表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/13

六 章

 水城は暫くの間、ぼくと憂姫の顔を見比べていた。まったく無言のままで。


 憂姫は俯いている。長い黒髪がその横顔をすっかり隠してしまっているので、何を考えているのかはわからない。もっとも、その気になればぼくは、この娘の脳から直接にそれを知る事が出来るはずだ。だが、なぜかそんな事をする気にはなれなかった。


 苛々しながら、ぼくは水城が口を開くのを待っていた。くそ、どうしてぼくはこの男の頭の中身を覗く事が出来ないんだ?


「実はな、依頼されている連続少女殺人の犯人──とされている、エルダー・ヴァンパイアがこの憂姫君を狙っているらしいんだよ」


 漸く水城がそう言った。ぼくは思わず驚いてしまい、憂姫の方を見てしまった。彼女の肩が、震えているのがわかった。


「あの赤毛の〈貴族〉が?」


「おまえ──ああ、もうその姿を確認したのだったな」


「まぁね。でも、二人の〈貴族〉がこの事件に関わっているみたいだよ。ルクレツィアの『視た』〈貴族〉は、今言った赤っぽい金髪の白人の女と、黒髪の日本人らしい女の二人だった。もっとも、黒髪の方の犠牲者は二人だけだったみたいだけどね」


 そう言うと、水城は暫く考え込んだ。ぼくはその沈黙を破らずに、じっと水城が口を開くのを待っていた。


「一ヶ月以上前の事だ」


おもむろに水城が語り始めた。


「彼女の家に〈闇の種族〉の襲撃があった。彼女の両親はその時に亡くなっている。その時の襲撃者が、おまえが言った赤っぽい金髪の〈貴族〉だ。調査によって、その〈貴族〉は〈エルネージェ女伯爵〉と呼ばれるエルダー・ヴァンパイアだと判っている。


〈エルネージェ女伯爵〉は北欧辺りで知られていた〈貴族〉で、最近になってこの日本までやって来たらしいな。襲撃の晩には、幾人かの眷属を連れて来ていたと言うから、おまえの『視た』別の〈貴族〉──黒髪の方は、〈エルネージェ女伯爵〉の〈仔〉だろうさ」


 ぼくはその話を聞き、憂姫の身に起こった事を理解した。それで、なぜ彼女の姿を見て、悲しさや儚さを感じたのかがわかった。


 極稀な事ではあるが、〈闇の種族〉は一人の人間に執着する事がある。その人間を自分の、〈仔〉や伴侶にする為にと言う場合が多いとされている。


 今回のケースもそれなのだろうか? 憂姫はこの〈デーモン〉に見初められて、その眷属に加えられようとしているのだろうか?



 それにしても──疑問が残った。



「しかし、眷属を引き連れた〈貴族〉に襲撃されて、良くも助かったものだよな?」


 その問いに、水城は一瞬だけ厳しい顔をしたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。「それがなぁ──」


 そう言って言葉を濁した水城の後を受け、憂姫が静かに口を開いた。


「助けてくれた人がいるのです」


 ぼくはその声に振り向いた。憂姫が伏せていた顔を、毅然としてこちらに向けていた。


「助けてくれた人? それは一体──」



 ぼくは思わぬ憂姫の答えに言葉が詰まった。水城に目を向ける。


「別口のハンターがその場に居たんだよ」


 なかば吐き捨てるように、横から水城が答えた。忌々しげな表情だった。


「別口のハンター? 誰だいそんなタイミングで現われた奴は?」


 ぼくは水城に顔を顰めた。相変わらず水城は嫌そうな顔をして、


「亜門と言う奴さ。東京のA級ハンターで、ヴァンパイア専門に活動している一匹狼のハンターだ。そいつがここまで出張ってきた訳だ」

と、一気に言い放った。


「ヴァンパイア専門? 一匹狼って、一人でそんな相手のハンティングをしているのかい? ぼくたちと同じに? そりゃAクラスとは言え、凄く無謀な奴だなぁ」


 ぼくは感心してそう言った。それが水城の癇に障ったらしい。


「俺たちとあんな奴を一緒にするなよ! あいつは確かに一人で〈闇の種族〉を狩っているが、その手口は最低の奴なんだぞ」


「でも、憂姫さんを助けたんだろ? それなら別にいいじゃないか。それにぼくたちの〝狩り〟だって〈デーモン〉にしてみりゃ騙まし討ちでしかない手口じゃないか?」


「別にあの男は彼女を進んで助けた訳じゃ無いんだよ。ちょうどいいタイミングで狙っていた〈貴族〉、〈エルネージェ女伯爵〉を射殺しようとしただけだ。そうじゃなきゃ何故、彼女の両親と姉が殺されるまで待っていたんだよ」


