クマさんの事情
「キスの日」の興奮が未だ冷めやらず、爽やかじゃないオトナのカップルのキスを書いてみたくなりました。久しぶりにクマさんとフジコちゃんを書けて、楽しかったです。
「すぴばる」と「小説家になろう」に投稿しています。
この小説は「すぴばる」内の「先生、修行がしたいです」コミュニティの【みんなのお題 inスプリング】のお題の中から「春の嵐」を使わせていただきました。
「えらい雨降ってきたで」
そういいながら、男がまるで自分の家のような顔でドアを開けて入ってきた。しかしここは食物科のマドンナ田中助教授こと、フジコちゃん個人所有のマンションである。
「何しに来たのよ」
この雨だ。出前でも取ろうかとチラシを肘をつきながら眺めていたフジコちゃんは、顔だけあげて言った。
そんなかわいげないしぐさも、彼女がしていると気だるい色っぽさに溢れた表情に見えるから不思議だ。例えローテーブルの上のチラシがデリバリーピザのものであったとしても。
彼女は立派なソファがあるにも関わらず、リビングの床に座り込んで、ローテーブルにもたれている。授業を終えて帰ってきた格好そのままらしく、わりと地味めなスーツ姿ではあるが、横座りに投げ出された、ミニスカートからのぞく脚が破壊力満点だ。
同僚である男にかけた言葉は別に答えを期待してのものではなかったらしく、彼女はまたチラシに目を落とした。
男も別に気にする風でもなく、勝手知ったる様子で洗面所に入り「タオル借りるで」と声をあげた。そのままごそごそしているところを見ると、どうやらお風呂を沸かしているようである。
しばらくして戻ってきた男はワイシャツ姿で、肩からタオルをさげてすっかりくつろいだ格好だ。グレイというよりはくすんだ灰色といった方が正しそうな、何年前に購入したのかわからない背広のズボンは第二の皮膚のようになじんでいる。
「関西出張のお土産、もってきたで」
そういいながら男が差し出したのは、白地に赤い数字のロゴのついた紙袋。関西の主要駅にはほとんど出店している、関西ローカルな食べ物、豚まんである。
「クマ、アンタほんとにベタな食べ物好きよねえ」
あきれた風を装いながらもフジコちゃんは手を伸ばして受け取った。今日の夕飯はこれできまりだ。彼女は美味しいものを食べることは好きだが、別に高価な食事にこだわりがあるわけではない。高いものもチープなものも、美味しければそれでいい。ただ外見的イメージからオシャレでムードのあるレストランなどに誘われやすく、それを断ったりはしないだけである。
クマと呼ばれたこの男は、フジコちゃんの勤める大学の日本文学科の石川教授だ。この春に彼女に先駆けて教授になったが、それを鼻にかけることもなくいままでと態度が全く変わらない。かえってフジコちゃんなどが「アンタもアタシを差し置いて教授になったんだから、もう少し身なりに気を遣ったらどうなのよ」とぶつぶつ言ったりしている。といってもフジコちゃんは食物科なので教授昇進レースに関連性はない。
フジコちゃんとクマさんは大学の同級生で、卒業後の勤務大学も同じという腐れ縁だ。知り合ったのが大学三年のときで、それからもう十一年ほどの付き合いになるが、いわゆる深い関係になったのはこの一年前くらい。それ以来フジコちゃんが他の男性に誘われる回数がなぜか激減したらしい。
木曜日とはいえ一人でこんな時間にマンションにいるなんて、以前のモテモテフジコちゃんを知る人なら信じられなかっただろう。まあ、フジコちゃんも誰かにそれを指摘されても「かえって気楽かもね」などと、あまり気にする様子もないのだが。
出張から帰ってきたばかりの男は食卓にお茶の準備を済ませて、新大阪の名店街で買ってきた美味しそうなお総菜を並べている。食べやすいよう銘々の皿に取り分けてある。結構まめな性格のようだ。
「お土産がコレねえ」と言いながらフジコちゃんは豚まんの包み紙を破っている。新幹線に乗る前に蒸された豚まんはもう冷めていて、湿っぽい。
「隣の人臭かったんじゃない? いっそのこと新幹線の中で出来たてを食べちゃえば良かったじゃないの」
「まだおなか空いてへんかったからな」
そう言いながら醤油用の小皿をホイと手渡して、彼女の向かいに座る。
