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タンホイザー 序曲 - 02

 その日、僕は大学の近くの喫茶店にいた。野中に教えてもらった穴場だ。

 僕は少し高さのあるカウンター席に陣取っていて、朝七時の開店から本を片手にコーヒーを飲んでいた。その日の講義は午後からで、昼食をとってから大学に行くつもりでいた。

 二人組の客が店に入ってきたのは、ちょうどランチセットが運ばれてきたときだった。僕はその横顔をちらりと見た。


「どれにしようか」


 二人は窓際の四人席に座り、店主が手書きした両面のメニューを眺める。僕は彼らの様子をちらちらと観察する。彼らもまた昼食を求めて喫茶店に入ってきたらしく、サンドウィッチセットを二つ注文した。

 そろそろ大学に向かわなければならない時間だったが、このまま席を立つのは惜しいような気がして、紅茶のおかわりを頼んだりした。


「彼らは破滅に陥ったようにも見えるが、実のところはハッピーエンドなんだよ」

「その作品は対照的に書くことを意識されているから、バッドエンドといえるかもしれない」

「考えてもみてごらん、自分の住む街の景色が突然変わってしまったら、正気でいられないだろう」


 店内には軽やかなピアノのジャズが流れていて、他には五十代から六十代の客が二組か三組いた。

 目立った雑音もなく、だからこそ僕は読書に専念できたのだが、例の二人組の会話がいやに耳についた。というのも、男の熱弁を振るう声も大きかったのだろうが、よく通りやすい声音をしていた。それで彼らの話すことがよく分かったのだが、話の内容はよく理解できなかった。女の方はたまに頷いてみせるだけで、男の話を真面目に聞いているのかさえ、よく分からなかった。


「つまり、観察者が外にいるんだ。そうでなくては、あの結末は成立し得ない」


 僕が彼らに興味を抱いたのは、どうにも雰囲気がちぐはぐに思えたからだ。

 男は紺色で無地の背広に鼠色の山高帽子を被っていて、その連れの女性は白いワンピースの上にグレーのカーディガンを羽織り、淡いピンクのストールを巻いていた。服装だけを見れば年齢差のある二人なのかと思えたが、男の年齢は僕と二、三歳しか変わらないように見えた。女は背を向けていたので顔は分からなかったが、挙措はよく落ち着いていて、どうも女の方が年上ではないかと思われた。男が会社勤めをしているのか就職活動中なのかは分からないが、そのどちらでもないような気もした。


「彼女はね、男を破滅に追いやる恐ろしい女だよ。作中では描写されていないが、美人であるというのは罪なことだ」


 紅茶を飲みほしたところで、僕は会計を済ませて店を出ることにした。好奇心のおかげで単位を失ったのでは馬鹿らしい。

 僕が立ち上がったとき、ちょうど山高帽子の男と目が合って、彼が妙な顔をしたような気がした。それでも一瞬のことだったのでそのときは特に印象に残らず、僕はベルの鳴る重いドアを開けて、喫茶店を後にした。






 六月に入り、新しい生活への慣れが退屈に転じてくると、僕は野中から紹介してもらったアルバイトを始めることにした。

それまでは仕送りで全てを賄っていたのだが、最低限度の生活を保障するに過ぎなかったし、理子との交際には何かとお金がかかった。彼女もまた仕送りで生活していたが、外食をするときには僕が支払うことが多かった。それで生活費が浮くのか、彼女は新しいバッグやポーチをよく身につけていた。高校の頃もガソリンスタンドで働いていたので、今度のカラオケボックスでのバイトはあまり苦にならなかった。

 その代わりに、元からあまり顔を出していなかったサークル活動には、もうほとんど参加しなくなっていた。僕と理子の関係が簡単に出来上がってしまったことを、誰かが揶揄するのを何度か耳にした。それに屈したわけではないが、僕は陰口の類が好きになれなかったし、元から人付き合いが好きなわけではなかったので、自然とそうなったのだ。




 そんなある日のこと、僕は哲学の講義に出ていた。

 どうして哲学を選択したのか、その理由は覚えていないが、きっとどこかで聞いたニーチェの言葉が頭に残っていたのだと思う。神は死んだ。それはとても強烈な文言だ。ただその一言に惹かれて、僕はこの退屈な講義を選択したのではないだろうか。

 それに元から壮大な空想をするのが好きで、僕の中のもやもやとした塊を、哲学が整理してくれるのではないかと思っていた。実際の講義は哲学の歴史をおさらいする、そんな内容だったので、僕の期待していたものとは違っていたわけだが。

 その日の講義の内容はよく覚えていない。デカルトでもやっていたんじゃないかと思う。僕は中段の席に座っていて、船を漕いでいた。ふと、隣の席に誰かが座るのを感じた。

 目を開けると、あの山高帽子の男が横に座っていた。僕は驚きのあまり声を上げそうになった。と同時に、不快な感情が湧き上がるのを抑えられなかった。傍で見る男は髭の手入れが甘く、背広のきっちりとした装いから考えれば、ちぐはぐだった。そして石鹸の匂いが鼻をついた。それ自体は不快なものではなかったが、その男から発せられた匂いであることを思うと、どうにも嫌な気分がした。


