三 章
目が覚めると部屋の中には、カーテン越しでも感じる陽光が差し込んでいた。
ぼくは扉を開き、隣室の居間に出た。キッチンの方から何かフライパンで炒めている音と、香ばしいベーコンの焼ける匂いが漂ってきた。
ルクレツィアが朝食を作っているのだろう。ぼくは急に空腹を覚えた。
キッチンに顔を出し、ベーコンをカリカリに焼いているルクレツィアにおはようと告げると、彼女は大輪のひまわりのような笑顔を見せた。
「やっと起きたのね? もう九時になるわよ」
ルクレツィアは、コットンの無地のシャツに細身のブルー・ジーンズと言うラフな格好をしていた。ぼくの家に常備している、大きなバッグの中にあったものだろう。蜂蜜色の長い髪は、ゆったりと頭の上で巻き上げられていた。
ぼくは居間に戻り、ソファの上に座るとテレビの画面を見た。ワイドショーが最近の事件をレポートしている。五人の少女を食い殺した十七歳の少年が捕まったらしい。
魔神王の侵略が止まった後も、こう言った凶悪で悪魔じみた犯罪は毎日のように起こっている。今の微妙なバランスで成り立っている平穏な世界──『デーモン・ランド』以外の地域では──が、結局は砂上の楼閣にも似た幻の平和である事を、人類に重い知らせるかのように……。
数人のコメンテイターが述べる感想が噴飯ものだった。いまさら何を言っているのだろう? 〈デーモン〉に憑依されるのは心が病んでいるからだって? 心に闇を持っているのは特別な生い立ちの所為だって?
冗談ではない。誰にだって〈デーモン・シンドローム〉と呼ばれる〈デーモン〉の憑依は起こりうるのだ。それに心の闇を持たぬ人間など存在しない。
ぼくは愚かしいその発言に対して冷たい笑いを禁じえなかった。
それにしても人間が起こした残忍な犯罪を、すべて〈デーモン〉の仕業と決めつける最近のマスコミには閉口してしまう。本当に〈デーモン〉がその少年に憑依しているのなら、簡単に警察なんかに逮捕される訳が無いだろう? と、思う。
〈デーモン・シンドローム〉とマスコミが名づけたそれは、二つのパターンがあるのに、マスコミ自体はそれを区別しない。一つは本当に、精神寄生するタイプの〈デーモン〉が憑依した状態である。魔神と呼ばれている上級の〈デーモン〉の依代としてではなく、下位の〈デーモン〉の無差別な肉体の乗っ取りだ。その場合、すでにその肉体は〈デーモン〉そのものに乗っ取られている為に、人間であった時の意識は無くなってしまっている。
もう一つのパターンは、本人の意識はそのままで、〈デーモン〉による何らかの影響を受け、精神だけ『悪魔化』してしまう事を言う。それは人間の本能的な攻撃性と、殺戮本能が表に顕われたに過ぎず、厳密に〈デーモン〉に変化した訳では無い。
〈デーモン・シンドローム〉を患ったほとんどの人間が後者のパターンに当てはまる。つまり、人間の意識がそう言った残虐な事件を引き起こすと言う事実。それをマスコミは意図的に封じているのだろうか?