 ぼくはその最後の言葉に愕然とした。その亜門と言う男は、目の前で憂姫の両親と姉妹が〈闇の種族〉に殺戮されるのを黙って見ていたと言うのか?


「それじゃ──ハンター義務違反じゃないか?」


 ぼくたちデーモン・ハンターの義務の一つに、目の前で〈デーモン〉に襲われようとしている人間がいた場合、依頼の有る無しに関係なく、その人間を救うための行動を取らなければならないとされている。亜門と言うハンターは、それに違反しているのだ。


 いや、それより人間としても最低な行為であると思う。


「その通りだよ。まったく、他のハンターの獲物を横取りするだけならともかく、一般の人間を自分の目的の為に見殺しにするなんてのは、最低野郎としか思えないね」


 水城は嘲るように唇を歪めて煙草を咥えた。


「それじゃその男は、〈エルネージェ女伯爵〉を狙っているんだな。そして憂姫さんの家族を見殺しにしてさえも、〈エルネージェ女伯爵〉をそこで取り逃がしたと言う事だ。


 でもおかしいじゃないか? その時にはまだ、〈エルネージェ女伯爵〉はオープンに依頼されている獲物じゃ無かったはずだろう? どうして亜門と言う男は、その〈貴族〉を追っ駆けていたんだ?」


「〈エルネージェ女伯爵〉は東京周辺でも何人の犠牲者を出しているんだよ。もっとも、そのほとんどが眷属とされて、〈闇の種族〉の仲間入りしているんだがな。それが、札幌ではすべての娘を殺して食餌としている。どうしてかはわからん。

 

どちらにしろ、〈エルネージェ女伯爵〉はすでに二千万の賞金首だったのさ。それで亜門はどうやってか知らんが、ここ札幌に狙っている〈貴族〉が潜伏している事を知り、〈エルネージェ女伯爵〉が桐生一家を襲おうとした時、そこに姿を現わしたと言う訳だ」


「それじゃ、この娘が助かったって言うのは──」


「そうだ、偶然さ。別にこの娘を助けようとした訳じゃ無いだろうな。その証拠に、亜門はすぐにその場から消えている。亜門の存在がわかったのは、桐生家に設置されていた防犯カメラにその姿が映っていたからだ」


 水城は煙草を不味そうに揉み消してそう言った。


「なるほど──ね」


 ぼくは溜め息を吐いて憂姫を見た。彼女はまた、その顔を伏せている。


「それは助けられたとは言えないよ」 

 

 ぼくは素直に感想を述べ、肩を竦めた

 助けられた時は、憂姫にはその男が救世主に思えた事だろう。しかし、その実態は冷酷な行動を取り、自分の家族を見殺しにした、ただの汚いハンターだったとは……。


 ぼくは顔を伏せて震えている憂姫に、深い同情を禁じ得なかった。いや、ただの同情とは言えない。ぼくと同じ境遇のこの娘に、哀しい共感を覚えていた。


「まぁ、今夜から泊り込みで護衛を頼むぞ」


 水城は事務所の扉に近づき、

「俺は自分の部屋に戻るけど、その娘に変な事するなよ。まぁ、もっとも絵伶奈が居るんだから、そんな真似は出来るわけ無いか?」

と、いやらしい笑いを浮かべた。まったく頭にくる奴だ。


「いいからさっさと行けよ。仕事が残っているんだろう」


 ぼくはしっしっと右手を払った。



 水城は含み笑いをしながら扉の向こうに消えて行った。


 憂姫はまだ俯いていた。


 ぼくは沈黙に耐え切れず、キッチンに入り温かいコーヒーを淹れる作業をし、それを憂姫の前のテーブルに置いた。近くによると、彼女の精神波動が感じられた。沈んではいるが、先程よりは幾分落ち着いてきているようだった。


