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タンホイザー 大行進曲 - 01

 僕と理子が映画に行くのは、意外にも初めてのことだった。前日から泊まっていた彼女と大学へ向かっていたところ、彼女がどこかへ遊びに行こうと言いだし、僕も大学へ行くのは気乗りがしなかったので、とりあえず電車に乗った。電車に乗ったところでどこへ行くというあてもなかったが、僕の生まれ故郷と違って、どこで何をするかの選択肢は無数に存在した。

 結局、公開されたばかりの恋愛映画を見に行くことになった。もちろん、彼女の提案だ。しかし、彼女と一緒に恋愛映画を見るというのは、僕に奇妙な感興を抱かせた。僕たちはとっくの昔に、恋人同士になっていたのだ。


「はあ、かっこよかった」


 映画は売り出し中の俳優を見るために撮られたようなもので、彼女も内容に関しては口にしなかった。

 映画の最中、キスシーンのときなどに彼女が手を握ってきたりしたが、僕はそれをすぐに解いてしまった。僕はスクリーンから目を離さなかったが、彼女が機嫌を損ねたのは分かった。けれども、僕は一切弁明をしなかった。僕にとって手を握るという行為は、そう易々と繰り返されてはならないものだった。何故なら、僕と彼女を肉体的に繋げた最初の行為だったから。


「今日も泊まっていくの?」

「そのつもりだけど……嫌?」

「いや、そんなことはないよ」


 彼女は僕の目を見つめた。まるで深淵に臨むような顔をして、心の底を探るかのように。

 最近になって彼女と身体を重ねる回数が減ってきている。僕の心理的な変化によるものだ。手を解いた理由を弁明しなかったのと同じように、これもその理由を彼女に告げてはいなかった。これは今となっても説明し難い。理解を求めずに述べるとするなら、僕は彼女を愛するが故に距離を置こうとしたのだ。

 こんなことをどう説明すれば良いというのだろう。きっと時間をかけて説明したとしても、彼女は理解してくれなかっただろう。それでも彼女と同じ時間を共有することで、僕の彼女への好意が変わらないことを証明しているつもりだった。


「理子、今日は大学じゃなかったのか?」


 僕たちが二人で歩いているところに、その男は後ろから声をかけてきた。

 男は僕たちよりも二回りほど年配で、問いかけるのと同時に理子の肩に手をかけていた。理子が狼狽しているのは明らかだった。僕はその男の薬指の指環を見て、既婚者であることが分かった。身なりも良く、ふっくらとした白い手をしていたから、裕福な生活をしているのではないかと思われた。


「……えっと、たまには遊びたい日もあるでしょ、今日はそういう日なの」

「ふうん。そちらはお友達?」

「う、うん。ちょっと待ってて」


 彼女はそう言って、僕を引っぱって男から遠ざけた。


「知り合いの人?」

「何ていうか、その、父親なの」

「えっ」


 僕は恋人の父親と顔を合わせることが、これほど心に動揺を強いるとは思わなかった。理子の父親を振り返って、想像していたのとは随分違うなと、呑気なことを僕は考えた。


「挨拶しておいた方がいいよね」

「待って、彼氏がいることは内緒にしてるの。だから、今日はここで別れましょ」

「でも挨拶ぐらいは――」

「お願い。私の父親がどんな人か知ってるでしょ」


 僕がこれまで聞かされてきた話では、父親は家庭を顧みない人間で、かといって仕事中毒というわけでもなく、ギャンブルを趣味にしているということだった。当然、家族に対して批判の多い彼女とはあまり上手くいっていないらしい。彼女の場合、母親とも不和らしいが。

 ところで、彼女は自宅からでも通学できるのを無理に一人暮らしをしていて、生活費と学費は全て仕送りで賄っている。ギャンブル中毒の父親がいる家庭だとするなら、娘を大学に通わせながら生活費を負担することは、余程の収入がなければできないことだろう。つまり、彼女の父親は相当な収入を得ているか、彼女の話が嘘だったか、そのどちらかだろう。恐らくは後者だろうと僕は思った。


「分かった。また連絡するから」


 どちらにせよ、彼女の体面を汚すことは賢明ではないと僕は思った。彼女が嘘をつくのにはそれなりの理由があるかもしれないし、ここで意地を張っても良いことはないだろう。

 僕は彼女の父親に会釈だけはしておいて、何事もなかったかのように、その場を立ち去った。一度だけ振り向くと、人ごみの向こうで父親の腕に抱きつく彼女の姿が見えた。






 その日からしばらくの間、またしても彼女との音信が不通になった。

 僕はその気紛れにすっかり慣れていて、ちょうど一週間後の雨の日などは傘の下で口笛を吹いていた。大学での講義を終えて、バス停に向かっていたときのことだ。ふと僕の口笛に合わせて、誰かが別の口笛を吹いていることに気付いた。背筋が寒くなるのを感じて、確かめずにはいられなかったので後ろを振り向いた。

