トリスタンとイゾルデ 前奏曲 - 01
出来の悪い万華鏡を覗いたかのような酷い夢を見ている。……本当に夢だったとしたらどんなに良かっただろう。男は酔ったふりをして女性店員に絡み、女は酔ったふりをして男に膝を貸している。本当に酔っているのだとしたら、尚更悪いというものだ。未成年である新入生の歓迎会を居酒屋で開くことが、既にこの堕落を予告していたというものだ。
人には分際というものがある。僕はその分際というものの鮮やかな断面を、他人の笑顔に見てとった。笑顔というものは人を惹きつける。人と人とを結びつける。その細い細い糸を絡ませて、いつの間にか関係が出来上がってくる。笑顔はまさに踏み絵のようなもので、それさえ作れない僕は、社会不適合者と呼ばれるに相応しい。
このときまで勘違いしていたのだが、僕はそれをやらなかったわけではない。僕にはそれが出来なかったのだ。孤独に生きる、それが僕という人間の分際というものだ。彼女が横に座ったとき、僕はそんなことを考えていた。
「飲んでます?」
僕の返事も聞かずに横に座ったのは、背が低く茶色の長髪をした女性だった。先輩方に酒を配っているらしく、琥珀色のグラスを二つ持っている。薄めの化粧をしているのか、少し暗めの照明では目立たない顔をしている。ただ一つ、形の良い真赤な唇だけが生の充溢を表していて、彼女の印象をずっと明るいものにしている。
僕はウーロン茶のグラスを持ちあげてみせ、酒はいらないということを示した。彼女はそれに気付かなかったのかのように、こう言った。
「もしかして新入生? 私も新入生なの、よろしくね」
僕は身を寄せてくる彼女に困惑しながらも、少し身を引いてよろしくとだけ答えた。彼女はさらに身体を近づけて僕のグラスを取り、ほんの僅かに残っていたウーロン茶を飲んでしまった。
「私ね、ウーロン茶を配ってるの。飲めない人とか、飲み疲れた人のために。ちょうど良かったね」
彼女はそんなことを言って、僕のグラスに勝手に口をつけたことを謝りもしなかった。僕は彼女の好意をとりあえず受け取っておいて、また一人で枝豆でもつまもうと思った。
「乾杯しよ、乾杯」
「ああ、うん」
「二人の出会いにかんぱーい!」
彼女からもらったグラスに口をつけた瞬間、些細な違和感を覚えた。それでも彼女が僕の左手に指を絡ませた瞬間、もうどうでも良くなってしまった。
それは初めての経験だった。酒を匂ったことはあったし、実際に味わったことがなかったわけではない。それでも、このときの酒の味は今でもよく覚えている。とても刺激のある辛さを舌に感じ、春の日差しのように甘い快さを脳に感じた。酒を飲み込んだ瞬間、背中に妙な感覚が走ったのを忘れられない。その一口で酔ったということはなかったが、大きな過ちを犯したような気分にはさせられた。
「これ、お酒だね。間違えちゃった」
そう言って軽く頭を下げる女から、ほんのりと酒の匂いが漂ってきた。この女は酔っている、分かっていながら僕に酒を渡したのだ。僕は酒の味と匂い、そして女のペースに引き込まれそうになったことで、頭がクラクラするようだった。
「ごめん、トイレ」
そう言って席を立たなければ、僕は女から逃げることはできなかっただろう。
僕は宮崎の田舎で生まれ育ち、高校を卒業して東京の大学に進学した。どうして東京を選んだかといえば、それは純粋に憧れていたからだと思う。ネットの普及でどこにいても情報を享受できることは、都会と田舎との格差をより鮮明にした。
築二十年の二階建てアパートに住居を定め、家具や家電を揃え、新しく住む街を散策する。そのジェットコースターのような忙しさと喧騒の次に待っていたのは、言いようのない虚しさだった。
東京はあまりにも大きすぎて、あまりにも多くの人が生活していて、僕は自分が何者でもないことに気が付いた。入学式を終えて、サークルからの大量の勧誘チラシを持ち帰ったとき、自分が何をしたいのか分からないことに気が付いた。
僕は一人ぼっちだということに、ようやく気が付いたのだ。
僕は昔から一人でいることが多かった。集団行動が苦手なわけではないが、一人でいる方が気楽だった。高校までは必ず二、三人は親しい友人がいた。僕は必ずしも心を開かなかったが、それでも認めてくれる友人はいた。学校の外で遊ぶ友人はいなかった。僕はよく同級生にからかわれたりしたが、いじめを受けたことはなかった。
そんな僕が故郷から遠く離れ、見知らぬ人のいない土地で暮らすことは、一種の冒険じみた希望を抱かせるに十分だった。僕は東京に来てようやく自分が語るべきことを持たない人間だと気付いたが、不思議と絶望はしなかったのだ。言いようのない虚しさが胸に淀んでいただけだ。僕は滅多に感動することもなければ、怒ることも悲しむこともなかった。
