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「駄目よ。お願い。殺さないで、レイ!」
シェリーが叫んだ。
「どうしてだ? こいつは……」
「酷い奴だけど、あたしが頼れるのはこの人だけだったの。食べ物だってくれたわ。だから、殺さないで」
――シェリー。自分が単なる狩りの道具に過ぎなくても、性の捌け口に過ぎなくても、それでもこの男を庇うのか。
「分かった。おい、その銃を寄越せ」
グレッグはにやり、と嫌な笑い方をした。二人の間の距離は十フィートほどしかない。
レイはグレッグの方に手を差し出しそうとして、はっとした。あの銃の名は『HANDS OF GOD』。神の手は一本じゃない!
グレッグがトリガーを引いた瞬間、レイの右足が男の腕を直撃し、放り出された銃から発射された杭がアスファルトに深々と突き刺さった。
「くそ! お前はどこまで卑怯な奴なんだ!」
蹴倒された男は腕を擦りながら立ち上がり、レイを睨みつけている。
怒りに顔を歪めてグレッグに近付こうとするレイをシェリーが止めた。
「レイ、殺さないで。お願いだから」
レイはぎゅっと唇を噛み締めた。こいつをこのまま生かしておきたくはない。だが、この娘の目の前でこいつを殺すのは……。
「く……そ! 失せろ! 二度とシェリーに近付くな!」
グレッグはにやにや笑いながら、ぺっと唾を吐いた。
「ああ、もうそんな奴はいらねえ。ダンピールなんて、ただで捨てたがってる親はいくらでもいるしな。また美味そうなガキを手に入れてたっぷり調教してやるさ。新しい銃を手に入れて殺して、殺して、殺しまくってやる。薄汚いヴァンパイア共を串刺しにしてやる。レイ、てめえもだ。次に会った時は必ず仕留めてやるぜ」
シェリーが突然グレッグに走り寄り、拾い上げた絵本でグレッグの胸を思い切り引っ叩いた。
「もうやめて! 子供を苦しめないで!……もう……もう……」
「うるせえぞ! クソガキ!」
男がシェリーの顔を思い切り殴りつける。シェリーはそのまま倒れ、口から血を流して動かなくなった。
レイはシェリーに駆け寄ると冷たい雪に弄られているその身体をそっと抱き起こす。気を失っているのか、シェリーは目を開けようとはしなかった。
――こいつはやばいかもしんねえ。
グレッグは少しずつ後ずさりをして、その場を立ち去ろうとした。
「おい、何処へ行くつもりだ?」
レイはゆっくりと立ち上がるとすうっと目を細めてグレッグを見る。
「助けようなんて一瞬でも思った俺がどうかしてた。お前を生かす理由なんて何一つないのにな」
鋭く目を光らせ、二本の牙を剥き出しにして近付いてくるレイの表情を見て、グレッグは顔を強張らせた。
「お、おい、待てよ。俺を殺したりしたらシェリーが……」
「シェリーだって? ああ、関係ないさ。もう彼女は見ていないからな」
踵を返して逃げようとしたグレッグの顔を、後ろから素早く伸ばされたレイの手が鷲掴みにした。
「知ってるか? グレッグ。痛みや苦しみっていうものどういうものか。教えてやるよ」
「た…たすけ……」
押さえられた口からくぐもったような命乞いの声がした。
「ケダモノめ。地獄に落ちろ!」
次の瞬間、ぐしゃり、と顎の砕ける音が響いた。ごぼごぼと奇妙な音がグレッグの口から漏れ出す。レイはそのままグレッグの顔を真後ろに捻った。ありえない角度まで捻じられた首の骨がバキバキと砕け、悲鳴一つ上げずに男は息絶えた。
レイは汚いものでも振り払うようにグレッグの身体を突き放す。横たわった骸の上に何事もなかったかのように雪が舞い降りてくる。
――ああ、またここを離れなくちゃならないな。この街は気に入っていたのに。
レイはふっと溜息をついた。
死んだグレッグの前に立つレイの姿を建物の間の狭い通路に隠れてじっと見つめる影があった。その全身が、次第に青白い光に包まれ始めた時、ふっと雪が降り止んだ。
その瞬間、何が起こったのかレイには分からなかった。目の眩むような光と熱い衝撃。目の前に横たわっていたグレッグの身体があっという間に燃え上がり、激しく炎を上げた。みるみる焼け焦げて縮まっていく身体には青い電光が走り、やがて黒い墨の塊となったグレッグはぼろぼろと崩れ落ちてしまった。
「レイ……レイ。何が起きたの? グレッグは死んだの?」
か細い声に目を向けると、シェリーが涙をぽろぽろと零しながら起き上がろうとしていた。
「彼は死んだよ。雷に打たれたんだ。大丈夫か? シェリー」
「あたしは大丈夫。ごめんなさい、レイ。あたし……」
レイはシェリーに手を貸して立ち上がらせると、穏やかな声で囁いた。
「気にしなくていいよ。全ては運命なのさ」
「そう、運命よ。危ないところだったわね、レイ。それにしても冬なのに雷が落ちるなんて。きっとこれは奇跡だわ。この男は神の怒りに触れたのよ」
