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タンホイザー 序曲 - 01

 それからの数日間、理子との連絡が取れなくなった。

 メールを送ってみたり、電話をかけてみたりしたが、何も音沙汰がない。僕は何となく、理子のことは気にしないことにした。一人きりで行動する心地良さを噛みしめながら、やはりこれこそが自分の本分だと、しみじみと感じていたのだと思う。それでも何かが胸に引っかかったのは、堕落した肉欲に溺れてしまったためだろうか。僕は日差しの強さに辟易としていた。


「やあ、久しぶり」


 その男に声をかけられたのは、大学の駐輪場だった。男は僕のことを知っている口ぶりだったが、僕には彼のことが思い出せなかった。黄色いスポーツバッグを肩にかけるその男は、間違いなく僕とは正反対の快活な人間だと思われた。


「どこかでお会いしましたっけ?」


 相手が先輩だったとしたらまずいので、敬語で返事をした。僕にもそれぐらいの配慮はできるのだ。


「ほら、新歓コンパで会っただろ。少し話したんだけど、覚えてないかな。野中っていうんだけど」

「野中……、ああ、思いだした」


 野中は同じサークルに所属している新入生だった。たしかに理子と出会ったあの日、彼とも知り合っていたのだ。

 彼は背が高く身なりも整っていて、いかにも都会の大学生という感じがした。僕はまだ、高校生の面影を残していたと思う。小麦色の腕に顕著な血管が、日光に照らされてくっきりとしている。


「なんだ、俺ってそんなに印象が薄いかな。これでも少しは服装に気を遣ってるし、それなりに話も面白いと思ってるんだが」

「いや、そんなつもりじゃなかったんだ。どうも人の顔を覚えるのが苦手で」

「ははは、嘘だって。俺も悪気はなかったんだ。それより今日は一人なのか?」


 一人だよ、と僕は答えた。何となくだが、話の向かう先が分かったような気がした。


「奥村理子と付き合ってるんだろ?」

「付き合ってるというか、まあ、友達以上の関係といえばそうだけど」


 これは隠し事をしたかったわけではない。彼にそう訊かれて初めて、僕らの関係の曖昧さに気付かされたのだ。関係性からいえば、僕らの仲は恋人と呼ぶしかないのだろうが、僕には理子と付き合っているという感覚が希薄だった。

 僕はそのことを正直に、彼に打ち明けた。彼は嫌な顔一つせず、僕の言葉を最後まで聞いてくれた。


「忠告しようかと思ったけど、やっぱりやめるわ。お前もなかなか変わってんな」

「忠告って、何を?」

「まあ、言っても良いか。奥村と付き合うのはやめた方がいい」


 不思議なことだが、どうしてそんなことを言うのか、失礼だ、などとは思わなかった。わざわざ忠告してくれたことに僕は疑問を感じた。彼の言葉で僕たちの関係が崩壊したとしても、僕は後悔しなかっただろう。むしろ、それを望んでいたのかもしれない。

 僕は困惑していたのだと思う。家族以外の他人とここまで密な関係を築くのは、理子が初めてだったのだから。


「忠告はありがたく受け取っておくよ。でも、彼女との連絡が取れないんだ」

「連絡が取れないのなら、そのまま別れろよ。今のうちに別れた方がいいぜ」

「うん。でも、はっきりさせておかなきゃ。曖昧なままにしておいたら、きっと悪い方向に転がってしまう」

「ふん。忠告だけはしておいたからな」


 彼は駐輪場に用などなく、僕に話をするためにやって来たのだろう、大学の構内へと歩いていく。僕はそんな野中の背中に、言葉を投げかけた。


「野中」

「ん?」

「わざわざありがとう」

「ふん」


 それだけ言って、野中は立ち去った。






 僕が帰宅すると、玄関の前で理子が待っていた。数日ぶりに見るその顔は、ひどく疲れているようだった。

 部屋に招じ入れて麦茶を出すと、彼女は喉が渇いて仕方なかったようで、一気にそれを飲みほしてしまった。


「泊まっていく?」

「うん」


 僕は何も訊かなかった。お風呂に入っていないと言うので、彼女がシャワーを浴びている間、僕は二人分のインスタントラーメンを作った。不細工な容器に不格好な盛り付けをした頃には、既に十分以上が経過していた。

 僕は何かの暗示を受けたかのように不安になって、慌てて浴室に入って行った。彼女は膝を抱えて座った状態でシャワーを浴びていた。いつもよりも背中が小さく見えた。若々しい肌が水を弾いていても、僕にはどこか不健康に映った。


「大丈夫?」


 僕の言葉に彼女は反応を示さなかった。僕はどうするべきか分からず、肩に手をかけた。瞬間、彼女が僕の手を掴んで、僕の方へ向き直った。そして強引に引きずり込むと、背中に手を回して僕に抱きついた。

 彼女の頭を撫でてやると、すすり泣いているのがよく分かった。僕は何を言うべきか迷った。しばらくそのまま抱き合い、彼女の涙が放逸なシャワーに流され、その涙も涸れたとき、彼女が僕の顔を見上げた。

 何かが弾けるのが分かった。僕は濡れた服を脱ぎ捨て、彼女を強く抱きしめた。喜びと苛立ちと不安が混じったような顔を、彼女はしていた。






 僕は麺の伸びたラーメンを啜った拍子に、野中の忠告を思い出した。けれども、気だるい心地良さが眠気を誘って、思考する気分になれなかった。そして、何事もなかったかのように、その夜は理子と一つのベッドに寝た。

 意識の最後の瞬間に、ある観念が僕の中に芽生えた。それは無味乾燥とした夢の後にも、強い印象を僕の中に残していた。


「二人が肉体を重ねれば、少なくとも個人としての正気は保てる。それが集団としての狂気を生み出すとしても」






その翌日、偶然すれ違った野中に事の顛末を伝えると、また変な顔をされた。


「わざわざ報告するかよ、そんなこと」

「ああ、そうかもね」


 しかし、僕にしてみれば彼もなかなかの変わり者だった。わざわざ僕のメールアドレスを調べて、アドバイスのメールを送ってきたのだ。僕の携帯電話にメールが来たとき、思わず理子が驚いたほど、僕は他人との関わりが希薄なのだった。

 正直に言えば、僕は彼に対して多少の煩わしさを感じたが、彼の好意には素直に感謝を述べるべきだと思った。今になってみれば、とても失礼なことだと思う。

 そうして彼とメールをやり取りするうちに、僕は大学の近所の美味くて安い定食屋や、先輩の紹介で入れるアルバイトの情報を仕入れることができた。彼との関係は距離が離れていて、とても居心地が良かった。結局、僕は人付き合いに向いてないのだろう。

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