 青い傘の下に山高帽子のタンホイザーがいた。


「やあ」

「こんにちは」


 表面上は冷静を装って、僕はそう応えた。タンホイザーが僕に興味を抱いているのは、明白な事実といえた。


「今日は一人か」

「ええ、そんなところです。いつもそう訊かれるんですけどね」

「君は彼女といるのが似合ってるよ。少なくとも顔は良いから、一人で歩いているともったいないと思われるんだろう」


 バス停はすぐ目の前にあった。タンホイザーがそちらの方を指さしたので、僕たちはバス停の屋根の下に入った。タンホイザーは雨の日でも変わらず山高帽子を被っていた。きっと山高帽子を被っていないタンホイザーは、タンホイザーではないのだろう。

 狭い空間に二人きりになって、僕はタンホイザーと共有できる話題がないことに気がついた。きっとタンホイザーの方から話しかけてくるのだろうと思ったが、彼は降り続く雨の情景を眺めたまま、押し黙っていた。


「……ワーグナーが、好きなんですか?」

「ああ。僕はまだ、肉体を味わっているに過ぎないがね」

「肉体?」

「音楽は肉体だ。その奥に思想という骨がある。それは哲学と言ってもいい」


 タンホイザーは僕より二つだけ年上のはずだったが、このときは妙に老けてみえた。話す言葉の独特のリズム、声を発するのも難儀といったような仕草、目を細めて一点を見つめるその静けさ。大地に降り注ぐ雨の運動と、タンホイザーの静止した様は、静と動を成して一種の神秘的な魅力を生み出していた。


「世界観の壮大さにまず惹かれ、次に官能的な音色に惹かれる。そして今は――救済という概念に惹かれている」

「救済……」

「ふん。こうなると、一種の信仰のようなものだな」


 多くの言葉を交わしたわけではないが、僕はタンホイザーの気持ちをよく理解できるような気がした。きっとタンホイザーはこう感じているという風に、彼の心情を想像できる程度だったが。


「……寒いな」

「雨ですからね」

「よし、銭湯に行こう」


 このとき、タンホイザーは急に快活になったようだった。彼は携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけた。


「僕の彼女を紹介しよう、きっと気に入るはずだ」


 エリーザベトのことを話すタンホイザーの顔は、今までになく綻んでいた。




 僕たちはタクシーに乗って、エリーザベトの自宅で彼女と合流し、その足で銭湯へ向かった。

 僕は上京してから初めて知ったが、想像していたのとは違って、東京には案外古い町並みも残っている。けれども、東京で銭湯というものを目にするのはこれが初めてだった。僕とタンホイザーは右の入り口から、エリーザベトは左の入り口から、それぞれ銭湯の中に入った。彼らは何度かここを訪れたことがあるらしい。見た目は古く、利用客も老年の男性が多かったが、ゆっくりとした時間の流れの中にいるような気がして居心地は良い。服を脱ぎながら、僕はちらりとタンホイザーの身体を見た。スーツの下の肉体は、思っていたよりも筋肉質だった。

 僕たちは富士の絵を背に湯船に浸かった。歳を重ねるほど熱い御湯が好みになるというが、この銭湯は客層に合わせているのか、僕には少し熱すぎた。それで湯船を出たり入ったりするのを繰り返して、タンホイザーを笑わせる破目になった。彼は熱い御湯に平気で浸かっていた。


「おい、そっちの方はどうだ」


 女湯との間は高い壁で仕切られているが、天井にほど近いところに少しだけ空間がある。それでこちらとあちらの様子が窺えるようになっていて、タンホイザーはエリーザベトに呼びかけた。

 僕は湯船の中で掌に汗を感じるような気がして、美しい彼女の声音を聞けば平然としていられないと思ったが、返事はなかった。


「ふん、いつもあれだ。おしとやかだし、君がいるから返事なんてしないんだろう」

「僕がいるから、ですか」

「凛とした顔立ちをしているから誤解されやすいが、あれはただの人見知りなんだ。それが欠点でもあり、美点でもある」

「美点って、どうしてです?」

「他人には一切微笑まない女が、自分にだけは微笑んでくれるんだ。これ以上の幸福はないだろう」


 こうして一糸まとわぬタンホイザーと接していると、僕にはどうしても彼が奇人とは思えなくなった。きっと、彼は奇人を演じている。彼は多くを語ろうとはしなかったが、わざわざ奇人を演じてみせる何かの理由があるのだろう。

 その動機を知りたいという思いは、僕の中で次第に強くなってきていた。

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