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八 章

 

 ぼくと木戸はその男の存在を認め、一瞬の内に反応した。二人とも腰の拳銃を引き抜こうとしたのだ。しかし、右手は拳銃のグリップに触れたところで凍りついてしまった。


 男の手にはグロック9ミリ・オートマチックが握られていて、その銃口がルクレツィアのこめかみに押し当てられていたからだった。


「誰だ、おまえは? 何の用があるんだ?」

 

 ぼくは噛み締めた歯の間から、軋むような声で男に質問した。それと同時にぼくは男の心に侵入しようと試みた。

 

 にやりと白い歯を剥きだして男は笑った。ぼくのテレパシー能力を知っているのか、男は意識的に心に『壁』を張り巡らせていた。どうしたらそんな事が出来るのだ?

 

 心が読めない訳ではない。ただ思考をぼやかして、明瞭な考えを頭の中でまとめていないだけだ。意味の無い事をだらだらと思い浮かべている。こいつはぼくの能力を知っているのだ。


「おまえ、亜門だな?」木戸が確かめるようにそう言った。


「銃を捨ててそのまま座っていろ」男は無機質な声でそう命じた。


 ぼくたちは素直に従った。この場合、それ以外に方法は無かった。こいつは脅しじゃ無い。ぼくたちが不用意に動いたなら、本当にルクレツィアを射殺する気でいるのだ。


「なぁ、おまえもハンターなんだろう? なんでこんな真似をするんだ?」

 

 木戸はソファに腰を下ろしながら、怪訝そうに訊いた。

 

 ぼくは、絨毯に投げ捨てた45オートをちらちら見つめ続け、亜門の隙を窺ってみたが、亜門は無造作にそれを、ブーツを履いた足で遠くまで蹴り飛ばした。壁に当たって激しい音を立てる。ちくしょう、傷がついたら弁償しろよ!

 

 亜門はルクレツィアを床に横たわらようとした。彼女はキツイ視線で亜門を睨みつけたが、腰に容赦ない蹴りを喰らって、呻き声を上げながら倒れ込んだ。


「貴様!」ぼくは激情に駆られて思わず立ち上がろうとしたが、木戸にしっかりと押さえつけられた。離せよ、ちくしょう!


「ばか、落ちつけよ! おまえがヘタな事をすれば、絵伶奈が一番に死ぬんだぞ!」


 荒い息を吐いてぼくは懸命に心を落ち着かせた。その通りなのだ。あいつのグロックはルクレツィアの頭をしつこく狙い続けている。殺意も無しに引き金を引くタイプだと確信した。


「死にたければそう言え。どうせおまえたちには用など無い」


 亜門は相変わらず無感情な声で宣言した。天井と壁に素早く視線を回し、

「ここは防音設備が整っているようだから、俺は別にかまわない」

と、つけくわえる。


 ぼくたちはおとなしくする事にした。奴はいつの間にか左手にもグロックを握っている。二丁拳銃だ。右手のグロックはぼくに、左手の方はルクレツィアに銃口を向けている。


「それでなんの用なんだ? こんな事をやらかす意味が解らんな?」


 木戸は落ち着いた声で、亜門の酷薄な顔に向かって言った。


「あの娘を返して貰う」


 表情を微動だにせず、亜門はそう答えた。


「あの娘──って、憂姫の事か?」


 ぼくは動揺して言った。なぜこの男まで憂姫を狙う?


「まさか囮に使う為じゃ無いだろうな?」


「それ以外になんの意味が在ると言うのだ?」亜門の答えは簡単だった。


「おまえはそこまでして、なぜ〈エルネージェ女伯爵〉を狙うのだ? そんな手口じゃ、完全に違法行為になってしまうじゃないか。それでは報酬も出ないどころか、警察に捕まっちまうだろう?」


 木戸が顰め面をしてそう訊ねた。


 確かにそうである。こんな真似をして〈エルネージェ女伯爵〉と言う〈貴族〉を屠っても、まったく報酬は手に入らない。ハンター資格も取り消されるだろう。どうして亜門は〈エルネージェ女伯爵〉に拘るのだろう?


