じていると分かった。
この人に、今の俺はどのように映っているのだろうか。
話していると気が楽になる。
入院していて、一番弱い立場にいるにも関わらず、俺が面倒を見てもらってどうするんだ。本当は、俺が面倒を見てあげなければいけないにも関わらず、俺は何もしてあげられない。弱い人間に、心の拠り所を求めるなんて、まともじゃないなと考えてしまう。そんなことボンヤリと考えているうちに窓から街のネオンが、ちらほらと見え始めてきた。
「そろそろ、帰るよ。面会時間も終わりになってきてるから」
「そうね。気を付けて帰るのよ」母は、外用の靴に履き替えながら言う。
「いいよ。いいよ。そのままで、また来るよ」必ずこのやり取りはしてしまう。俺は、母の優しさから逃げるように病室を後にした。
1階に降りるエレベーターに乗り大きくため息をつく。
帰りのエレベーターは、俺を非日常から日常へ強引に引っ張りだし、帰りたくもない家への道を容赦なく踏み出させていた。