パルジファル - 救済者に救済を
「私の兄はね、誠実な人だったの。自分にも他人にも嘘が吐けなくて、問題を全て自分で抱え込んでしまうような人だったの。
頭が良くて、色んなことをよく知ってる人だった。でも、いつも損ばかりしてる、不器用な人だった」
いつになく優しい声音で、理子はそんなことを語り始めた。
近頃では身体を重ねることも少なくなってきていたが、却って心の紐帯は強まっているように僕には思えた。
彼女も僕のことを少しは信頼してくれているのか、今までは語ろうとしなかったことまで口にするようになっていた。
「私って嘘ばかり吐くでしょ。でも兄はそんな私のことを軽蔑しなかった。両親とはまるで違う、とても優しい人だったの」
「お兄さんは今、何を?」
「……さあ、どうなんだろう。きっと誰か悪い人が、傍にいるんじゃないかな」
彼女の目に涙が浮かぶのが見えて、僕はその頭を抱えてやった。
彼女は僕の身体にしがみ付いてきたが、それ以上は何も求めず、何も語ろうとはしなかった。僕は彼女の頭を撫でてやった。
ふと、指先に残った残り香を嗅いでみた。その甘い匂いが僕の心を揺さぶる。僕はほとんど本能的に、次の瞬間には彼女の身体に跨っていた。
彼女は拒もうとはしなかったが、求めようともしなかった。僕は噛んでもいないガムを、奥歯で噛みしめたような気がした。
理子の浮気が発覚したのは、それから間もなくのことだった。いや、実際には彼女がそれを告白したのだ。
先日遭遇した父親と紹介された男は浮気相手で、彼女が身につけていたバッグやポーチは、その男が買い与えたものだった。勿論、彼女が大切にしていた指環も。
彼女がどうしてそんなことを告白したのか、本当のところは分からない。本人が語ろうとしなかったから、僕は推測するしかなかった。
きっと、彼女が兄のことを語ったのは、この伏線になっていたのではないかと思う。彼女は嘘を吐くことに罪悪感を覚えたのだ。
考えるまでもなく、僕は彼女と別れることにした。彼女もそれを望んでいた。
別れると決まったというのに、僕と彼女は身体を重ねた。彼女もそれを望んでいるように思えたからだ。
最後に彼女は髪を直しながら、鏡越しにこう言った。その中指には、あの指環が今もはめられている。
「終わった後にガムを噛むところが嫌いだったの。父も兄もあなたも、男の人はみんな嫌い」
一つの関係が終わってみれば、それはとても甘美な蜜月だったように思えた。
けれどもそれは幻想で、僕は傷つくことを恐れて、彼女をしっかりと抱きしめることさえできなかった。最も恐ろしかったのは、彼女を傷つけてしまわないかということだった。
僕はタンホイザーやエリーザベト、そして自分自身の言葉を思い出した。理子もまた、そうやってしか生きていけないのだろう。
その後も彼女とは何度か大学内で顔を合わせたが、彼女はやがて大学を辞めた。その後、どこかの男と結婚したらしい。
「理子を怨んでやるなよ。そういう風にしか生きられない女なんだから」
野中は、忠告したのだから自業自得だ、などとは言わなかった。
僕は随分と後になってから野中の気持ちを理解できた。僕と彼とは同じ立場なのだから、きっとお互いに通じ合うところがあったのだろう。
その日の哲学の講義はカントが主題になっていた。
僕はやはり一方ならぬ興味を持ちながらも、それは興味以上のものにはなり得なかった。
随分と前からタンホイザーが隣に座っていたらしい。僕はすぐに気付かず、彼に肩を叩かれて目を覚ました。
僕は雨の日には必ず彼と出会うような気がして、笑いそうになるのを寸前で押し止めた。
「また眠っていたな。まあ、この内容じゃ仕方ない。それよりも少し付き合ってくれないか。彼女も一緒だ」
「この講義が終わった後でよければ」
「ああ、それで構わない。待ってるからな」