「いただきます」と両手を合わせてから食べ始めるあたり、見た目は少しばかりアレだが結構きちんとした男のようだ。ましな洋服を着せたらもう少し見られるかも。ただ全体から醸し出される雰囲気が刑事コロ○ボのようでやぼったく、やはりクマさんというあだ名は体を表しているのだろう。
フジコちゃんは他所では決してしない、豪快な手づかみで豚まんを平らげ、今はお総菜を物色中である。豚まんは彼女の好物であったのかもしれない。
「アンタも出張多いわよねえ」
お腹がくちくなってきたフジコちゃんはご機嫌である。
「今回は大阪の学会やったんや」
ポトンと口から落ちそうになった豚まんの具を器用に皿で受け止めながら、男は思いついたように言う。
「ああ、そういうたら山野に出会うた」
「うわ、懐かしいわね。恭子は元気だって?」
山野はクマさんと、恭子はフジコちゃんと同じ学科で、二人の友人である。卒業してから山野と恭子が結婚したときにはびっくりした。
「二人目の子供が幼稚園や言うてた」
「もうそんなになるのねえ」
フジコちゃんは感慨深げだ。
「そういえばアンタ、恭子としばらく付き合ってたんじゃなかった?」
聞きにくい話題をずばっと聞けるのはフジコちゃんの特技である。
「三ヶ月だけやったけどな」
そんな彼女の言葉に動揺を見せず答えることができるのも、クマさんの特技である。
「へえ、どうして別れたのよ?」
男が答えに詰まって箸を置いてしまった。彼女は珍しいこともあるもんだとちょっぴり驚いたが、この好機を逃すまいと急いで「びっくりコロッケ」なるものを飲み下し、さらに畳み掛ける。
「恭子、いい娘じゃない? 振られるなんて初めてだから泣いてたわよ」
スタイルは私の方がよかったけどね、とどこかで聞こえたような気もするが空耳であろう。
「……そやから約束させられたんや」
男がボソッと呟いた。こういうとき、フジコちゃんの耳は高性能になって聞き逃すことなどあり得ない。
「へえ、一体なにを約束したのよ?」
箸を置いて、興味津々で身を乗り出して尋ねる。目の前の男が言いよどむなどという珍しい姿を見せるものだから、なんだか獲物を追い詰めたような気になってわくわくしている。
「……十年間誰とも付き合わないで、って言われた」
「へ?」
思いもよらない返答にどこか変なところから声が出てしまった。
「別れる理由を言わないんだったら十年間誰とも付き合わないで、って言われたんや」
「何でまた恭子もそんなことを……」
あきれた、とフジコちゃんは思う。恋するオトメの微妙な感情にはイマイチついていけない女なのである。フジコちゃんをよく知る女友達からは、やっかみ半分に「あの顔とスタイルは宝の持ち腐れよねえ」と言われていることを知らないでもない。
「大体別れる理由なんて適当にでっち上げりゃいいのよ。君はどうも僕の思っていた人とは違うようだとかなんとか」
話に夢中になって舌が滑りすぎたことに気づいたフジコちゃんは、唇を軽く噛んだ。彼女が振られるときにはいつもこういわれているのをこの男も知っている。反撃のチャンスを与えてしまったようだ。
しかし、来ると思っていたからかいの言葉は聞こえることがなかった。
「なにも言いとうなかったんや」
男がポツンと答える。
「それで、もしかしてアンタ、その約束を律儀に守ってたの? 十年間?」
なにも言わない男の顔をじっと見つめながら、彼女はなおも言いつのる。
「それに恭子はもうとっくに別の人と結婚してるじゃない」
それでも黙っている男をあきれたように見やる。別れた女との約束を十年も守るなんて信じられない。それも三ヶ月しか付き合ってないのに。
「なんなのよそれは」
ばかがつく程どうしようもない男だわねえ、と思っていると男が口を開いた。
「紹介された友達の方を好きになってしまいました、なんて言えんやろ」
へええ、それ誰、誰を好きになったの? と聞こうとして、ある可能性に気づき口を閉じる。
それを確認した男は、初めてニヤッと口の端で笑った。
「言い寄る男子学生を集めて『アンタたち、アタシに好きって言わせてみなさいよ』って啖呵切ってたやろ。アレにはしびれたで」
お題といいながらほとんど使えていない気が。他にも楽しいお題がありまして、「ぱんちら」はしばらく悩んだのですが、フジコちゃんにハイヒールで踏まれそうな気がしたので、泣く泣く取りやめました。
全3回の短期連載です。よろしくお願いいたします。