その声に振り向いたレイの目に飛び込んできたのは、身体を抱え込むようにして近付いてくるミーナの姿だった。
「ミーナ。この銃のことは知ってるかい?」
「ええ。『HANDS OF GOD』は最近出回り始めた銃でニ連発なの。二発目の杭は一発目の下にあってトリガーを引くと瞬時に装填されて発射されるのよ」
「そういうことは早く教えといてくれないと困るよ、ミーナ」
「だって、レイ。あなた一ヶ月も店に来なかったじゃないの」
「そうだな。最近忙しかったから」
「ま、いいわ。さっき教えようと思ってたのよ。新しい銃のことも、『メデューサ』のことも、それから」
ミーナはシェリーに視線を移した。
「ハンターの『釣り餌』の少女のこともね」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。あの銃、二発目があるって知らなかったの。いつも一発しか使わなかったから」
「仕方がないよ。でも、君は俺を助けてくれたじゃないか。あれは解毒剤だね?」
シェリーはこくん、と頷いた。ミーナはシェリーに問いかけた。
「でも、どうして解毒剤を持ってたの? シェリー」
シェリーは戸惑ったようにミーナを見た。身体が細かく震えている。
「あ……あたしもあのキャンディを舐めさせられてたの。ダンピールは……あたしはダンピールなんだけど、身体の自由が少しだけ利かなくなるし、嫌でも抵抗が出来ないから。終わると必ず解毒剤を……」
「そうか。もういいよ、シェリー。辛いことは言わなくていい」
レイがシェリーのか細い身体をそっと抱きしめると、シェリーはレイの胸に顔をうずめて泣きじゃくった。
「レイ、あなたはシェリーを連れてここから離れた方が良いわ。後は私にまかせて。ああ、銃はそのままにしておいてね。持っていきたいだろうけど、なくなってたら怪しまれるから」
「分かった。すまないね、ミーナ。彼女なら大丈夫だよ、ああ、それから」
自分の本を拾い上げると、レイは表紙を見つめながら少し笑みを浮かべた。
「奇跡ってあるんだな。いや、ただの偶然かもしれないけれど、今はそれを信じていようと思うんだよ、ミーナ」
レイはシェリーの肩にコートを着せ掛けると、身体を支えるようにしながら道を戻っていく。止んでいた雪がまた降り始めた。 ミーナは二人の姿が見えなくなってから、ふっと肩の力を抜き、警察を呼ぶ為に携帯を取り出した。
――そうね、レイ、これは神の奇跡よ。だって、今はクリスマスだもの――
<十二月二十五日、午後三時>
「で、これがその『メデューサ』とその解毒剤ですね。でも、キャンディタイプって初めてだな」
相変らず良家のお坊ちゃん風のピシッとアイロンのかかった白いシャツを着たフィルは目を輝かせて、テーブルの上に置かれたキャンディを眺めている。
「玩具の形をした地雷みたいに子供がターゲットなのかもしれねえ。でも、たぶんもっと他にいろいろなタイプがあるんだろうな。まったく、つくづく卑劣な奴らだ」
テーブルの上には綺麗に盛り付けられたサンドイッチやらフライドポテトやらがところ狭しと並べられている。 黒いセーターのデビィはご馳走の皿の間で不気味な銀色に光るキャンディを忌々しげに指で弾く。
「さっそくクロード先生に頼んで成分分析してもらいますよ」
「にしても、まんまと引っ掛かったもんだな、レイ。お前らしくねえぜ。最近、ハンターとご無沙汰だったから平和ボケしたんじゃねえのか?」
「まあ、そうかもしれないな。もう少し気を引き締めていかないと。デビィ、七面鳥を切り分けてくれないか? ああ、皿がないな」
ラベンダー色のシルクのシャツに白いネクタイのレイは、すっと立ち上がるとキッチンへ向かう。
「しちめんちょー、はやくくいてえだ~」
翼をばたつかせながら物凄い訛りで叫んだのはフィルの使い魔の蝙蝠、カーミラだ。
「分かった、分かった。ちょっと待ってて。デビィ、あなたは家に帰らないんですか? もう衝動の方は抑えられるんだから心配ないんじゃないかな」
デビィは七面鳥のローストを切りながら答えた。
「ああ、まあな。でも、俺はもう以前の俺じゃないしな。それに前ほど酷くはないけど衝動はまったくなくなった訳じゃねえ。まあ食べ物や女でどうにか押さえてるけど、いつ押さえきれない衝動が襲ってくるか分からねえ。もし家に帰ってそんなことが起きたら、俺は家族を喰い殺してしまうかもしんねえ。それが怖いんだ。それに……」
デビィはキッチンの方に目をやって、ふっと微笑んだ。
「俺が行っちまったら、奴は一人になっちまうしな」
「お待たせ~! みんな、元気だった~?」
