九 章
いきなり扉が開き、ルクレツィアが入ってきた。
少しだけ目を血走らせ、素早くぼくたちを見つけると眉を顰めた。そしてゆっくりとぼくたちの座っている真向かいにやって来て、ソファの上にどすんと座り、「ただいま」と、平板な声で言った。
「あ、ああ、おかえり。体の方はどうだった?」
ルクレツィアは心の中で怒っている。それを知ったぼくは、しどろもどろにそう言った。
「別に──何でもないわ」ルクレツィアはぼくと、ぼくの腕にしがみついている憂姫を睨みながら、素っ気無く答えた。
ルクレツィアは憂姫に嫉妬しているのだ。それはわかっているのだが、憂姫の腕を振り解く気にはなれない。憂姫が頼れる人間はぼくしかいないのだから。
喩え憂姫にえたいの知れない不気味さを感じていても……。
「そうなのですか? わたしには痛みを我慢しているように見えますけど」
憂姫がそう言った。どこか──そう、その声の響きにどこか挑発するような、相手を弄うようなものをぼくは感じて、思わず憂姫の顔振り向いた。
微笑んでいる憂姫の瞳には、先程までぼくに見せていた怯えや悲しみは浮かんでいなかった。ルクレツィアを見据えるそれの色からは敵対心を強く感じた。
ルクレツィアもそれを感じたのだろう。愛らしい頬を痙攣させて、鳶色の瞳に怒りを浮かばせた。両手はしきりにスカートを握り締め、細かい皺を造りだしている。
「そんな事はあなたに関係ないでしょ!」
ルクレツィアはおもむろにそう言って立ち上がった。両腕が怒りに震えている。
「気分が悪いからすこし休ませてもらうわ!」
ルクレツィアは言い捨てて、仮眠室に入ってしまった。乱暴にドアが閉められた。
ぼくは暫く呆然としていたが、慌ててルクレツィアの後を追う為に立ち上がろうとした。しかし、憂姫の腕がしがみついているので、思うように腰が上がらなかった。
「彼女はどうしてあんなに怒っているの?」
憂姫は無邪気そうに笑った。その笑顔が勝ち誇っているように見えたのは、ぼくの勘違いだろうか?
ぼくは背中に冷たいものが流れるのを感じた。
「ごめん、ルクレツィアの様子を見たいんだ。腕を離してくれるかな?」
ぼくはそう言って憂姫の腕を振り解こうとした。この少女から離れたくて仕方が無かった。数分前までは、この少女と触れあっているのが心地良かったというのに……。
憂姫の腕は離れなかった。それどころか、さらに強い力でぼくの左腕を締めつけるので、ぼくは痛みを感じるほどであった。このか細い少女に、どうしてこれほどの力があるのだろうか? ぼくは呆気に取られて憂姫を見つめた。
「嫌、わたしとここに居て!」
憂姫がすがるようにそう言って、ぼくの腕に皿にしがみついた。潤んだ瞳を見たぼくは、一瞬気が遠くなるような感じを受け、思わず頷くところだった。この娘を放っておけない。
(なにをしているの! 早くこっちに来て!)
その時、ぼうっとなったぼくの心に、ルクレツィアの怒りの叫びが突き刺さった。拗ねているような甘い感じがした。ぼくは霞のかかったような頭を降りながら、
「やっぱりちょっと心配だから──」
と、彼女の腕を解こうとした。しかし、憂姫の腕の力は一向に緩まない。
「彼女とどう言う関係なの? そんなに彼女の事を──愛しているのね?」
なぜか哀しそうな声で憂姫はそう訊ねた。
ぼくは返事に詰まって暫く黙り込んだ。
この娘はどうしてこんなに哀しい顔で笑うのだろう? 同じ微笑でも、ルクレツィアの明るい、人懐こい微笑とはまったく正反対だ。でもそれが憂姫の魅力なのだろうか?
