一章
緑色に輝くデジタル時計は、すでに午前十二時から二十分ほど過ぎた事を表示していた。
ぼくは苛々しながらも、愛車である黒のレガシィ・ワゴンの運転席でじっと待っていたが、もう限界である。明日は午前中、早めの講義が予定されているのだ。
どうせ〈あの男〉はもう、今夜はここから出て来ないだろう。いや、来なくてもいいとぼくは思った。今夜は早く帰ってベッドの上に倒れこんでしまいたい。その為にはこのまま、あの扉から〈あの男〉が出て来ることなく、どこにも行かないで欲しい。せめてぼくがここを離れる十分ほどの間だけ……。
胸ポケットの携帯電話が着信のメロディを奏でた。バッハの〈G線上のアリア〉だった。ぼくは期待と不安の混じりあった思いで電話を取った。
「おれだ。〈ターゲット〉は店を出るぞ」
店の中に潜んでいる水城の声だった。もちろん、この着メロが鳴るという事は水城からのコールであるのはわかっているのだが、それでも彼の口からは違う言葉を聞きたかった。『今日は引き上げよう』と言う、昨夜まで三日連続で聞いていた言葉を……。
「──わかったよ。これから追跡する」
ぼくはそう答えて電話を切った。そして車のエンジンをかけて、道路の向こう側に建っている、古びたビルの正面の扉を見つめた。ぼくたちの目標である、〈あの男〉がそこから出てくるのを待つ為に……。
数分の後に、〈あの男〉が一人の女を連れて、汚れて曇ったガラスの扉を抜けてきた。
男は金色に染めた短い髪の、いくつものリングを耳に通した若い男で、肩幅の広い大柄な男だった。連れの女は明るい茶色の、シャギーを入れた肩までの髪で、派手なメイクをしたまだ十代だろうと思われる若い娘であった。二人とも酒かドラッグに酔っているようだ。少なくとも目に見える様子ではだが……。
ぼくには男が本当の意味では酔っていない事がわかっている。彼はけっして酔う事など出来ないのだ──少なくとも人間の酒やドラッグでは。
男はすでに人間では無い存在なのだ。その心を覗く事により、ぼくは男が〈闇の種族〉である事を、今はっきりと確認した。これがぼくのひとつめの任務だった。
男は女を支えながら、路上に駐車してある一台のセダンに近づいた。真っ黒いシールドをウィンドウのすべてに張っている、メタリック・ブラックのマジェスタだった。
国産ではあるが、大型の高級車の中に連れの女を押し込むと、男は素早く運転席のシートに乗り込んだ。そしてそこからゆっくりとマジェスタを発進させると、大きな通りを右に曲がって行った。ぼくもその後を追う為に、レガシィのアクセルを踏んだ。
間に数台の車を挟み、百メートルほどの距離を置いて追いかけた。男が追跡に気づく事は無いだろう。そしてぼくが男の車を見失う恐れは無い。ぼくは男の意識を認識しているから、たとえ数キロ離れていても、男を見失う事は無い。それがぼくの能力なのだ。
ぼくは〈擬装者〉と呼ばれる存在を感知する事が出来る。そしてその〈擬装者〉の存在を認識し、精神的な、一種の『絆』を結ぶ事によって、彼らの意識を探る事が可能なのだ。こんな能力が欲しいと思った事は無かったのに……。
〈擬装者〉とはその名の通り、人間の姿に偽装している〈デーモン〉の総称である。
男の車はやがて、豊平川の河川敷に降りて行く道に入っていった。すぐに後を追う事はしないで、十分ほど遅れてその道に侵入し、暗い河川敷の駐車場に辿り着いた。そこには黒のマジェスタは停まっていなかった。アベックを乗せた一台のシルビアが停まっているだけだ。ぼくはアベックの邪魔をしないように、駐車場の端に車を停め、エンジンを切った車中で男の意識を感じる事に集中する。
すぐに男の存在を感知できた。ここからは遠いし暗いので、肉眼では確認できなかったが、彼は橋の下の影に車を停めているらしい。あの女も一緒のようだ。
ぼくはレガシィの中で、腰のエイカー社製ホルスターに納まっている、1911・ガバメント・モデルをカスタマイズした、45口径オートマチックを引っこ抜いた。
