#1 銀の王女が見た影
《エーゲル歴四七五三年 八月》
その日は、酷い嵐だった。夕立かと思っていたその雨は、あっという間に暴風雨に姿を変えたのである。
エーゲル大陸の最北端の国、《バイラン王国》。この国の中心で、嵐は吹いていた。
深夜、首都《バイラニア》の多くの住人達は、嵐の声のせいで寝つけないでいた。ある者は蝋燭に灯を点して本を読み、またある者は何度も寝返りを打つ。
そして王女は、部屋の窓から外を眺めていた。
(止みそうにないわね、雨)
バイラン王国の王女《ココット=エルケア=バイラニス》は、出窓で頬杖を突きながら、心の中でそっと呟いた。
窓の外を見る理由は、特に無い。他に見る物が無かっただけの話である。大好きな小説《ハントラ=ローレッドの冒険》シリーズも、最新巻を今日の昼に読み終えたばかりである。六百ページもある本を一気読みしたので、流石の彼女も明日になるまでは読み返す気にはなれなかった。そもそも六歳児が読むには分厚すぎる本なのである。
(明日の練習、大丈夫かなぁ)
ココットは、ある理由があって《バイランの森》のケンタウルスに弓術を教わっていた。《バイランの森》は、バイラニアの外れにある大森林である。
彼女は、雨で弓の練習ができなくなることを心配していた。弓の練習は雨天中止である。
(……お母様)
子供の考える事というのは、コロコロ変わるものである。弓を始めたきっかけから連想したのか、ココットは母親の事を考えていた。
彼女の母親は、一年前の冬に死んでいる。
(わたしの髪、お母様と同じ……)
窓ガラスにうっすらと映る銀髪を見て思う。母親も、ココットと同じ色の髪だった。彼女は自分と同じ母親の髪が大好きだった。
(お母様が残ってるのは、わたしだけなんだわ)
彼女には双子の兄がいる。しかし彼は妹と違い、父親によく似た金髪。母親の《銀》を受け継いでいるのは自分だけなのである。そう思うと、自分の髪が愛おしく思えてきた。
(お母様と同じなのはわたしだけ。大好きなお母様、お母様……)
彼女は、母親が生きていた時の事を考えていた。
ピカッ! ゴロゴロゴロ……
外が光り、音が鳴る。少し遠くに雷が落ちたようだ。その光と音で、彼女は現実に引き戻される。知らないうちに雷が鳴り始め、風も強くなってきた。
(あーあ。これは雨天中止ね……)
そんな事を思いながら、じーっと窓の外を睨む。「雨よ止め雨よ止め」と念じてみる。当たり前の話だが、人間の少女が睨んだぐらいでは、空は天気を変えなかった。
(まぁ……この世界に天気を自由にいじれる人間なんて、いる訳無いわよね。ましてやわたしだなんて……)
ビシャアアァァァアアンッ!
響いたのは、獣の咆哮のような轟音。そして同時に、窓一面を覆い尽くす強烈な光。
城のすぐ近くに雷が落ち、彼女は驚く。目を大きく見開き、「アッ」と小さな声を漏らす。
彼女は、雷に驚いたのではない。一瞬だけ、白の中に浮かんだ黒い影に目を奪われたのである。
(い、今……一瞬見えたあれは……!)
酷く歪で、禍々しいシルエット。まるで、大トカゲに牛の角と蝙蝠の翼を無造作に生やしたような、それは―――
(―――竜……!)
ドラゴン、それはバイラン人が最も忌み嫌う生き物。正確には、バイラン人はバイランの竜を嫌っていた。
バイランの竜は、人間対魔物の大戦《人魔戦争》の敗北者。過去に多くのバイラン人を殺した者達である。
ココットもバイランの竜を恐れ、嫌っていた。竜の形の影を見た瞬間、この国にとって良くない事が起こると、彼女は確信した。
こうしてはいられない。早く、この事を《賢者》に伝えなくては―――
彼女は気が付くと、寝巻のまま部屋の外へ飛び出していた。
元々第零章は1話にまとめて投稿する予定でしたが、長くなりそうなので分けてみました。