講義が終わった後、やはりタクシーで目的地に向かうことになった。 エリーザベトと合流して向かったのは、ビリヤードバーと呼ばれるところだった。
僕にはビリヤードの経験がなかったが、新しい経験をすることへの不安はなかった。僕がそう感じたのは、タンホイザーの言葉があったからかもしれない。
「僕は君を弟のように感じていたんだよ」
タンホイザーは丁寧にルールを教えてくれたが、意外にも不器用なところがあって、腕が良いとはお世辞にも言えなかった。
一方のエリーザベトはなかなかの腕前で、二度のゲームを見事に制してしまった。僕はといえば、白球を貫くことさえ満足にできなかった。
タンホイザーが次のゲームで終わりにしようと言った。そう宣言したのは、調子の上がってきたことを自覚していたためらしい。
彼の目論見通り、ゲームの最初の一突きで三つの球を落とすと、一番のボールを続けて落とした。
「調子が上がってきましたね」
「ふん、そうだろう。まあ、いくらボールを落としたところで、最後のボールを落とさなければ意味はないがね」
その言葉は僕にある示唆のようなものを与えた。ビリヤードを人生に置き換えたならどうなるだろう。
僕のこれまでの人生は、決して大きな失敗もなかったが、取り立てて幸福といえるほどでもなかった。
もしもこれを消極的な不幸というならば、僕は最後のボールを落とすことで、人生を転回させてハッピーエンドに導くことができる。
僕は何としても、このゲームに勝たなければならないと思った。
「よし、どうだ」
タンホイザーが白球を貫いた音で、僕は思考を中断された。
白球は見事に青い二番ボールを弾き、ポケットに落とす。が、そのままの勢いで白球までもポケットに落としてしまった。
次の瞬間、僕とエリーザベトは目と目を合わせてお互いの感情を共有した。タンホイザーは白鳥を殺めるかの如く、白球を奈落の底に追いやってしまったのだ。
「ああ、なんてことだ」
タンホイザーはツキが落ちてしまったとでも言いたいかのように、しょんぼりとした顔をしていた。
エリーザベトがその頬に白い手をやり、相変わらず手入れの甘い彼の口元を撫でた。そして、彼の首に手を回して口づけをした。
全ては最初から予定されていたかのような、自然な成り行きだった。僕はその官能的な光景に、まさしくタンホイザーの死を見た。
と、雷が落ち、続いて店内の照明が落ちた。二人の姿は暗闇の中に沈んでしまったが、しばらくは口づけを続けていたのだと思う。
そうして口づけを果たしたタンホイザー――パルジファル――は、静かに呟いた。
「このゲームはここまでだな」
いつかのように、前触れもなく気落ちしたパルジファルが、僕とエリーザベトをタクシーに同乗させた。
僕は後部ガラス越しにパルジファルの背中を追った。山高帽子を右手に持ち、危なげな足どりで立ち去っていくところだった。
「大丈夫かな」
僕がそうやって呟いたのは、半ばはエリーザベトに問いかけたのだが、彼女からの返答はなかった。
そうして視線を彼女に向けると、彼女もまたどこか放心したような目つきをしていて、そのくせ顔つきは険しいものだった。
僕はラジオから流れる音楽にはっとした。ちょうどワーグナーのローエングリンという作品中の、あの有名な結婚行進曲が流れていたのだ。
とても暗示的な出来事だった。ローエングリンという登場人物は、パルジファルの息子とされているからだ。
「私たち、結婚します」
うわ言のように彼女がそう言った。
僕と彼女は同じ気分を共有している。ここまでの確信を得たことはこれまでにはなかった。互いを理解できるかもしれないというのに、彼女は知人の恋人なのだ。
その次の瞬間、僕たちは口づけを交わしていた。彼女が身を乗り出して、僕の身体を覆うようにして、口づけを求めてきたのだ。
「貴方なら、私の気持ちが分かるでしょう」
そう言って、彼女は悲しげに微笑んでみせた。
「僕は勘違いしていた。僕はタンホイザーではなく、パルジファルだったんだ」