確かにぼくは憂姫に惹かれている。この儚げな少女を護ると言う事に、命を賭ける事を厭わない気持ちもある。それだけの魅力を憂姫は持っているのだ。
だが──ぼくが本当に大事に思う少女は別に居るのだ。
ぼくの能力を知っていても気にしない少女。自分の心の中に影を持たない少女。憎しみも哀しみも、喜びも怒りもそのまま露わにしてくれる少女。
肌が触れあう事を嫌うぼくに、屈託無く抱きついてくる、愛らしい金色の髪の少女。
他人と触れあう事の意味を思い出させてくれた、へんてこな服を着る少女……。
「──彼女は、ルクレツィアは、ぼくの一番大事な存在なんだ」
ぼくは憂姫に微笑みながらそう答えた。
憂姫の腕から急に力が抜けた。ぼくはゆっくりと、左腕をそこから引き抜いた。
憂姫の表情は凍りついていた。その黒い瞳はガラスのように無機質な光を宿し、ぼくの顔を見つめ続けていた。
ぼくは何て声をかければいいかわからず、憂姫を見下ろしながら暫くの間じっとしていた。それにしても何か悪い事でも言ったのだろうか?
「あ、あの、それじゃ、ちょっと見てくるね……」
ぼくは仮眠室を指差してそう言った。それに対して彼女は無反応だった。
ぼくは憂姫の様子を見ながら、すこしづつ後退して、仮眠室の扉に向かった。憂姫は俯いて、その表情は長い黒髪に隠れて窺えない。
ぼくが扉の取っ手に手をかけた時、憂姫はいきなりこう言った。その声はどこか妙に明るく響いた。
「──ああ言った服を着た娘が好みなのね?」
彼女の言葉の意味がわからなくて、ぼくは曖昧な微笑を浮かべながら部屋の中に入った。
「遅かったじゃない! 何をしていたの?」
仮眠室に入り、後ろ手に扉を閉めると同時に、押し殺した声でルクレツィアが訊いてきた。苛立ちと怒り含んだ声だったが、〈心話〉としては響いてこなかったので、本心はブロックしているのだろう。つまり、その怒りは見せかけだけのものだ。
ぼくはそんなルクレツィアが微笑ましくて、思わず口元が緩んでしまった。
「何よ! その笑いは」
それを見逃さなかったルクレツィアは鋭く言った。
「別に──それより体は大丈夫なんだろうね?」
ぼくは白々しく微笑みながらルクレツィアの座っているベッドに近づき、傍らの椅子に腰を落ち着かせた。
「ただの打ち身で終わっているみたいよ。雅さんは心配しすぎなのね」
ぼくに演技は通じないと悟ったルクレツィアは、すぐに普段の口調で話し出した。
「心配されないよりはいいだろう? ぼくなんかそんな心配された事は無いよ。前にぼくが、デーモン・シンドロームの男に殴られた時だってろくに心配しなかったんだ。肋骨にヒビが入ったって言うのに……」
ぼくはぶつぶつと不満そうに呟いた。
「わたしは心配していたわよ。それに、雅さんだって圭だって。あの人たちはそれを表に出したりしないだけ」
「そうかなぁ? まぁ、どうでもいいよそんな事──それより、なんでルクレツィアはあの娘が、憂姫が嫌いなのさ」
ぼくはいきなり核心に触れた。
ルクレツィアは一瞬だけぼくを睨みつけたが、すぐに小さな溜め息を吐いてベッドに倒れこんだ。
「嫌いなものはどうしようも無いでしょう? 特にこれと言った理由は無いけど、初対面からあの娘には嫌なものを感じたの。それだけよ……」
ぼくはルクレツィアが、何かをはぐらかしているような気がした。そんな第一印象で、憂姫を嫌うような娘ではないはずだ。ルクレツィアは確かに人見知りするタイプではあるが、ああまで攻撃的な態度を取る人間では無い。どちらかと言えば、微笑を浮かべながらそれを避けようとするタイプだった。
ぼくと憂姫に嫉妬していたのは事実だったが、ルクレツィアはそれ以上に憂姫を嫌悪しているようだった。それに、何故かあの薄倖の少女を恐れてさえいる気がする。
「──嫉妬してこんな事を言っている訳じゃないからね」
ぼくが黙っていると、いきなり身を起こしたルクレツィアはそう言い出した。