「おまえたちには関係無い。余計な詮索をしないでおとなしくしていろ」


 そう言って亜門は黙り込んだ。ぼくは相変わらず亜門の心の中を覗けなかった。その事を心話(テレパシー)で木戸に伝えた。片方の眉を上げて木戸はぼくの顔を見た。その後肩を竦め、(それじゃあ、仕方ない。黙っていよう)と、〈心話〉を返した。


 亜門がここで、憂姫が戻って来るまで待つ事は間違い無いだろう。後は水城に賭けるしか、今のぼくたちに選択肢は無い。


 息苦しい沈黙が続いていた。亜門は銃口を微動だにせず、相変わらずぼくたちに向けている。良く疲れないものだと、亜門の忍耐力に思わず感心してしまった。


 それでもそれが終わる時は来た。水城と憂姫が帰って来たのだ。


 ぼくは水城がエレベーターに乗った時に、テレパシーを飛ばして亜門の存在を伝えた。水城はそう驚いた風も無く、(わかった)とだけ返事を返してきた。


 不思議なほど落ち着いたその返答に、ぼくは思わずやきもきしてしまう。まったく何を考えているんだろう?


 やがて事務所の扉が開き、水城とその後に隠れるようにして──憂姫が立っていた。何で連れて来るんだ! あのばか!


 ぼくはその瞬間に亜門が隙を見せると思い、全身のばねを巻き上げてそれを待った。しかし、ちくしょう! 亜門の左手のグロックは、相変わらずルクレツィアから離れない。


 右手のグロックの銃口は、真っすぐ水城の胸の真ん中を狙っていた。トリガーに触れる指には僅かに力が掛かっている。たとえ今、亜門の頭を一撃で吹き飛ばしても、その瞬間に二丁のグロックのトリガーは引かれ、弾丸が発射されてしまうだろう。

 水城は自分の胸に向けられている、口径9ミリの銃口と亜門の顔を交互に見ていたが、冷静さを保ったままでいるようだった。驚いた素振りを一つも見せない。


「中に入れ」と、短い言葉で亜門は命じた。


 胡乱そうな眼つきをしてはいるが、動じた風もなく、水城は無言で事務所の中に入った。左腕で憂姫を庇うように抱いていた。


 亜門は巧みに体をずらし、銃口の向きを変える事無く後退した。


 亜門が離れたので、ルクレツィアはゆっくりと立ち上がり、青い顔をしていながら亜門を鋭く睨みつけた。ぼくはすぐに彼女の横に立ち、「大丈夫か?」と、耳元で囁いた。


 ルクレツィアはぼくに目を向けず、「痛いわ」とだけ、平板な声で答えた。


「何の用だ? こんなところまでやって来た理由は?」


 水城は、両手のグロックをルクレツィアと自分に向けている亜門に、もう一度尋ねた。


「その娘を渡して貰おう。それでここから出て行ってやる」


 陰気な声で亜門は答えた。


「お話にならないな。この娘は俺たちがガードを依頼されてるんだ。なんで殺されるとわかって、おまえなんかに預けなければならない? どうせこの娘を、狙っている〈貴族〉を誘い出す為の囮に使うつもりなんだろう? おまえがあの〈貴族〉を執拗に追っている訳は聞いたよ。だが、自分の復讐の為に他人を犠牲にしても気にしない奴は最低だ。

 それに因果応報だろう? そうなったのはおまえの所為なんだからな」


 唇の端を吊り上げ、嘲笑するように水城は言い放った。こういった時の水城は鼻持ちならない厭な奴だ。人を怒らせる為の態度なのだ。


「死にたいのか? お前たち全員をこの場で皆殺しにして、その後、その娘を連れて行ってもいいんだぞ」


 亜門の陰気な声は、本当にそうしようかと思っている声だった。


 ぼくは床に転がっているカスタム・45オートの距離を測った。それを拾い上げ、亜門を撃つのにどれだけの時間がかかるだろう? いや、無理だ。二秒もあれば、亜門はぼくら四人を簡単に射殺するだろう。万事休すとはこの事だ。


