オトナの事情
フジコちゃんは顔を洗おうと、立ち上がってクマさんの前を通りすぎようとした。そのとき、彼が彼女の右手首を軽くつかむ。
「なあ、ええやろ」
上目使いにのぞき込まれたが、その言葉の意味をとっさに悟ったフジコちゃんは
「だめ!」
と、即答した。
「明日も授業があるじゃない。準備しないと」
「夜は長いねんで」
少し情けなさそうにクマさんが訴える。が、早く洗面所に行きたいフジコちゃんは右手首を外そうとする。
そんならと、クマさんはどっこいしょとお気に入りのソファから立ち上がり、太くてゴツゴツした手を彼女の肩にまわして、背中から軽く羽交い締めにする。
なにすんのよ、と抗議の声をあげるフジコちゃんの耳元に口を寄せて、「好きだよ」とフジコちゃん限定でしか使われない魅惑の低音ボイスでささやいたのだった。
「……一度しか言わないんじゃなかったの?」
この腰に響くバリトンにめっぽう弱いフジコちゃんは、早くも涙目になりながら、がっしりホールドされてしまっている筋肉質の腕をぺしぺし叩いている。
そんな抵抗はものともせず、逃げ出そうとじたばたしている彼女の頬にキスが一つ落とされた。
「まずは、今度ワシの部屋に来てみいへんか? 面白いかもしれへんで。今までに付き合うてた女が、壁に塗り込められてたりするかもしれへん」
「アンタ、言ってることとやってることが違うじゃないのよ! 十年間付き合ってなかったんじゃなかったの!」
クスッという笑いとともに、軽くついばむようなキスがフジコちゃんの唇に落ちてきた。
「ちょっとくらいアンタもバリア緩めててもええやろ?」
フジコちゃんの口がぎゅっとへの字にゆがむ。泣きそうになるところをぐっとこらえる。そこにバリトンボイスが落ちてきた。
「好きって言ってほしい」
あきらめたようにフジコちゃんの体中の力が抜けた。そしてため息とともにかすれた声がはき出される。
「豚まん臭いわよ」
あははは、と本当におかしそうにクマさんは笑い声をあげた。そしてフジコちゃんの腕を愛しそうになでながら、「そんなら一緒にお風呂入ろか?」と、もう完敗してぐったりしている彼女の首筋に口づけを落とした。
窓の外は春の嵐が吹き荒れているが、二人の夜はまだこれからである。
どうもありがとうございました。
爽やかな教え子桐原クンのところと違って、オトナな二人は数で勝負です!
「一体なんべんキスしてんのや?」と遠慮なく突っ込んでやってください。
ま、一応R15タグなしで投稿してみましたが、大丈夫、ですよね?(笑)