「わかってるよ」ぼくはそう言ってルクレツィアの手を取った。
ルクレツィアは一瞬、その手を戻そうとしたが、
「わたしが本当の事を言っているのか確認したの?」
と言ってぼくの瞳を覗きこんだ。
「そんな訳ないだろ。ルクレツィアが言っている事が、頭の中の言葉と違う事なんて無いじゃないか。
──ただ、ルクレツィアに触れていたかっただけだよ」
そう言ってぼくは、ルクレツィアの肩を抱いた。フローラル系の香りが、柔らかくぼくの鼻孔をくすぐった。柔らかな感触と温もりが、ルクレツィアの肌から感じられる。ぼくの心は安らぎを感じて、凄く落ち着いた。
何と言う違いだろう。憂姫に触れられていた左腕からは、冷たく、硬い感触が伝わっていた。それがぼくにはなぜか怖かった。
ルクレツィアを抱いた腕から、彼女の心が伝わってきている。ルクレツィアの心に嫉妬心がない訳ではない。でもそれは、憂姫を嫌う要因にはならぬほど小さいものだった。ルクレツィアはぼくを信頼している。自分以外の女の子に、ぼくの心は移る事がないと確信しているからだ。
もちろん、その信頼にぼくは答えている。どんな美女であろうとも、ぼくにはルクレツィア以上の魅力を感じない。ルクレツィアもかなりの美少女だと言う理由もあるのだが、実際にその魅力の元は、彼女の心の中身にあるのだから。
普通の女性ならば肌が触れあった時、必ずぼくの精神にダメージを与える。ぼくにとって人間の心の奥に潜む闇と毒は、現実の〈デーモン〉などよりも恐ろしい狂気の世界だ。
闇の毒もそして狂気も、程度の差こそあれ、どんな人間の心にも棲んでいる。それを覗く事は、ぼくには耐えられない拷問だった。今でこそ自分の能力をコントロールする事が出来るようになったとは言え、肌と肌を接触したのなら、相手の心は容赦無くぼくの精神を苛むのだ。
だがルクレツィアは──そう、彼女だけはぼくに安息の地を約束してくれる。彼女は一切、人を憎む気持ちを持たないのだ。
それにしてもなぜ──ルクレツィアは憂姫を怖がっているのだろう? その敵愾心と嫌悪感は、憂姫に対する恐怖心から生まれている事が感じられた。
ぼくたちが揃って仮眠室を出ると、憂姫は居なかった。
別に慌てはしなかったが、何度も彼女の名を呼んで、事務所の部屋と言う部屋、バスルームやトイレにも彼女の姿を求めたが、憂姫は何処にも居なかった。
「何処に行ったのかしら?」
ルクレツィアが少しだけ蒼ざめながら呟いた。
ぼくは小さく舌打ちすると、憂姫の存在を確認すべく、目を瞑って〝意識の触手〟を伸ばし始めた。まだこの近くに居るはずだ。
しかし、数分してぼくは意識を閉ざした。まったく手ごたえが無かった。
考えてみると、憂姫の心を覗けなかったぼくの能力では、彼女の存在を察知する事が出来ないのでは? そう思い立ってしまった。
ぼくはすぐに事務所の出口に向かって走り出した。憂姫から目を離したぼくのミスなのだ。後悔と苛立ちがぼくの心を満たしている。
「待って! 何処に行けばいいのかわかっているの?」
慌てて走り出すぼくの背中に、ルクレツィアの鋭い問いかけが突き刺さった。
思わず足を止め、素早く振り替えったが、ルクレツィアに向かって答える事は出来なかった。そうだ、何処を探せばいいんだ?
「──わたしが『視て』みるわ」
ルクレツィアはそう言って、テーブルの上に置かれているティー・カップを取り上げた。
憂姫が使っていた物だと気づくのに、瞬きを二つ分するだけの時間がかかった。
ルクレツィアはそのカップを両手で抱え、ソファに腰を下ろすと目を瞑った。サイコメトリーにかかったのだ。
ぼくは携帯電話を取り出して、慌しく水城に連絡を取る。しかし、無機質な女の声がメッセージを垂れ流している。
こんな時に電源を切るなよ!
取りあえずメールを打ち込んだ。これを読んだ時に、水城はどんな顔をするだろう。へまをしたぼくに対して怒り狂うだろうか?