〈デーモン・シンドローム〉に陥った者は、その存在を〈デーモン〉そのものと断定され、その場で射殺しても罪には問われない。人権など無くなってしまうのだ。喩え普通の犯罪者のように逮捕されたとしても、裁判無しで処刑されるだろう。
悪魔的なもの影響を受けたと言っても、そう言った事件を起こした人間の意識や記憶が無くなっている訳では無いので、犯行後の虚脱状態の彼らが逮捕されると、精神判定での異常さは見る事が出来ない。現代の悪魔憑きと呼ばれる〈デーモン・シンドローム〉は、そう言った人間を生かして置かない社会が、意図的に捻じ曲げた解釈をしているものだ。
ただ実際的には、彼らは心神喪失状態でそう言った凶行を行う訳では無いから、処罰を受けるのは仕方が無いだろう。しかし、加害者の家族自身が、彼ら『発病者』を死刑にして貰いたがるのは嫌な話ではある。
もっとも加害者の家族にして見たら、その恐ろしくも凶悪な犯罪の動機が、自らの欲望に忠実な行動に過ぎない事、自分自身の考えや意思によってそれが行われた事を、認めたく無いのは仕方が無いのかもしれない。悪魔や悪霊に取りつかれてそう言った凶行を行う事になってしまったのだと、他人にも自分達にも認めさせたいのだ。
欺瞞ではあるが、誰も傷つかずに犯罪者を処理する画期的なシステムだと言える。
ルクレツィアがカフェオレを持ってきて、「熱いからね」と手渡してくれた。ぼくは自分の思考の中から戻り、「サンキュ」と呟いた。その温かさに救われるような気がした。
それからルクレツィアがテーブルの上に朝食の皿を並べ始めたので、ぼくもそれを手伝った。と言っても、ただ食器と料理の載った皿を運んだだけだ。
トーストにベーコンエッグ、インスタントのポタージュにラタトゥイユと言った食事を、ぼくはテレビの画面に向かいながらむさぼった。
コマーシャルが挟まれ、ニュースが札幌市内で連続して起きている殺人事件のレポートに移った。俗に言う、連続吸血殺人と呼ばれるものだった。
この事件の最初の犯行は二ヶ月前に始まった。もっともその事件はずっと後になって、この一連の事件の一部だったと判断されたので、あまり大きくは報道されていない。〈闇の種族〉によるありふれた通り魔殺人と判断されていたのだ。
しかし、事件が短い間に連続的に起こってしまい、その犯行の手口やもろもろの条件から、同一犯による殺人事件とあらためて判断されたのだ。
先日の事務所で水城が話していた、デーモン・ケースに認定されたと言う事件だった。
ぼくは今まで、これも〈シンドローム型〉の事件であると思っていたので、まともに事件の内容も知ろうとしなかった。しかし、水城がこの事件を扱う事に決めれば、ぼくも多少の事は知っておかなければならないだろうと思い、思わずそのワイドショーのレポートに集中してしまった。
「これでしょう? 今度の依頼になるの?」
ルクレツィアがトーストにバターを塗りながら訊いてきた。
「そうなるんじゃないか。ほら、正式にデーモン・ケースに認定されたってさ」
ぼくは画面に指差してそう言った。レポーターが演技過剰に喋っている。
「いやだわ。また被害者の死に際を『視る』事になるのね。今度のは本当に悲惨そうだし」
ルクレツィアが心底嫌そうな顔をしてそう呟いた。
「悲惨そう? 吸血鬼に血を吸われているだけだろう?」
ぼくはスープを啜りながらそう言った。ヴァンパイアの犠牲者はそう苦しむ死に方をしない。反対に恍惚の表情を浮かべながら、この世のものとは思えぬ悦楽に浸るはずである。死んでいる遺体を見ると、肌は蒼ざめているのだが、ほとんどのそれは安らかな表情を浮かべている。吸血の行為で死にゆく者だけ……。
「最初の二人だけは、血を抜かれて失血死しているみたいだけど、その後は身体を切り刻む──と言うより、引き裂かれてむさぼり喰われているのよ。圭がそう言っていたわ。もしかしたら複数の犯行なのか、もしくは〈貴族〉クラスのヴァンパイアかもって言っていたわ。ほら、死体の後始末を従者にさせたのかも」
