今そこにある幸せ
見ているだけで何もできなかった…
声をかける事も動くこともできなかった…
緊張なんかではない、ただただ見とれていた。
見慣れない街の雑踏の中に立っていたその女性を、周りの背景がぼやけてしまうぐらいに見ていた。
会ったことも見たこともない女性だけど、心が動き、胸がざわつく感覚を確かに覚えた。
「おい、起きろ、こら春哉、授業中は寝るな!」妙に甲高い声を耳に、俺は今さっき見ていた夢と現実の狭間の中でいやいやながら机に伏せていた顔をあげた。
「はーい。すみませんでした。」
「あれは、夢だったのか…でも、やけにリアルな夢だったな。」そんな事を呟いていた俺に対して
「大丈夫?最近あんまり寝てないの?」
「そんな事ないよ、気にすんな。ただ…」
「ただ…?」覗き込んでくるように晴香は俺に聞いてきた。
「やっぱり、なんでもないよ。気にすんなよ。」
「そう、それならいいけど。」と晴香は言って、黒板をまた見始めた。
晴香とは俺の彼女だ。校内でも随一の器量を持っていて、後輩や先輩がクラスに見に来るほどであった。我ながら自慢のできる彼女だ。性格には多少難があるけれど、俺は、こいつ以外の女なんて考えられない…。
しかし、さっきの夢は何だったんだろう。会ったこともない女だったな…
カーテンを優しく揺らしている風が、妙に心地よく、何かを運んできてくれるのか?そんなくだらない事を俺は考えていた…
「はい、授業はここまで。春哉、予習しとけよ次回必ず当てるからな。」
「マジですか先生!勘弁してくださいよ。」このやり取りは定番だ。
「ったく春哉が寝てるからいけないんだよ、次の授業は起きてなよ。」晴香が怒りながら俺に言い放って教室から出て行った。
「春哉ぁぁ購買に行こうぜ!」元気よく教室中にこだまする声の主は、親友の神山省吾だ。
「うるせえよ、聞こえてるっての」
「なんだよ春哉ピリピリすんなよ、晴香ちゃんと喧嘩でもしたの?」
「してねーよ!購買いくぞ。」省吾は、はっきり言ってうるさい奴だ。事あるごとに俺に絡んでくる。だけど人一倍に仲間を大事にするという信念には、俺は尊敬さえしていた。
「ちょっと待てよ!俺を置いてく気か?」野太い声の主は、親友の音無楓だ。
「そんなわけないよ、早く行こうぜ!」省吾が振り向きざまに言った。
「ったく…」愚痴をこぼす様に楓は後に続いた。楓は、はっきり言って、かまってちゃんだ。仲間はずれが大嫌いで、楓の知らないところで面白いことをすると、決まってすねる。俗世間で言う面倒な奴だ。だけど俺はそういう所は嫌いじゃなかった。
購買で昼ごはんを買い、いつもの場所へと俺らは行く。
「はぁー、やっぱ屋上はサイコーだな。風が気持ちぃ。」省吾が授業の疲れを吹き払うように伸びをした。
「だなぁ。やっぱり誰もいない所はいい、教室はむさ苦しい」悟りきった顔で楓は胡坐をかく。
なにを隠そう屋上は、生徒立ち入り禁止の場所で、俺たち三人にとっては学校から隔離されている特別な空間だった。
「フー授業後の一服一服。」いそいそと俺はタバコをポケットから取り出す。タバコに火をつけ至福のひと時を味わう。
「あっ春哉ずるい、俺にもタバコちょうだい。」エサを見つけた動物のように省吾が俺に寄ってきた。
「またかよ!自分で持ってこいっての!」と言いつつ渋々と省吾にタバコを差し出す。
「うめー」省吾がグランドに向かって叫ぶ。
「うるさいな。だいたいタバコは未成年が吸ってはいけないのに2人は本当にだめな奴だな、まず肺に悪影響が…」
「わかった、わかった。控えますよー」省吾が楓の話をいつものように断ち切る。これも、定番のやり取りだ。
俺は、いつもこの光景に笑っている。そして、いつもこんな感じの昼休みを送る…。
いつもと変わらないやり取りが目の前で起きているにもかかわらず、別に飽きなかったし変わりたいとも思わなかった。
ただただ、こいつらと笑えていれば幸せだった。
「みなさん、授業10分前です。席について授業の準備をしましょう。」放送部の女がいつものフレーズでアナウンスをしている。
「げー、もう昼休み終わりかよ5時間目って何だっけ」そう呟くと省吾が
「何だっけ、えーっと、そうだ古典だよ」
「違う。数学Ⅱだ。今日は火曜日だからな。」
「うわー数学かよ、本気でめんどくせー」省吾と俺が口に揃えて言いだす。
「サボろうぜ!」そう言って省吾と俺は屋上の床に大の字になってねっ転がった。
「ダメだ。」立ち上がりズボンについているほこりを払いながら楓が言う。
「なんだよー良い子ちゃんが。」省吾が床にゴロゴロしながら呟く。
「春哉は授業にでるよな?出ないと晴香ちゃんに、また怒鳴られるぜ。」ニヤニヤしながら俺に言ってきた。
「あぁ俺は、もうちょっと休んでから行くよ。楓は先に行っててくれよ。」と言う。
正直、さっき見た夢が気になって授業を受ける気にはならなかった。
あの夢は、なんだったんだろう…考えても今は答えが出てこなかった。
「へえ春哉、珍しいじゃん。分かった先に行ってるよ。でも授業には顔を出せよ。」そう言うと楓は校内に消えていった。
「なんだよ春哉、考え事なの?珍しい、春哉も考える事なんてあるんだ。」省吾が失礼極まりなく言う。
「あのな、俺だって考え事の一つや二つあるっての。」突っぱねるように言う。
「しかし、もう春哉と仲間になってから2年か」省吾が懐かしそうにいきなり語りだした。
「…早いな。」何秒か経って俺が返答する。
「あの時の春哉すごく近づきづらかったなぁ。何か、俺に近寄るなってオーラがすごく出ていたよ。」省吾が笑いながら言う。
「オーラって何だよ。俺は、昔と変わらないよ…。」
風が相変わらず気持ちよく全身を包み、頭のモヤモヤさえも吹き飛ばしてくれそうだった。
「なあ、春哉、お母さんの具合はどう?」唐突に、そして心配そうな顔で省吾が言う。
「まあ、なんだ。可もなく不可もなくってやつかな。」溜息をつきながら言う。
「今日も、見舞いに行くんでしょ?」
「まあな。」と言うと同時に立ち上がり、
「よし、そろそろ授業に行くか。楓と晴香が五月蠅そうだし。」ズボンについているほこりを払いながら言う。
「はーい。行きます。」省吾が幼稚園児みたいに元気よく言う。
そうして俺らは、特別な空間を後にして、校内へと消えていった。