タンホイザー 大行進曲 - 02
その後、僕たちはあの喫茶店で夕食をとることにした。奢ってやるんだからもっと贅沢なものを、とタンホイザーは言ったが、僕は喫茶店でゆっくりコーヒーでも飲みたい気分だった。
窓際の四人席に座り、僕とエリーザベトはタンホイザーの話を聞く役割に徹した。彼が語るのは音楽の話や楽劇のこと、文学や映画の話などで、たまに思い出したようにスポーツの話をしたりもした。ちょうど今年がワーグナーの生誕二百周年であるという話をしていたときに、僕が頼んだハヤシライスとコーヒーのセットが運ばれてきた。
「ところで君は僕のことをどう思っているんだ? 変人か、山高帽子のおかしな奴か?」
「どうしてそんなことが気になるんです」
「僕だって、他人からどう見られているかぐらいは気にするさ。そのくらいは君にだって分かるだろう?」
「そんなことは――いや、そうかもしれませんね。分かるような気がします」
エリーザベトは愁い――実際に彼女の心を満たしているものは理解し得ないが――を帯びたかのような眼差しを、窓の外に向けている。僕たちの話に割り込まず、かといって押し黙っているわけではなく、ただそこにいることに徹しているのだと思えた。それは僕たちを気遣ってのことだろう。僕の彼女に対する印象はますます好ましいものになった。
「問題はいかにして生きるかということだ。僕はこうして、タンホイザーとして生きている。君は?」
「僕は、僕として生きていかなきゃならないんだと思います」
「そうか。結局のところ、君と僕とは違うんだな。だからこうして一緒に食事もできるわけだが」
そう言って笑うと、タンホイザーは口を閉ざしてしまった。何かを考えている風でもあったし、機嫌を悪くしたようにも見えた。しばらくして、彼は再び口を開いた。
「立場は違うにしても、僕らは同じ悩みを抱えている。どのようにして生きていけばいいかという悩みを」
「ええ」
ベルが鳴って客が入ってくる。冷たい空気と雨音とが店内に運ばれて、やがてそれも溶けていく。
不意にエリーザベトが窓に手を伸ばした。湿った窓に意味もなく矩形を書いたりして、うっとりとした表情を浮かべた。僕は淑やかな彼女が子供っぽい仕草をしてみせたことに驚かされた。それでも、それが却って好ましく思われるのだった。
「用事を思い出した。僕は帰るよ」
タンホイザーが席を立ち、僕もそれに倣おうとしたが、彼は手で制した。そうして長財布からお札を取り出すと、テーブルの上に置いてさっさと店を出て行ってしまった。
僕はエリーザベトと二人、席に取り残された。彼女は掌についた水滴を拭うと、ミルクティーを一口飲んだ。彼女の顔をまじまじと見たのは、そのときが初めてだった。椿のように紅い頬の色が印象的なとても美しい顔をしていた。
「気を悪くしないで下さいね。あの人、たまに憂鬱な気分になって、独りになりたがるんです」
僕はエリーザベトの声音を初めて聞き、またしても驚かされた。その凛とした顔つきからはまるで想像もできないような、ひどく醜い声をしていたのだ。鼻のつまった濁声を。
驚きが顔に出ていたのだろう、エリーザベトは少し悲しい顔をして、しかし怒りは表さずに言葉を継いだ。
「今時は珍しいかもしれませんが、あの人とはよく手紙のやり取りをするんです。昔からそうやって、お互いを傷つけないようにしてきたんです」
「ごめんなさい、そんなつもりではなかったんです……」
「いえ、慣れてますから。いつも話さないようにすればするだけ、期待されてしまうんです」
彼女は自分の容姿が優れていることを十分に理解している。それでもやはり、僕の彼女への好意は揺るがない。
「貴方と二人でいるときのあの人は、やはりタンホイザーなんですか」
「さあ。私にとってはパルジファルかもしれません」
パルジファル、その名前には覚えがあった。
それはワーグナーがこの世に残した最後の作品名でもあり、その主人公の名前でもある。彼は禁忌とされる殺生を――この場合は白鳥を――行なう、無知なる若者として登場する。彼には記憶がないのだ。やがてクンドリという女性の口づけによって目覚め、聖槍を敵の手から奪還し、聖杯を守る王として君臨する存在、それがパルジファルだ。
「清らかな愚者ということですか」
「あの人は――他の誰かとは経験しているかもしれませんが――、少なくとも私とは一度も口づけをしたことがないんです」
「えっ?」
瞬間、僕と理子との堕落した生活が思い出された。彼らは僕たちよりもよほど洗練されているように見えながら、実のところ、そういう部分では未開の状態にあったのだ。
「貴方から見ても分かるように、あの人はタンホイザーという人間を演じて、狂気を糧に生きて行こうとしているんです。でも、貴方がそれを知覚できるのは、あの人自身とタンホイザーという人格は別のものだということの証拠。二面性を持った人なんです」
「どうしてそんなことを」
「そうしないと生きて行けないんです、とても弱い人だから。人にすがって生きて行くことを許せないから、自分を歪ませなければならなかったんです。先程の貴方が言ったように、あの人はそうやって生きていかなければならないんだと、思い込んでいるんです」
思い込んでいる。僕はそんな彼女の言い方が気になった。僕にも他の生き方がある、彼女はそう言いたいのだろうか。
「私と決定的な関係を築こうとしないのは――、ごめんなさい、あんまりこんなことを長々と語るものじゃありませんね」
「いえ、教えて下さい。知っておきたいんです」
「……そうしようとしないのは、恐怖しているからだと思います。世界に一人だけの特別な存在を作ることを、恐れているんです」
「僕にも理解できるような気がします」
理解というどころの話ではなかった。それはまさしく、僕自身の性質を言い表していたのだから。僕はすかさず彼女の目を見つめた。僕はすがるような目をしていたと思う。彼女もじっと僕の目を見つめ返して、そうして、視線を外した。
その瞬間、僕は彼女の心理がよく理解できたような気がした。彼女にとっての特別な存在は一人だけ、そしてそれ以外の存在は路傍の石塊に過ぎないことを。
「もう一つだけ教えて下さい。どうして貴女は、口づけをしないんですか」
「私も怖いんです。もしも私がいなくなったら、きっとあの人は……」
もしも、と言う彼女の言葉は、これまでになく真剣味を帯びている。
そのときが現実にやって来るかもしれないことを認められないながらも、そうなってしまうことを予期しているのではないだろうか。
「誰かの特別になることにも、恐怖しているのかもしれません。私もまた、愛されることに慣れていませんから」
「愛されることに慣れていない……」
「私はあの人を待ち続けます。いつか、その日が来ることを」
それは決然たる宣言だった。
僕は彼女と同じような覚悟ができるだろうか、そのようにして人を愛することができるだろうかと、自問せざるを得なかった。そして考えるのを放棄した。そのときになってみなければ分からないではないか、と。覚悟がなければ愛せないということもないのだから。覚悟がなければ傷つくこともないのだから。