数日後のこと、僕を呼びだしたパルジファルは、十五分間、意味もなく歩き続けた末にそう言ったのだった。
僕はといえば、彼はかなりの財産を持っているのだろうと考えたりしていた。彼の羽振りの良さがそう思わせたのだ。
そうであるとすれば、彼が別の人格を演じてみせることも腑に落ち、それは富める者に特有の余裕といったものが大きく作用しているのではないかと、僕は考えるのだった。
そこまで考えたところで、僕は理子のことを思い出した。彼女があんなことをしたのは、金のためなのだろうか、と。
「あれは初めての経験だった。僕は彼女の口づけによって目覚め、全てを理解した。僕には最初から彼女しかいなかった、彼女がいなければ本当に狂っていたんだ」
狂信的な口ぶりに対して澄んだ瞳の色が、それをすっかり信じ込んでいることを表していた。
「新しい関係になったんですね」
「ああ。それで君に一つ、頼みたいことがあるんだが」
「何ですか?」
「君の聖槍が欲しい」
僕は一瞬にしてその意味を了解した。彼の手が伸びてくるより早く、僕は後ずさりした。
「どうして、そんなことをする必要があるんです」
「知っているだろう、パルジファルには聖槍が必要なんだ。そうでなくては、救済は得られないんだ」
「そんなのはおかしい、貴方は頭がおかしいんです、今でも十分に狂ってる」
僕は夢中でそう言っていた。そして視界の中の彼がひどく悲しそうな顔をしたことに、このときは気がつかなかった。
「彼女を喪えば全てが終わってしまう、君にも僕の傍にいてほしいんだ」
「どうして僕にそんなことを頼むんですか。僕は誰の傍にもいられない男なんです」
男、と僕は言った。そのために自分の心の中に波紋が生じたことと、彼の目の色が変わったことに、このときの僕は気付かなかった。
「僕は男であると同時に男でいたくない。君にはそれが理解できるはずだ、そうだろう」
「僕には理解できません、貴方のことも理子のことも」
僕が初めて彼に吐いた嘘だった。彼の言うことは、とてもよく理解できたのだ。
それで本当に全てが終わってしまった。理子との関係も、パルジファルとの関係も。
それが、ちょうど十年前のことだ。
その後、僕は無事に大学を卒業し、大手食品会社への就職を果たした。
僕にとって大学とは学問をする場所ではなく、社会への入り口でしかなかったから、大手企業に就職できたことを誇りに思った。
幾人かの女性と交際を重ねた末、二年前に一人の女性と結婚した。背の高い女性で肌が白く、美しい心の持ち主だ。
偶然にも旧姓は奥村といって、僕は自分の姓が奥村という姓を征服することに、少なからず愉悦を覚えた。
野中との関係も続いている。やはり根は親切な男で、僕は随分と彼に助けられた。彼もまた波乱万丈な結婚生活を送っているらしい。
パルジファルとエリーザベト――正確にはクンドリと呼ぶべきかもしれない――のその後は分からなかったが、優れた容姿の醜い声音をした女性のことは、僕の心にいつまでも強い印象を残し続けた。
僕は企画部に配属されている。文字通り、会社の様々な事業展開を企画するのだが、これは僕にとって天職といえた。
妻が子供を身ごもったことで、ますます僕の生活は充実してくるようだった。大学時代のある一時期に比べれば、それはとても穏やかな日々といえたが。
ある日、他社との提携商品の企画をすることになり、僕は先方へと出向くことになった。
そこは業界第一位の大企業で、まだまだ一人前とは言い難い僕にはとても相手に出来ないような、大きな仕事を任されたのだった。
様々な意味での緊張を抱えた僕が対面したのは、ちょうど三十歳くらいのスマートな男性だった。
「初めまして。私、奥村と申します」
そう言って白紙の名刺を手渡す男の狂気に満ちた瞳に、僕はたちまちすくみ上がってしまった。
男は胸に山高帽子を抱いていた。