「おいおまえ、こっちに来るんだ」と、亜門は憂姫にそう命令した。


 憂姫は困惑した表情で水城とぼく、そして木戸の表情を窺った。


 何とかしなくては。このまま憂姫を連れ去られる訳にはいかない。妙に切迫した感情がぼくの胸に湧きあがった。


 それは木戸にも感じられた。彼はポケットのナイフを探り、いざとなったら一命を賭しても、憂姫を救い出す事を考えている。そこまで憂姫を救う事を第一に考えている。


 ──それにはちょっとだけ、何か引っ掛かるような気がした。


「残念だが、殺されるつもりも、憂姫をおまえに渡す気も無いな」


 水城はアルカィックな笑みを浮かべてそう宣言して、いきなり「伏せろ!」と叫んだ。憂姫を床に押し倒し、その身に自分の体を被せた。


 ぼくもルクレツィアを抱いて、横っ飛びに床に倒れ込んだ。ルクレツィアを庇った為に受身を取れず、したたかに背中を打ってしまった。一瞬、息が詰まる。

 それでもぼくは、涙の滲んだ目でその後に起きた事をしっかりと目撃していた。


 事務所の扉が勢いよく開いた。まるで丁番から扉が千切れるかのような勢いで……。


 亜門は後ろで束ねた長髪を揺らしながら、その音に振り向いた。左手のグロックがそちらに向けられる。そして開け放たれたその扉から、長いプラチナ・ブロンドの髪を振り乱して、エカテリーナが床を転がるようにして飛び込んできた。両手で握られたオートマチックが火を噴いた。


 エカテリーナの放った銃弾を、左手で頭をカバーしながら半身になって亜門は受けた。コートの胸元に数発が着弾していたが、それが致命傷になってはいないのがぼくにはわかった。それでもショックは受けているらしい。


 ぼくはその隙に自分の45オートを拾い上げた。そしてその銃口を頭に向けた。


 次の瞬間、亜門は素早い動きで廊下へ飛び出していった。


 一瞬だが、ぼくには亜門の頭蓋骨を吹き飛ばすことが出来た。しかし、なぜか引き金を引くのを躊躇ってしまったのだ。


 水城の言葉と、それによって精神のガードが破れ、亜門の心に浮かんだ悲壮なイメージの為に……。


 水城がやたらと落ち着いていた訳はわかった。ぼくが亜門の事を伝えた時、エカテリーナもそこにいたのだ。そして合図を送ったならば飛び込んでくるように頼んでいたのだ。


 エカテリーナも二発の9ミリ弾を喰らっていた。それはスーツ・タイプのボディ・アーマーによって止められていたが。


 彼女の白い腹に、おおきな紫色の痣が二つ出来ていた。


 アーマーの中で停止していた、そのおおきく潰れた弾頭を見て、

「ハイドラ・ショックだな、これは」と、木戸が呟いた。


 ハイドラ・ショックは、先端に孔を穿ったホロー・ポイント弾を更に進化させた弾丸だ。孔の中に硬い材質の棒を立てて、弾頭の炸裂度を増し、更に深い部分まで到達するように貫通力も増している。非常に殺傷力の高い弾丸だと言われている。


「これなら大丈夫だ。ニ三日は痛むだろうけどな」


 水城はエカテリーナにそう言うと、にやっと笑いかけた。


 エカテリーナはブラウスの裾を直し、「報酬は戴くわよ」と、水城を軽く睨みつけた。


「わかっているよ、今日は美味いものでも奢ろう。それと例の物も買う事にするから」


 水城がそう宥めるように言うと、エカテリーナは肩を竦めて立ち上がった。そして身繕いをすると、「それじゃ、後で連絡して」と言って事務所を出て行った。


 憂姫とルクレツィアは室内の荒れたところを片付けていた。エカテリーナも亜門も、互いの拳銃から発射された銃弾をお互いの体に受けていたので、壁や床には弾痕は無かった。血の後さえも無いので、亜門のコートも防弾仕様だったのだろう。