「こんな講義、退屈じゃないのか」


 男が言った。その声は講師には届かなかったが、周囲の注目を集めるのには十分だった。そして、その言葉は僕に向けて発せられていたのだ。

 僕はそれに答えなかった。男は構うことなく言葉を継いだ。


「哲学というものは本来、もっと多様な可能性を含んだ面白いものなんだよ。この講義はつまらんがね」

「はあ」

「それでもニーチェだけは駄目だ。奴は何も分かってない、分かってないんだよ」


 男は演説でもするかのように、熱意を込めてニーチェを非難した。その調子につられて、僕は思わず返事をしてしまっていた。


「何が駄目なんです」

「僕の名前はタンホイザーだ。君にはその意味が分かるだろう」


 そう言って、男はにっと笑ってみせた。けれども僕はその意味が分からない。分からないから、ただ頷いてやり過ごした。

 男はそれだけ言うと満足したらしく、音もなく教室を去って行った。来たときもそうだったように。






 十九世紀のドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが作曲したオペラ、それこそがタンホイザーだった。そして、その主人公の名でもある。

 僕はワーグナーの名を高校の音楽の授業で、一度だけ聞いたような気がした。何より、彼の顔写真に見覚えがある。それでも彼に対する印象は、あの結婚行進曲の作曲者という程度で、あのような奇人を生み出す元凶となる存在とは思えなかった。

 奇妙な体験を原動力にした僕は、その日のうちに図書館でタンホイザーのことを調べ終えた。それによれば、タンホイザーは快楽に溺れて官能的な愛を讃えたために領主から追放され、ローマへ巡礼して教皇の赦しを得なければならなかった。ところが教皇の赦しを得られず、彼を愛するエリーザベトの愛によってようやく救済される、そういう筋書きだった。タンホイザーとエリーザベトが共に死を迎えるという結末は、理子との性愛に溺れる僕をぞっとさせた。

 山高帽子の男がニーチェを批判したのは、ワーグナーとニーチェが親交を深めながらも後に反目したらしいことが、その原因なのではないかと思われた。

 と、そこまで思い至ったところで、何故そんなことを――タンホイザーを自称するようなことを――しなければならないのかという、新たなる問題に突き当たった。

 僕はその日の夜、ガムを口に放り込んだ拍子になんとなくその話をしてみた。


「……その人なら知ってる。会ったの?」

「講義の最中に突然やって来て、僕に話しかけてきたんだ」

「ふん。私たちより二歳上で、同じ大学の人。変人で有名な人」


 理子は黙ってベッドを抜け出し、パジャマを着こんだ。上手くいかなかった日や不機嫌なときは、素肌を接しておくのが嫌いらしい。


「頭がおかしいのよ。変な妄想に取りつかれて、おかしなことを言ってるだけ」

「だけど何のために?」

「さあ、分からないし分かりたくもない。変な人間と関わるのはやめてよね」


 彼女はそう言うと背中を向けたが、しばらくすると頭の中の混入物を取り除こうとするかのように、彼女はこう言った。


「タンホイザーだけどね、あんな人でも恋人がいるんだって」

「へえ、どんな人」


 多分、あの喫茶店で一緒だった女性だろう。


「さあ。タンホイザーと一緒にいても、滅多に喋らないみたい」

「同じ大学の人?」

「社会人じゃないかな。皆からはエリーザベトって呼ばれてるけど。ああ、美人だったかもしれない」


 最後の部分を、吐き捨てるように言った。彼女は自分の容姿が優れていないことを十分に理解している。

 そのとき、僕は彼女の中指に指輪がはめられていることに気付いた。単なるアクセサリーというには、作りがあまりにもしっかりとしている。


「その指環――」

「大切な人に貰ったの、大事にするようにって。もしかして嫉妬してる?」

「……いや、嫉妬なんてしないよ。僕はそんな小さな男じゃない」


 僕はガムを吐きだすと、そのまま目を瞑った。口に残ったガムの味のように、タンホイザーの顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。






 僕に言わせれば、理子も少し変わったところがあった。

 三日も僕の部屋に泊まったかと思うと、一週間連絡が取れなくなり、また何事もなかったかのように連泊しにやって来る。感情の揺れ方も相変わらず激しく、他人への批判も絶えなかった。彼女は元から気紛れな性格だったのだが、付き合い始めの情熱――実際にはただの性的興奮――が冷めたのか、僕といる時間は減ってしまった。

 こういうときには野中に相談すれば良いと思ったのだが、彼の返事は素っ気ないものだった。


「どうして俺に訊くんだよ」

「野中なら慣れてるかと思ってさ」

「何にだよ。……いいか、俺はお前に奥村理子とは付き合うな、そう言ったよな?」

「うん」

「その忠告を無視したお前がどれだけ悩もうと、俺が手助けしてやる義理はない」


 馬鹿げた話だと思う。僕は昔から感が鈍いと言われてきたが、ここまで来ると無神経という他なかったと、後になって理解できた。

 とにかく、僕は対処法が分からないので彼女への態度を決めかねていたが、それが却って良かったのだと思う。いくら甘えてきても冷たくされても、僕の彼女への態度は変わらなかった。彼女が僕との関係を続けていたのは、そこに安心していたのではないだろうか。

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