「砂糖とミルクはいるかな?」


 そう声をかけると、憂姫は静かに顔を上げ、哀しげな微笑を浮かべた。


「ええ──ありがとう」


 ぼくはその透き通るような微笑に、胸がどきどきするのを感じた。慌ててスティック・シュガーとミルクを取りに立ち上がった。表情にそれが出ていない事を祈りつつ……。


 ぼくが手渡したミルクと砂糖をコーヒーに落とし、憂姫は黙ってカップの中身をスプーンでかき回していた。暫くの間はただそうしていた。


 ぼくはこの空気に耐えられなかった。沈黙を破りたいのだが、この少女に何を話して良いのかまったくわからないのだ。まだ高校生で十七歳の少女だが、この娘は妙に落ち着いていると思う。少なくとも、家族をすべて失った人間の落ち着きではないのでは?


 いや、別に憂姫が家族の事を、何とも思わない冷たい人間などと言っている訳ではない。実際には深く傷つき、悲しんでいるのであろう。




 ただそれがぼくに〝読めない〟だけなのだ。




 そう、ぼくは彼女の心を覗くことが出来ない。なぜか『絆』を結ぶ事も出来ない。水城やエカテリーナとは違う何かが、ぼくの能力を妨害しているのだ。


 何度もぼくは彼女の心に接触しようとしたのだが、まったく手ごたえが無かった。まるでこの少女には心が無いかのように……。


 そんな事がある訳はない。ぼくの能力も限界があるのだ。エカテリーナや水城の心に侵入出来ないのと同じで、この少女にもそう言った無意識の防御が働いているのだろう。


 それがどう言う能力であるのかはまったくわからないが……。


「あの──」



 憂姫がぼくを見つめて何か言いかけた。


「なんだい?」そう答えるぼくの声は、思わず上擦ってしまう。 


「お腹が空きませんか? もう九時になりますし、良かったらわたしが何か作りますけど」


「ああ──そう言えば何も食べてなかった。君も何も食べていないんだろう?」


 ぼくは思わず笑みが浮かんでしまった。なんだ腹が空いていたのか!