 手強い奴だ。奴を倒すには冷酷な話だが、頭を撃ち抜くしかないだろう。出来ればそれをやりたくはないんだけどな……。


「さっきの話だけどな、一体奴は、何故〈エルネージェ女伯爵〉とか言う〈貴族〉を追っ駆けているんだ?」


 木戸が煙草を吸っている水城に訊いていた。


 ぼくは何となくわかっているが、それでも二人の会話を聞いていた。


「ああ、あの話か。今日、陣内に会った時に情報提供を受けたのさ」


「陣内に? それは珍しいな。奴さんがそんな事を簡単に教えてくれたのか?」

「いや、こっちの情報と引き換えにさ。そうじゃなければあいつは何も教えてはくれないよ。まぁ、正直言ってそんな事はどうだっていい話だけどな」

 水城はそう言って煙草を揉み消した。


「奴は東京で〈エルネージェ女伯爵〉を狩る依頼を受けていたのさ。その時に相棒の女を殺されたらしいな。それで復讐に燃えて、亜門はこんなところまでそいつを追っ駆けてきているそうだ。まぁ、ありふれた話だな」


 水城の話は簡単に終わった。しかし一瞬とは言え、ぼくは亜門の心象風景を見ていたし、その心に燃える憎悪の炎も知ってしまった。それはぼくや木戸には、わかり過ぎるほどの理由であり、動機でもあった。


「それじゃ、報酬目当てに仕事を受けている訳ではないのか」

神妙な顔で木戸が言う。


「今回の案件はオープンなのにな。登録もしていないらしい。だからこそ、あいつは最悪の妨害者になりそうだ。陣内が言うには、かなりヤバイ事もしでかしているそうで、指名手配になるとも言っていたぞ。こちらにすれば、早く捕まえて欲しいところだが、ま、そう簡単には捕まらないだろうな。潜伏場所だってわからないみたいだ」


 水城はそれで話を終えた。簡単に身繕いし、エカテリーナに会う為に出掛けて行った。


 その後、たいした傷では無いのだが、木戸が自分の車を出してルクレツィアを病院に連れて行った。一応、骨や内臓に異常が無いか調べるとの事だ。





「あの人はみんなに大事に思われているのですね」


 木戸とルクレツィアを見送ったぼくに、いきなり憂姫がそう言った。


「そりゃあ、ぼくらは大事な仲間だからね。それに木戸さんは女の子には優しいのさ。

 別に変な意味ではないよ。死んだ娘にダブって見えるらしいんだ」


 ぼくはそう答えながら、キッチンに移動した。喉が渇いてしょうがなかったのだ。


「そう。でも羨ましい。わたしにはもうそんな人は誰も居ないのだから……」


 憂姫の哀しそうな声を聞いて、ぼくは思わず彼女を振り向いた。俯きかげんのその表情は儚げで、どこか透明な感じを受けた。急に胸が締めつけられるように痛み、この娘を何とかしてやらねばと言う、強い気持ちが湧いてきた。


「そんな事は無いよ! ぼくが絶対に君を護ってあげるよ!」


 ぼくの口から思わずそんな力強い言葉が発せられた。ぼくがこんな事を口走るとは──自分でも不思議な事だった。


「本当に?」


 憂姫は小首を傾げた。白い顔に黒く艶やかな髪がかかっていた。それが妙に愛しく感じてしまう。


「本当さ! それがぼくの仕事なんだから」

 微笑を浮かべてぼくはそう答えた。


「仕事だけなの? それだけなの……?」

 憂姫の表情が翳りを帯びた。哀しげに見える黒い瞳が濡れている。


「いや、まぁ、そうだよね。仕事だなんて言ったら、ちょっと冷たく聞こえるね」

 しどろもどろにぼくはそう答える。なぜか追い詰められているような感覚に襲われていた。


「あ、な、何か飲みたくないかい?」


 冷蔵庫を開けて、ぼくはその中にある缶ジュースを数本取り出した。そして憂姫の座るソファの前のテーブルに置いた。


 憂姫はそんなものに目もくれず、いきなり立ち上がったかと思うと、ぼくの胸に倒れ込むように抱きついてきた。ぼくは思わず彼女を抱きとめた。


「怖いの──」


 耳元で憂姫が呟く。甘く香りがぼくの鼻孔をくすぐった。


「何故わたしがあんなものに狙われなければならないの? どうして? わたしの所為でみんなは殺されてしまったの?」


 押し殺したような啜り泣きが聞こえてきた。ぼくは彼女の背中を優しく撫でて、憂姫の嗚咽が止むまでじっとしていた。それ以外に何をすれば、どう話しかければ良いかわからなかった。この細い身体には悲しみが溢れているのだ。