ドアが勢いよく開いて、キャシーが入ってきた。豹柄のフェイクファーのロングコートを入ってくるなり脱ぎ捨てると、クリスマスバージョンの赤と白のメッシュの髪に綺麗な空色のミニワンピースのキャシーは持ってきたクラッカーの紐を勢い良く引っ張った。
パン、という派手な音と共にきらきらと光る紙ふぶきが舞い上がる。
「メリークリスマス!」と叫ぶとキャシーは皿を運んできたレイに飛びついて頬にキスをした。
「会いたかったわ、レイ!」
「久しぶり。元気そうだね、キャシー」
「おいおい、キャシー。俺達もいるの忘れないでくれよ」
デビィはさっそく七面鳥のローストを頬張りながら呟いた。
「ハイ、デビィ。もちろん忘れてなんかいないわよ」
デビィは立ち上がってキャシーを抱きしめた。キスしながら、さりげなく腰に手をやっている。
「ええっと、初めまして。フィリップ・ホーキンスです。フィルと呼んで下さい」
フィルは何故か顔を真っ赤にしながら、おずおずと立ち上がって片手を差し出す。何だかハイ・スクールの初心な生徒みたいに見える。
「初めまして、フィル。あなたのことはレイ達から聞いてるわ。髪の色が素敵ね」
キャシーが抱きついて、豊満な胸が密着した途端、フィルは赤い顔をますます赤くして激しく身体を振るわせ始めた。
「きゃ!」
いきなり顔の骨が変形し、伸び始めたフィルに驚いてキャシーが飛びのくと、デビィが慌ててフィルを部屋の隅に連れて行った。
「ああ、困ったな。彼、セクシーな女性を見るとますます酔いが回っちゃうんだ」
レイは苦笑しながら素早く七面鳥を皿に取り分けて、一枚をカーミラの前に置いた。
「ほら、これは君の分だよ」
カーミラは嬉しそうに肉に齧りつき、レイは台形のクリスマス・プディングを切り分け始める。イングランド流の何ヶ月もブランデー漬けにするプディングではなく、レイのプディングは香り付け程度にブランデーを入れ、ドライフルーツやナッツがたっぷりと入ったオリジナルだ。
「あ~あ、フィルの奴、また服が破けちまったぜ。おい、恥ずかしがってないで戻ろうぜ。ご馳走がなくなっちまうぞ」
デビィがすっかり自称狼に変身してしまったフィルを引っ張って戻ってくると、キャシーは嬉しそうにフィルの頭を撫でた。
「可愛いわんちゃんね! よしよし」
千切れるほど尻尾を振るフィル。耳をぴんと立ててキャシーの顔をじっと見つめるフィルの顔付きや毛の色は、狼というより毛の短いコリー犬のようだ。
――やっぱり、どう見たって、すっかり犬じゃねえか
デビィは苦笑した。
「う~ん。フィルにはやっぱりドッグフードのほうがいいかな」
レイは切り分けて小皿に乗せたプディングの傍らに生クリームを絞りながら真剣に呟いている。
「だから、プディングでいいって! っていうか、本気で悩むなよ」
デビィはプディングを一皿、素早く奪い取ると生クリームをたっぷりつけて齧りついた。
――やっぱり美味いな。レイが作る料理は三ツ星レストランで出したって十分通用するぜ。
「美味いだろ? デビィ。俺が同居人だってことに感謝しなくちゃな。ええっと、それから来月は料理研究のために、フランス料理のフルコースを食べに行こうと思ってるんだ。お前の給料が出た後でいいからさ」
レイはそう言いながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。
――それって遠まわしに俺に奢れってことだろが!
いつもなら一言言い返すデビィだったが、口いっぱいに頬張ったプディングがそれを許さなかった。
その時、ドアをノックする音が聞えた。
レイがドアを開けると、そこには赤いタータンチェックのコートを着て見違えるように綺麗になったシェリーと、黒いコートを着たフランクが立っていた。
「お招きありがとう、レイ。彼女はシェリー。私の娘です」
穏やかな笑顔を浮かべながらフランクが報告すると、シェリーは嬉しそうにレイに飛びついてきた。
「ありがとう、レイ。あたし、こんなクリスマスが夢だったの」
「それを聞いて俺も嬉しいよ。ご馳走はいっぱいあるから……」
「うわあ! 可愛い!」
シェリーは目ざとくフィルを見つけて、傍に寄り、首筋を撫で始めた。目を瞑ってうっとりしているフィルを見て、デビィがやれやれと首を竦める。
「いい犬ですね。もう長いこと飼ってるんですか?」
フランクの質問にレイはちょっと困ったような笑みを浮かべて答えた。
「ええ。飼いたいのはやまやまなんですが無理なんですよ。彼、医者の勉強をしてるんでね」
「え? 医者……ですか?」
戸惑った顔のフランクを見て、デビィとキャシーが大笑いしている。
「ああ、それについては後ほど。とにかくテーブルへどうぞ。クリスマスが終わってしまいますよ」
やがてレイ達の部屋から、清らかな歌声が響き始めた。降りしきる雪の中、ゆっくりと時間は流れていく。時は聖夜。
―メリー・クリスマス―