 自分の能力の及ばない事で、何となくこの少女に対して忌避する気持ちが生まれていたぼくは、その言葉を聞いてホッとした。


「ええ、最近はほとんど何も食べられなかったんです。それが今頃になって空腹なのに気づいてしまって……」



 はにかむような表情で憂姫はそう答えた。


「よし、それじゃ何か出前でも取ろうか? それとも地下の店で何か食べようか?」


 ぼくはばかみたいに陽気な声でそう訊ねた。


 その時、仮眠室の扉が開いてルクレツィアが顔を出した。不機嫌そうな表情はそのままだったが、目に見えた疲労の色はすっかり消えていた。


「まさかわたしをのけ者にして、何処かへ出掛けようとしていた訳ではないでしょうね?」


 むっつりとして、ルクレツィアはぼくに訊いた。


「そ、そんな事ある訳ないだろ!」


 ぼくは狼狽してしまった。実の所、ルクレツィアの事をすっかり忘れていたのだ。普段ならそんな事は有り得ないのに……。


「──まぁ、いいわ。でもここから出掛けるのは、圭から禁じられているの。何か食べたかったら、デリバリーしなければならないわね」


 そう言ってルクレツィアは、ぼくの隣にどさりと座り込んだ。


 ぼくはルクレツィアの顔を見るのが怖いので、曖昧な笑みを浮かべながら憂姫を見つめ続けた。憂姫は、ぼくとルクレツィアの姿を見て、困ったような表情を浮かべた。


「それじゃ鮨でも取りましょうか? この時間なら他にはピザしかないけど、わたしはあまり脂っこいものは食べたくないもの。どうせ経費なんだから、そうしましょうよ」


 ルクレツィアは提案した。ここで意義を唱える事は自殺行為だと思い、ぼくはそれに賛成した。憂姫も異存は無かった。


「それじゃわたし、圭も食べるか訊いてくるわ。まぁ、食べなくてもいいんだけど。取り敢えず祐騎、特上を五人前で電話しておいてね」


 そう言ってルクレツィアは事務所を出て行った。


 ぼくは近所の鳳寿司に電話して、特上の生寿司五人前と刺身の盛り合わせを頼んだ。





「仲が良いのですね?」




電話を終えたぼくに、憂姫はそう話しかけてきた。


「えっ? ああ、そうかい?」


 ぼくは突然の問いに、答えでは無い答えを返した。


「羨ましい──水城さんもあの金髪の娘も、あなたを凄く好きみたいですね。それに信頼し合っているのがはっきりわかります」


「水城が? ──まぁ、ルクレツィアはいいとして、水城がぼくを好きだって? それに信頼し合っているって? それは君の考え違いだよ」


 ぼくは憂姫の言葉に驚いて、次いで苦笑いを浮かべた。


 水城とぼくの関係はそんな簡単なものじゃない。そう言いたかった。


「そうかしら? でも、あの人はあなたの事を信頼していましたよ。あなたならわたしを絶対に守ってくれると言っていたのですもの。それは本当の事でしょう?」

 

困った。それを否定する事は出来ない。そんな事をしたら、彼女がぼくに寄せている信頼さえも裏切ってしまう事になる。それは彼女を無駄に怯えさせるだけだ。


「うーん──そうだね。それは間違っていないよ」


ぼくは無理に笑顔を作ってそう答えた。


「それにあの絵伶奈と言うかわいい娘。あの娘もあなたの事を愛しているのですね? わたしがあなたと話しているだけで、わたしの事を睨みつけていたんですもの」


「睨みつけていた?」


ぼくは驚いた振りをした。この少女は鈍感では無いようだ。しっかりと周りの人間を観察している。しかし、ぼくはルクレツィアの事を誤解して欲しくは無かった。


「そんな事は無いと思うよ。ルクレツィアは人見知りが激しい娘なんだよ。ただそれだけさ。それに今日はかなり疲れる仕事をしていたから、多少、苛々していたみたいなんだ」


「ルクレツィア? あの娘は絵伶奈と言うんじゃなかったんですの?」


「ああ、絵伶奈・ルクレツィア・高原と言うのがフルネームさ。それに彼女は君より年上の十九歳だよ。あの娘じゃ、まるで君より年下みたいに聞こえるよ」


「え、そんな歳だったんですか? わたしは自分より年下だと思っていました」


 憂姫の驚いた顔にぼくは笑いかけた。


「それは仕方が無いよね。ぼくも彼女を始めてみた時、てっきり中学生くらいかと思っていたから。まぁ、あの格好にあの容姿じゃ、それも仕方がないさ」


「彼女はあなたの恋人なの?」


 奇妙なほど真剣な眼差しで、いきなり憂姫はそう訊いてきた。


「それは──」


ぼくは答えに窮してしまった。そんな問いに対しての答えを用意してはいない。彼女の真摯な眼差しに対して、大学の連中に言っているような関係を話す事は出来なかった。それに、本当の意味でぼくたちの関係を説明出来る訳はないのだ。


 その時、事務所の外の廊下からルクレツィアの声が響いてきた。


「──いいのよ。無理に答えて貰わなくとも」


憂姫はそう言って、不意に満面に微笑を浮かべた。なぜだろうか? それはぼくには酷く気に障る微笑に感じられた。




 

五人前の鮨が届けられた時、タイミング良く木戸のオヤジがやって来た。何故ルクレツィアが鮨を五人前も頼んだのか、その時になって初めて気づいた。別に彼女がそれだけ空腹だったと言う訳では無く、木戸がここにやって来るのを予知していたのだ。