 そう思うと、けして憂姫をあの〈貴族〉にも、もちろん亜門にも渡してなるものかと、固い決意のようなものが心の中に湧き上がった。


「大丈夫だよ。もう憂姫をそんな目に逢わさない。絶対にぼくが守りきってやる!」


 水城が聞いていたら、胡乱な眼つきで睨まれてしまうような台詞だった。それでも、いまは憂姫の心を癒したかった。


「本当に? 信じていいの?」


 憂姫はすがるようにぼくを見上げ、ぼくの目を見つめた。


 その黒い瞳に引き込まれるような感じがして、慌ててぼくは目を閉じた。奇妙な脱力感が膝をがくがくとさせる。ぼくは意識の一部の回路を閉じた。自己防衛本能が自動的に働いたのだ。精神攻撃を受けつけない為のガードが、心の中に張り巡らされていく。


 なぜ急に、ぼくの防衛本能は動いたのだろう? それに──


 なぜこんなに近くにいると言うのに、憂姫の心はぼくに流れ込んで来ないのだ? 肌が接触している者の、心の中がわからない事は初めてだ。どんなに強いガードを施していても、接触している人間の心が読めない事はないはずなのだ。喩え、水城やエカテリーナといえども、〈接触交感〉まではガード出来ないだろう。ぼく自身、この能力まではコントロール出来ず、見たくもないものを見せられてしまう事もあるのだ。


 憂姫はぼくを再度抱きしめ、「ありがとう」と呟いた。


 何となく釈然としないものを感じて、ぼくは彼女からゆっくり離れた。憂姫は溜め息を吐いてソファに腰を下ろした。そして長い髪をかき上げ、ぼくに向けて微笑んだ。


 その憂姫の瞳には、何か得たいの知れないものが宿っているように思えた。


 ぼくは自分の能力を嫌っていた。肌を合わせる人間すべての心が流れ込んで来る事が苦痛だった。しかしいま、ぼくは相手の心がわからない事に不安と恐れを感じ始めていた。








 あの男がビルから走り出してきた。長いコートの裾をはためかせ、暗い路地に向かって走り続けている。通行人は怪訝な顔をして、その後ろ姿を見送った。

 あの男が路地を曲がり、見えなくなってから、私もその後を追ってゆっくりと歩き出した。そしてその薄暗い路地に入ると、私は全速力で走り始めた。ヒールの高い靴はすぐに脱ぎ、左手にぶら下げていた。


 男は路上に止めている、真っ黒なワゴン車に乗り込むところだった。私は一気にそこまで走りよると、助手席のドアを開いて素早く乗り込んだ。


 男は私の姿を見て一瞬驚いたが、すぐに顔を顰める。そして電光石火の早業で──私以外にはそう見えるだろう──脇の下から真っ黒い不細工な拳銃を引き抜いた。


 その銃口が私に向けられる前に、私はその右手首を摑まえた。そう力は加えてないのだが、男は痛みの為に呻き声を漏らし、その銃を取り落とした。だが、すぐさま男は左手を腰の後ろに回し、同じ様な拳銃を私の脇腹に押しつけた。私がその腕を捕まえる前に……。


 狭い車内で大きな音が何度か響いた。


 何か熱く固いものが私の脇腹に当たったのを感じて、私は撃たれた事に気づいた。しかしかまわずに、左拳で男の左腕を軽く打った。乾いた音が響いて、男の腕が折れた事がわかった。どうやら今の私は力の加減が出来ないようだ。


 男は驚愕の表情で私を一瞬見つめた。しかし、すぐに獰猛な顔に戻り、負傷した両手でさらに私を殴りつけようとしたので、私はうんざりしながらも、このしぶとい男の顔を注意深く殴りつけた。もちろん、この男が死んでしまわないように。


 サングラスが砕け、男は鼻から大量に出血しながら、シートの上に崩れ落ちた。完全に意識は飛んでしまっているので、呻き声さえ漏らせなかった。


 それで安心した私は、鈍い痛みを訴える脇腹を探った。出血はしていないが、服にはおおきな穴が開き、銃口を押しつけられた為に焦げ目が出来ていた。発射された弾丸は皮膚の上で潰れ、シートの上に転がっている。