いや、あいつの事だ、そんな無様な事はしないだろう。蔑むように嫌味を言ってくる事は間違いないとしても……。
ぼくは携帯電話をジャケットの内ポケットにしまい込むと、形の良い眉を顰めて集中しているルクレツィアの肩に手を置いた。彼女の見ているビジョンを共有する為に。
ぼくは暫くの間、ルクレツィアと同じビジョンを見ていた。憂姫の向かった先のイメージが──もしくは彼女の連れ去られるイメージが──そこから得られると思っていた。
しかし──ぼくは面食らってしまった。
通常、サイコメトリーで『視る』ビジョンは、連続する事は稀であるが、複数のイメージを次々と映し出して行く。人の思考がそうであると同じように。だがぼくが暫く見続けているイメージ──もちろん、ルクレツィアの
『視た』ものである──は、写真のように動かない、ただ一つの固定されたイメージだったのだ。
そのイメージは──ルクレツィアのような格好をした憂姫が、ぼくに抱かれているイメージであった。
サテンの布にギャザーをたっぷり取ったレースのヘッドドレスを冠り、襟にリボンを袖にレースをあつらえた白いブラウス、ハイウエストの黒いスカートにも、フリルとレースがふんだんにあしらわれていた。
まさにルクレツィアの好む服装だった。しかし、何故こんなイメージが?
長い溜め息を吐いて、ルクレツィアは戸惑うような視線をぼくに向けた。
「な──何なの、これって……」
ぼくは困惑しながら「さぁ……?」と、力ない声で返した。
何て答えれば良いのだろう? ぼくには憂姫が何を考えていたのかわからない。
このイメージが現実のものではない事は明らかだ。憂姫の想像のイメージに過ぎない事は、ぼくもルクレツィアも認識していた。しかし、通常サイコメトリーでは、人の想像の中でのイメージを捉える事は無い。現実に起きた事象でなければ、そのイメージは物体に残ることは無いのだ。
──それだけこの思念が強いものだったのだろうか?
ぼくは胃の中に鉛を飲み込んだような重苦しさを感じた。
急に携帯が着信音を奏でた。バッハの音楽だった。
「水城からだ」そう言ってぼくは携帯を懐から取り出した。
〈G線上のアリア〉が軽やかに流れる中、小さな液晶画面にも水城の名前が表示されていた。
「もしもし、ぼくだよ、祐騎だ。大変な事に──」
「バカヤロウ!、なにやっているんだ!」
いきなり大声で罵声を浴びたぼくは、あまりにも驚いたので、思わず携帯を取り落としそうになった。
「いいか、いますぐに戻るから下で待っていろ! 憂姫は木戸が追っているから、すぐに合流するぞ。準備をしておれが来るのをまっていろよ!」
そう言って水城からの通信は終わった。暫くの間、通話の切れた携帯を握って、ぼくは呆然と突っ立っていた。
「祐騎? ねぇ、祐騎ったら!」
ルクレツィアの声で我に帰ったぼくは、「あ、ああ、聞いてるよ」と答えて、漸く携帯をしまった。それほどまでにびっくりしていた。
あの、気障でクールなすかした奴が、こんな怒鳴り声を上げるなんて……。
「ねぇ、これからどうするの?」と、不安げな声でルクレツィアは訊いた。
「水城がこれから迎えに来るって──木戸のおじさんが憂姫の後を追っているって……」
ぼくが不明瞭な声でそう答えると、ルクレツィアは怪訝な表情をした。
「どうしたの? 大丈夫?」
「いや──水城に怒鳴られたよ」
ぼくは情けなさそうに呟いた。
ぼくは常々ミスをした時には、嫌味を言われるより怒鳴られた方がいいと思っていたが、今回みたいに初めて怒鳴られると、それも考え違いだったと思った。
水城が怒鳴ったと言う事は、水城自体にも焦りがあったからだと思ったからだ。
あの冷静な水城が自分を見失った。それほど重大なミスだとぼくは気づいた。
でも、こんなところで落ち込んでなんかいられない。
──憂姫を〈貴族〉なんかに渡せはしない。ぼくは彼女を絶対に護ると約束したのだ。
ぼくは装備を取り出して、出掛ける用意を始めた。
窓の外は、血のように紅く染まった空が広がっている。
そう──後わずかな時間で、夜の闇が訪れようとしていた。
夜の支配者──〈闇の種族〉が墓場より現われる時間が……。