 水城は相変わらずオレンジ・ジュースをちびちびとやっていて、ぼくはウーロン茶をがぶ飲みしている。


「それでどうなんだい、警察の動きは?」


水城はウニを口に放り込んだ。


「まだわかんないとさ。道警の奴らには、どうも亜門の動きは掴めていないようだ。それに、〈エルネージェ女伯爵〉だったか? その〈貴族〉も完全に雲隠れし

ているよ。俺には居所が掴めない」


木戸は鯛の刺身を摘まみながらそう答えた。


「そうか。それじゃ次の犠牲者が出るまでは、こちらとしても動きが取れないな」


「まぁ、すこし待っててくれよ。俺だってサボっている訳じゃないんだからな。なるべく早く、あの〈貴族〉と亜門の奴を見つけ出してやるさ」

と、木戸はタバコに火をつけた。


 それから一時間もしてささやかな宴は終わり、水城は自分の部屋に戻り、木戸も自宅へ帰って行った。と言っても、このビルの四階が彼の部屋なので、いざとなれば全員がここに集まるのにそう時間はかからない。


 ささやかな宴の後始末を終えて、今は憂姫もルクレツィアも、ソファの上に腰を落ち着けている。ぼくは二人が無言でお茶を飲んでいる光景を、バー・カウンターのスツールに腰掛けて見つめていた。


 緊張感が漂っていた。敢えて何も話さない二人の少女にぼくは辟易していたが、その中で下手に何かを話しかける愚行もする気はない。だからそのまま放って置いた。ルクレツィアは何か言いたそうにしていたが、口には何も出さなかった。

 

勿論、彼女がそれを口に出さなかったのは、心の中で思っただけでそれがぼくに通じている事を知っているからだ。

 

ぼくはルクレツィアが心の中で罵る言葉を少しだけ『聞いた』後、すぐに接触を絶った。それにしても、ぼくはルクレツィアがこれほど嫉妬深い質だった事に少なからず驚いていた。今までにぼくと接触していた女の子は他に何人もいたのだが、その時にはこうまで独占欲丸出しの感じは覚えなかった。

 

ルクレツィアは憂姫に必要以上の敵愾心を感じているようで、それは、まるでエカテリーナに対して感じている思いに近いものだと判断できる。いや、それ以上か?


ぼくには理解できない感情だ。いや、水城に対してこれに近い感情を持っているは事実だが、それとはまた違うと思う。ぼくが水城に感じているのはもっと別の……。


「あの、そろそろわたしも休みたいのですけど」


 憂姫が突然に、一人物思いに耽っていたぼくに話しかけてきた。


 憂姫もルクレツィアの態度に反応して、けっして彼女に話しかけたりしない。それもまた問題である。憂姫という娘も、どうしてこんな反応をするのだろうか?


「あ、ああ。ルクレツィア、寝室の用意は出来ているのかい?」


 ぼくはそっぽを向いているルクレツィアに訊いてみた。


 ルクレツィアは人形のように無表情で、指だけさして仮眠室の隣の扉を指差した。そこは客用の寝室で、十畳ほどの部屋にベッドが二つ、その他に適当な家具が置かれている、めったにぼくたちには使われていない部屋だった。


「あ、ああ、そうかい? ──それじゃ、この部屋で寝てくれないか?」


 ぼくは引き攣った笑顔のまま、憂姫に向かってそう言った。


 憂姫は静かに立ち上がり、大きなバッグを片手にその部屋に向かった。ぼくはその後について行く。本来はルクレツィアの仕事なのだが、あんな状態では二人だけにして置けない。仕方が無いので、


「ここで休んでよ。あと、扉は開けたままにして置いてくれないか?」


と、憂姫にお願いした。


「それじゃ着がえたいんで、扉を一度閉めさせて下さい」


「ああ、そうだね。大丈夫だと思うけど、何かあったら大声で呼んでね」


 ぼくはそう答えてそこから離れた。ゆっくりと扉は閉まった。


 さて、ルクレツィアをどうやって説得しようか? このままでは憂姫の世話係など、ルクレツィアに任せられない。あの娘に危害を加える事は無いだろうが、見張りをする為には一緒の部屋で寝起きしなければならないのだ。男のぼくに代わって。


「なぁルクレツィア、これからの事なんだけど──」


 ぼくがルクレツィアに向かって話しかけた時だった。


 ガラスが激しく割れる音と共に、憂姫の悲鳴が上がった。


 ぼくは反射的に腰の45オートを引き抜き、目の前のドアに突進した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