僕は自分という領域を侵そうとする他人のいないことで、一時の全能感を味わったのだ。
そんな僕の幻想が打ち砕かれるのに時間はかからなかった。僕は自分で思っているほど、自立自存できる能力を獲得していなかったのだ。家事は満足にできなかったし、金銭の管理も思うようにできなかった。大学生活でも最初からつまづいてしまった。
僕は大学生としてあまりにも無知だった。僕のように人付き合いを避ける人間は、他の多くの新入生が知り得る情報を手にすることができなかった。彼らは横と縦の繋がりを見事に構築していた。僕はまさしく必要に迫られて、人付き合いをしなければならなかった。一人で生きていく力がないのだから、そうするしかないのだ。捨てるのをためらったサークルの勧誘チラシが、部屋の片隅に置かれていた。僕は最初から、心のどこかでその紙切れの必要性を感じていたのだと思う。
洗面台で顔を洗って自分の顔を見る。元から見映えの良い顔ではないが、久しぶりにまじまじと見る顔は、少しやつれているようだった。気のせいか、少し赤みがかっているようにも見えた。
どうしてこんなところに来てしまったのだろう。自問してみても、強迫的な答えしか浮かんでこなかった。僕は社会の中でしか生きられない弱い人間なのだ、と。
ふと風に当たりたくなり、居酒屋の外に出てみた。ここから逃げ出したい、そんな気持ちになったのだ。そこは他にも数件の居酒屋がある通りで、酔っ払いの声がそこかしこから聞こえ、人通りも少なくはなかった。大した気分転換ができそうにはなかった。こんなときに大人は煙草でも吸うのだろう、そう思ったときに、自分が酒を飲んでしまったことを思い出した。父親の飲む酒をこっそりと飲んでみる、そんな経験は僕にもあったが、見知らぬ女の勢いに乗せられて酒を飲んでしまったのは、とても不愉快なことだった。
このまま帰ってしまおうか。自分にそれができないことを知りながら、妄想をしてみたりした。完全に自立した生活、一つの学問を究めるという真面目な生活、朝から晩までギターをかき鳴らすという不真面目な生活、そして否定できないのは女性への憧れ……
「ここにいたんだ」
あの女が横にいた。さっきの行き違いなどなかったかのように、女は語りだした。
「新入生だからって、色々と気を遣ってお酌をしてみるけど、男っていやらしいことしか考えてないんだね」
「そうかな」
「そうよ。真面目に見える岡村先輩だって、酔ったふりして服の袖に手を入れてくるんだもん」
僕は横目で女を見た。女は実に真面目な顔をして、そう言ったのだ。
「岡村先輩って背が高くて、声も渋くて、かっこいいかなって思ったけど。私、ああいう人は嫌い」
「へえ」
「やっぱり男ってみんな同じなんだって思う。最初はいいなって思った人でも、結局は私のことなんか好きじゃないの。年上の人は特にそうなの、私の兄もそうだった」
女がどうしてそんなことを僕に言うのか、よく分からなかった。
「ねえ、真面目でしょ?」
「僕のこと?」
「うん、そんな気がする。お酒飲んだのも初めてでしょ?」
「そんなことはないけど。わざと飲ませたんじゃないよね?」
女はそれには答えず、僕の正面に立った。女は自分の目と同じ高さの、僕の口元の辺りを見つめているらしかった。そうして何かを考えているらしかった。
「な、何?」
女の手がすっと首に巻きついて、僕の唇に柔らかいものが触れた。全ての感覚が消し飛んで、目から入ってくる情報を処理できなかった。僕はその感触だけを頼りに状況を理解する。僕らは今、キスをしているのだ。首に加わる力が強くなる。僕は彼女を抱きしめることさえせず、棒立ちになって彼女の唇を受け止める。最初のキスというものは甘いものではなくて、とても乾燥した味のないものだ。柔らかい感触と体温だけを味わうことができる。
そうして唇を離したときに目を見つめあって、初めて相手との近さに気付く。身体を離したときには髭の感触が痛くなかったか、息が臭くなかったか、そんなことだけを気にして、キスをしたという現実をすぐには理解できないのだ。
「ごめん、急にこんなことしちゃって。誰かに見られてないかな」
彼女が後悔をしていないことも、本当は誰に見られていたとしても構わないことも、何故だか明瞭に理解できた。僕は目を閉じる最後の瞬間に、誰かの視線を感じたような気がしたが、それでも直前の行為と比べればほとんど印象に残らなかった。
もう一度、彼女が手を握ってきたとき、僕にはそれを振り払う力は残っていなかった。小さな愉悦を覚えさえした。