 私は花弁のように開いたその弾丸を指先で拾い上げた。一瞬でも肉体を硬化させるのが遅ければ、この恐ろしい弾丸が柔らかい肉に食い込んで、重要な臓器を無慈悲に引き裂いただろう。


 私は原形を留めていない弾丸をそのまま放り出し、シートから半分ずり落ちながら気絶している男を見つめた。そして湧きあがる衝動──男の身体を引き裂き、その心臓と肝臓に喰らいつきたかった──を押し殺し、作業を始める用意をした。


 私にはあの女のような駒がいない。自分の眷属を持っていないのは、この状況では酷く不利なのだと言う事がわかったのだ。


 あの娘が襲われた夜、この男の存在があったからこそ、あの娘を助けられる事が出来たのだ。あの娘の能力を一時的に解放させ、この男に助けさせる事が出来たのは僥倖である。


 この男は使えるだろうと、その時から私は思っていた。


 猟犬としての能力がどれ程のものかはわからないが、あの女吸血鬼と対等に渡り合えたのだから十分な力を持っているのだろう。


 私はあの猟犬たちが〈我が娘〉を護りきる事を信じてはいない。所詮人間が、半端な鬼であろうとも、あの女吸血鬼を滅ぼせるとは思えないのだ。


 確かに結界の業は素晴らしいものだった。古の種族でもあの結界を破って侵入する事は不可能であろう。


 しかし、あの結界の外に出てしまえば、人間の力で我らの種族に対抗するのは無理なのだ。それは私と言う存在が示している。


 人間の武器が千年前に比べると各段に進化しているのは確かである。刀槍や弓などより遥かに強力な武器が、今では幾らでも有るだろうし、大量の生物を殺傷する強力な武器もある。しかし、それを使うのはあくまでも人間なのだ。


 人間は道具を発展させてきたが、その心は反対に弱くなってきている。数多たる呪術師の系譜は絶えて久しく、本物の能力者は数少ない。


 だからこそ、我らや、〈異形の種族〉どもが存在していられるのだが……。


 あの娘が本来の存在に変貌した時、真実の姿を認めた時、私の悲願は果たされるのだ。それまでは私があの娘を護らねばならない。


 その為にはどうしても眷属は必要だ。この〈種〉が根付いてくれれば良いのだが……。


 いや、大丈夫であろう。この男の心には怒りと憎しみが溢れている。〈種〉が根付く為の要素は十分なはずだ。


 吸血鬼と呼ばれるあの女が、簡単に眷属を創れる事が妬ましい。子孫を残すと言う事も簡単な行為で終わらせられるのが羨ましい。


 あの女の種族は眷属を増やす事も、〈仔〉を成す事さえも、お互いの血を与えると言う行為だけで良いのだから、なんと簡単な事だろう。


 それに比べて我らと言う存在が、自分の眷属を創る為の条件は何と厳しい事だろうか?人間であればそれで良いと言う吸血鬼と違い、憎悪と欲望に満ちた精神の持ち主で、かつ、その精神の強さが無ければ生まれ変わる事が出来ないとは……。


 エゴに支配された人間が、心の強さを持つ事はあまりない。しかし、そんな人間でなければ〈種〉は育たずに死んでしまう。これが我らと言う種族が少ない理由だ。


 しかも、後継者になる事の出来る存在など、数百年に一度しか現われない。あの娘が私の前に現われたのは、僥倖としか言えないだろう。


 多くの〈鬼〉はその存在を得る事無く、静かに塵と化していく。


 だからこそ──私はあの娘を手に入れなければならないのだ。 


 私は男の心臓に〈種〉を植えつけ終えると、それが根づくまでの僅かな時間さえも待つ事が辛かった。


 この男は最高の素材のはずだ、と自分に言い聞かせ、静かにそれを見守った。

やがて男の切り開かれた傷が閉じ、折れていた腕の骨が真っすぐに繋がり始めた。


〈鬼〉としての回復力が発揮され始めたのだ。


 そして──男は瞳孔の無い金色の瞳を輝かせ、私の顔を見つめながらゆっくりと身を起こし始めた。



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