ルクレツィアが言わんとしている事は、はっきりとぼくにはわかっていた。つまり、そのヴァンパイアが『食餌』を終えた犠牲者の肉体を、従者である〈獣人〉に与えて始末させたと言うのだろう。
エルダーまたはダーク・ロードと呼ばれる、数百年を生きてきた〈貴族〉級のヴァンパイアには、必ずと言って良いほど〈獣人〉の従者が存在する。それがどうしてなのかは、研究者の一人がこう述べている。
『〈闇のくちづけ〉によって人間から従者として創りだされたヴァンパイアは、やがてその存在も歳を経る事によって独立した〈マスター〉に変化し、新たなる血統を創りあげる事になるので、〈貴族〉クラスのヴァンパイアにとっては永続的な主従関係を保つ事が出来なくなる。血縁上の上位者は、〝親と子〟の関係になるのであって、決して〝主従〟のそれでは無いのだ。
かくして〈貴族〉たちは、長い年月も生きていける〈仔〉とは別の従者を必要としているのである。短い期間のものならば、〈レンフィールド〉と呼ばれる『闇に魅入られた』人間でも良いのだが、特殊な感応能力を持つとは言っても、しょせん〈レンフィールド〉は人間と言う種であり、長い年月を主人と共に生きる事が出来ない。それで、不老不死とまではいかないが、人間の数倍の寿命を持つ〈獣人〉を従える〈貴族〉が多いのである』
だが、ルクレツィアの言った言葉に対し、ぼくには一つの疑問があった。
「でも、それなら死体なんて残っていないのが普通じゃないか? あいつらの食欲なら、人間の一人や二人、骨ごと噛み砕いて丸のみだぜ。わざわざ喰い散らかした死体を置いて行くのも、後始末とは言えないし──」
ルクレツィアもそれを怪訝に思っていたようだ。
わざわざ人目につくように、惨殺された死体を置いて行く事など、仮にも〈貴族〉と呼ばれるヴァンパイアが取る行動ではない。慎重に自分の存在を隠していたからこそ、彼らはエルダーと呼ばれる存在になるまで生き長らえているのだ。
近年はその存在について認識されてしまっているので、自身が〈闇の種族〉と特定されるような愚かな行為をする者はいないだろう。だから今回の事件の被害者は、異常な状態で発見されていると言える。
それとも、〈人喰い鬼〉か〈屍食鬼〉の仕業に見せかけようとしているのだろうか? しかし、現在の警察の科学捜査技術はそんな事などで惑わされたりはしないはずだ。死体から一切の血液が抜けているならば、それはヴァンパイアの仕業と断定されてしまうだろう。もっともそれが本当に正しいのかは、ぼくにもわからないが……。
「まぁ、いずれそれもはっきりすると思うわ。どうせこの事案が持ち込まれたら、わたしがそれを『視る』事になるんだから」
ルクレツィアはそう言って話を切り上げた。ぬるくなったカフェオレを、顔を顰めて飲み込んだ。
午前中の講義があると言って、朝食のすぐ後にルクレツィアは出て行った。こざっぱりした格好から、派手なフリルとレースの、白と黒の二色で固めたいつもの服装に着がえて。
ぼくは溜め息を堪えてその姿を見送った。
キッチンで皿洗いや後片付けを終えると、自分も昼からの講義に出る為に家を出た。まだ十時を過ぎたばかりの時間だった。
ジーンズにティーシャツ、その上に麻のジャケットを羽織った姿で、ぼくは歩いて大学に向かった。車を使わなかったのは、夕方から水城と一緒に夕食を取る約束をしていたからである。どうせ酒を飲まない水城が車を出すだろう。
涼しくなった心地よい風と、刺すように照りつける事の無くなった日差しが肌に感じられ、ぼくの気分を何と無く軽やかにしている。それは長らく続いた睡眠不足が、昨晩にやっと解消されたからなのかも知れない。
午前中に出歩くのは、久しぶりに楽しい気分だった。夜遅い時間に出歩く事の多い仕事なので、たまにしかこんな機会は無いからだろう。新鮮な気分になる。
それでも、また新たな仕事が舞い込んで来ると思うと、自然と溜め息が漏れた。




