トリスタンとイゾルデ 前奏曲 - 02
普段の彼女は少しつんとした雰囲気だった。見た目が良いわけではなく、成績が良いわけでもなければ、特別な趣味があるわけでもない。そんな彼女、奥村理子と知り合ったことが、僕の生活を劇的に変えたかといえば、実はそうではない。理子とはメールのやり取りをするようになったし、大学にいるときは一緒に過ごすようになったが、客観的に見ても恋人といえる程の関係ではなかった。僕はいつものように他人との連絡を断ち切って引きこもる日があったし、彼女も僕の些細な失言に苛立って連絡をしてこないときがあった。
それでも僕らの関係が続いたのはどうしてだろう。当時はよく分からなかったが、今では分かるような気がする。
「ねえ、家に遊びに行ってもいい?」
彼女と知り合って一月が経ったころ、彼女は不意にそんなことを言った。彼女のことを知らないというわけでもなければ、深い内面まで知っているというわけでもない、そんな微妙な距離を保っていたある日のことだ。後から思い返してみても、理子という女性は人の心をよく理解していた。僕は彼女の予想通り、迷った末に提案を受け入れた。
大学を終え、僕の近所のスーパーで食材を買う。僕はその言葉を信じていなかったが、彼女は料理が得意なのだという。僕がレジで清算をしているとき、どさくさに紛れて缶チューハイがカゴに入れられた。彼女の覚悟を、そこに見たような気がした。
理子はカレーライスを作ってくれた。僕は彼女の手際に感心したものだが、特別な味の工夫がされているというわけでもなかった。ご飯を炊き忘れて怒られたり、汚れた食器を溜めてはいけないと注意されたりするうちに、ラジオでは野球の試合が終わっていた。
ようやく食事の支度を終えて、小さいテーブルの向こう側にいる理子と向かい合ったとき、彼女が当たり前にそこにいることが不思議に思えた。ずっと前からこうして二人でいるような、奇妙な感覚だった。僕はその感覚をどう理解すればいいのか分からず、落ち着かなかった。
「どう、美味しい?」
「まあまあかな」
その夜、僕らは酒を飲むという背徳を再び演じた。飲み慣れない僕はチューハイですっかり酔ってしまったが、理子は顔色一つ変えずに二缶も空けてしまった。身体が熱くなり、頭の回転が空回りするのを感じた。彼女も酒には酔っていないが、雰囲気に酔っているように見えた。
あのときと同じように彼女が僕の手を握り、僕もそれを握り返す。自分と他人との境界が曖昧になるようだった。僕は自分を確かめるために、彼女の手を強く握った。
「んっ、痛いってば」
妙に暑い夜だった。窓を開け放っていたのに、生温い風すら入ってこなかった。彼女はすっと立ち上がって、その窓を閉めた。元の位置に座った彼女は、黙って俯く。
いきなり、彼女が僕の手の甲を噛んだ。僕の手はとっくに燃え上がっていて、どこを噛まれたのか、目で判断することはできなかった。彼女は僕の二の腕にキスした。そして唇を付けたまま、僕の首へと伝い、頬まで達したところで唇を離した。
僕は彼女の素顔を見つめた。化粧をしているときと、ほとんど印象が変わらなかった。そのことに無性に興奮したのを覚えている。
「好き?」
好きと言うべきだっただろうし、好きだと言ってしまいそうになった。けれども、僕の中の何かが、好きと答えるのを許さなかった。
「分からない」
「……」
彼女は不満に感じたようだ。それが却って彼女の心を勢いづけたらしい、僕の頬を抱いて唇を重ねてきた。僕はすかさず目を瞑る。彼女から唇を伝って、濃密な何かが僕の中に侵入してくるようだった。頭の中を快感が駆け巡る。肉体の密着が快感を強くする。香水の甘い匂いが気分を高める。重なった身体と身体とが床に崩れる。洋服と下着をまき散らして、ベッドに這い上がる。繋いでいた手に汗がにじむ。
僕は少しばかりの理性を取り戻して、シャワーで汗を流しておくべきだったと思いなおした。僕はその汗ばんだ手で、彼女の身体の感触を確かめた。
こんなときに大人は煙草でも吸うのだろう、僕はそう思った。僕は煙草を吸える年齢ではないし、吸おうとも思わなかったので、手近にあったガムを噛んでみた。
つけっぱなしのラジオからは、ピアノの音色が聞こえてきた。こういう状況だからそう思えるのか、官能的な音色だと感じた。パーソナリティの説明によれば、リストの愛の夢という作品だということだった。なるほど、愛の夢。愛の夢を見るには、一人では不十分なのだ。二人で作り上げた愛の夢という幻想。僕はそれがまさに幻想と知りながら、アーモンドの花の蜜に溺れているのだ。
僕は妙に澄んだ頭を寝かしつけるのに、少しばかり苦労した。
理子との堕落した生活が、一週間も続いた。部屋にはコンビニ弁当の空が溜まっていき、汗と唾液の臭いがこもっていた。
昼も夜もない生活の中で、僕はラジオを聴くことが唯一の楽しみだった。一方の彼女は寝物語を好んだ。彼女は埼玉の出身で、家族に無理を言って東京で一人暮らしを始め、さらに仕送りで生活費の全てを賄っていたという。そのくせ、家族に対する批判が目立った。それでなくとも、今まで付き合ってきた男がどうだとか、サークルの先輩がどうだとか、いやに他人を中傷するのだった。その中でも父親と兄を語るときには特に辛辣だったので、彼女は男性というものに不信感を抱いているのではないかと、僕は思った。
僕はあまり自分のことを語らず、彼女が知りたがるときにだけ答えた。僕が話をしても、彼女はいつもつまらなそうに聞くのだった。
「ねえ、ガムを噛むのはやめて」
「うるさいな、少しぐらい良いだろ」
少しずつだが、僕は彼女に苛立ちを感じるようになってきていた。この一週間のうちに分かるようになったが、彼女はひどく気紛れだった。不機嫌になってトイレにこもったかと思えば、テレビのドキュメンタリーで簡単に涙を流したりした。感動しやすいと捉えれば美点ともいえるが、実際には自分の感情のコントロールできないような、危なげな印象を抱かせた。
ちょうど一週間経った日のこと、彼女は友達に呼び出されたからと言って、あっさりと部屋を後にした。僕にはその心理がよく分からなかった。とはいえ、束の間の快楽の後に何が残ったかといえば、それは居心地の良さだった。僕にはとても同棲なんて似合わないと、のんびりと考えたりするのだった。