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フジコちゃんの事情

 ――本当に十年間、誰とも付き合わずに来たのだろうか? あんな下らない理由で?

 クマさんが実は結構モテることも、長い付き合いである彼女は知っている。

 ――十年間ずっと私のことを思っていたって?


「それはないでしょ」

 思わず声が出てしまった。あわてて男の方を見ると、考えていたことを見抜かれたのか、菩薩のような微笑みで「こっちへおいで」と、ソファに座る男の隣の席へ手招きされる。

 ソファは男が初めてこの部屋に泊まった次の日に、二人で買いに行ったものだ。「男の部屋に行くのは嫌だ」と言うと、「そんならあんたトコでもええで」となしくずしに男がフジコちゃんの部屋に上がり込み、翌朝には家具屋につれていかれた。

 けれど今ではソファもフジコちゃんの部屋に馴染んでいるし、内心このソファが気に入ってもいる。


「淋しなかった?」

 隣に座る男に、妙に間延びする関西弁で聞かれて、男の出張期間中のことを問われているのだと理解するまでに少々時間がかかった。が、フジコちゃんはこれ以上ないくらいの激しさで否定する。

「残念やなあ。『淋しかったわ』言うてもらえるかと思て、期待してたのに」

「そんなことアタシが言うわけないでしょ!」

「せやけど、アンタ、一人の時は絶対このソファに座らへんのと違うか?」

 その言葉がどんなツボを突いたのか、目に見えて挙動不審になるフジコちゃん。

「そ、そんなわけないでしょ。アタシの部屋の、アタシのソファなのよ? アンタなんか……」

 何かまずいことをいってしまいそうになって、フジコちゃんは慌てて口を押さえる。そんな彼女をみて、男はにやにやしている。

「その続きが聞きたいなあ。『大好き』か『いなくて淋しかったわ』のどっちやろ? 淋しいから二人で買うた椅子に座られへんなんて、アンタ、かわいいとこあるやんか」

「どっちも違うわよ! アンタ、ほんとに国語の教師なの? もういっぺん小学校からやり直してくるのね!」

 完全にへそを曲げて、そっぽを向いてしまったフジコちゃんに苦笑してから、男は話を変える。

「なあ、今度二人で旅行せえへんか?」

「どこに行くのよ? どうせアンタなら箱根とかの温泉じゃないの?」

 まだ少しお怒りモードのフジコちゃんだ。

「温泉もええで。部屋に露天風呂がついてるようなンもあるで。一緒に入ろか? 朝から晩までアンタと一緒やな。ええなあ」

 相変わらず空気の読めないというか、読まない男である。

 いや、これはこれでフジコちゃんを巧く操縦しているのかもしれない。思った通りフジコちゃんは沸騰寸前だ。もう、先ほどのクマさんの「十年愛疑惑」は頭から消えてしまった様子である。それを確信したような、にやっとした笑いを浮かべながら男は続ける。

「温泉もええけどな、関西に一緒に帰らへんか?」


 一瞬、二人の間に空白の時間が流れた。しかしフジコちゃんは自らその流れをぶった切る。

「嫌よ。アンタと帰省して何が楽しいのよ。アタシはあまり帰りたくないのよ! 大体アンタは時々帰ってるじゃない! 帰るんなら一人で帰りなさいよ!」

 男がフジコちゃんの手を軽く握りしめながら、軽い調子で言う。

「お母さん一人なんやろ? なんならご挨拶しよか。『娘さんを私にください』っての、やってみたかってん」

「だから『その声で言うな!』って言ってるでしょ!」

 フジコちゃんはクマさんの標準語が苦手だ。普段の大阪弁のときは何ともないのに、標準語の時は彼のバリトンがなぜか腰に響いて、涙目になってしまう。またクマさんもそれをわかっていて、耳にささやくように言ってくるから始末に負えない。

「お父さんが出て行ってから、ほとんど帰ってへんねんやろ? 顔、見せたりぃな」

 フジコちゃんの手をトントンと軽く叩いて、男が言った。フジコちゃんは慌ててその手を男から引き抜く。

「帰っても、何も話すことなんかないわよ」

 フジコちゃんはポツリとこぼした。

 フジコちゃんの両親は、フジコちゃんが高校生の時に離婚した。非常に仲のいい夫婦だと、フジコちゃんも母親自身も信じていたのだが、ある日急に「他に好きな人が出来た」と父親が出て行ってしまったのだ。

 訳のわからないまま離婚届にサインした母親は「アンタのせいで」とフジコちゃんを責めるしかなかった。家にいづらくなった彼女は、大学入学と同時に家を出た。地元の大学だったので通えたのだが。

 卒業してからは東京の大学に就職したので、ますます帰ることは少なくなっていった。家を出てから十五年経つが、実家に帰ったのは数えるほどしかない。

 男の手が彼女の肩にそっと回された。

「アンタ、お母さんとお父さんのこと、好きやってんな」

 驚いたことにフジコちゃんの目から涙が一粒こぼれた。彼女自身が一番驚いたらしく、「いや、あの……」と意味のわからない言葉をつぶやいている。

 クマさんは両手でフジコちゃんの頬を挟み、そっと涙を吸い取った。

「アンタはいつも笑ってたり、怒ってたりしててほしいねん。涙は似合わん」

 その言葉を聞いて、フジコちゃんはクマさんの胸に顔を埋めた。これ以上涙を見られるのが恥ずかしかったのかもしれない。


 両親の離婚でフジコちゃんも傷ついていたのだ。

 前日まで普通の一家団らんを送っていたのに、次の日には父親はいなくなっていた。フジコちゃんによく似た母親は、人が変わったようにうろたえて八つ当たりを始めた。あの明るく綺麗な母親がこんなになってしまうほど、結婚相手に去られるというのはショックなのだ。

 綺麗なだけ、結婚しているだけでは引き留めることができない。そう悟ったフジコちゃんは言葉を標準語に改め、男性とはほどほどの距離をとることにした。一生結婚はしなくても構わないと思っていた。

「大丈夫や。ワシは出て行ったりせえへん。アンタも出て行かせたりせえへん。安心しい」

 この男は時々どうしてこう優しくなるんだろうか。フジコちゃんは胸の内で考える。アタシの欲しい言葉をくれる。涙がほんの少し甘くなったような気がした。

「アンタ、アタシのこと好き?」

 今まで聞いたこともなかった言葉を聞いてみる。息を吸い込む音がかすかに聞こえた。

「……いっぺんしか言わへんからよう聞いときや。……アンタのこと、好きや。愛してる」

 もしかしたら、この男ならいなくなってしまうことはないかもしれない。アタシも、他の男を好きになって消えてしまいたくなることもないかもしれない、この男となら。フジコちゃんはなぜかそう信じることが出来た。

「お母さんトコに挨拶、行こうな」

 その言葉の意味はわかっていたけれど、それでも彼女は頷いた。男は優しい目で彼女を見つめていた。


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