ウィルソン社のカスタムであるその1911は、フレーム部をステンレスの地肌のままで、スライド部のみを真っ黒いテフロン・コーティングで表面処理されていた。もちろん、光の反射を抑える為である。
ノバックタイプの堅牢で引っ掛かりの少ない照準システムは非常に見やすく、暗闇でも自然発光する微弱な放射性物質であるトリチウムを使用した、ナイト・サイト・システムだ。暗い場所で使用する機会が多いこの銃には、無くてはならないものだと思う。
ぼくはパックマイヤー社のラバーグリップを右手で握り、左手でスライド先端に刻んであるセレーションを掴んで、ゆっくりと少しだけ引いた。微かな金属音をたてて、ロックされている銃身が結合を解き、排莢不良を防ぐために大きく抉られた排莢口から、銀色に輝く薬莢が覗いていた。
ぼくが携帯している拳銃は、いつでも即座に発射出来るように、薬室の中に実包を装着している。それが危険とは思っていない。そんな事よりも、いざと言うときに弾の出ない銃を握っている事の方が恐ろしい事態を招くのだ。それにそんな事で暴発するような安物は、ぼくの所持している拳銃には一丁も無いのだ。
それでもぼくは、最後にそれを確認する作業を忘れない。生き残る為には、常に確認を怠らず、慎重に行動しなければならないからだ。
この1911カスタムには、薬莢の容量ぎりぎりに火薬を装着した強装弾が、ステンレス製の弾倉に八発、そして薬室に一発の合計九発が装填されている。その強化された45ACP実包の弾頭は、銀をアルミニウム・ジャケットで包んだ特製のものである。しかも先に大きな孔が開いた、ダムダム弾の一種であるホロー・ポイントと呼ばれる形状をしていた。傷口を大きくし、体の中をめちゃくちゃに引き裂いていく恐ろしい弾頭だ。〈擬装者〉を即死させる為に造り上げた特殊な弾丸だった。
アルミニウムを銀にジャケットしている理由は、低温で溶解する純銀のままでは、とけた銀が銃身に付着する恐れがあるので、プレッシャーの高い強装弾を作れないからだろう。
この銀を核に持つ弾丸を撃ち込まれた〈擬装者〉、〈闇の種族〉と呼ばれるヴァンパイアどもは、その強力な治癒力を発揮する事が出来ず、致命的な一撃を受けて絶命に至る。もちろん、脳や心臓、脊髄と言った身体の重要な部位を撃ち砕けば、不死の肉体を持つ〈闇の種族〉といえども死に至るのだ。
それならば高価な銀の弾丸など必要ないと言えるのだが、ぼくは水城の指示通りに、この銀製弾丸を使用している。水城曰く、『命より高いものでは無い』のだから……。
要するに銀の弾丸はプラスαの保険のようなものだ。喩え急所を外し、その場で倒れる事がなくとも、〈闇の種族〉にとっては即効性の猛毒である銀が、奴らの身体を急激に蝕んでいき、癒える事ないその傷の為に真実の死に至るのだから……。
ぼくはその凶暴な愛銃に、親指で安全装置を掛けると、もう一度ホルスターにそれを戻した。そしてゆっくりとした動作で車から降り、アイボリー色の麻混のジャケットを羽織ると、遠くに見える橋の下に向かって歩き出した。次の仕事を果たす為に……。
〈あの男〉が居るであろうその橋の下は、影が濃くなっていて真っ暗だった。数十メートル上の方は街灯と車のヘッドライトによって眩しいくらいに明るいのだが、その光によって創られたその影は、いっそう陰影を濃くしていたのだった。
ぼくはゆったりとした歩調でその影に近づいた。橋の上を疾走する車の走行音が、やけに耳障りだった。心臓は早鐘を打ち、興奮と不安によって口の中が乾いているのが妙に意識されていた。何度もこんなシチュエーションを迎えて来たが、まったく恐怖が無くなる事は無いだろう。なにせ血に餓えた猛獣をたった独りで、その体臭を嗅げるほどの至近距離で仕留めなければならないのだ。しかも、その相手は人間の知恵と羆の膂力を備えているのだから、取っ組み合いになったら、ぼくのような人間──身長百七十センチ、体重六十キロと言う決して恵まれている肉体ではない──など、簡単に引き裂かれてしまう。
嫌だなぁ──ぼくはこの仕事に失敗し、獲物たる〈闇の種族〉のヴァンパイアに反対に引き裂かれる自分の姿を想像し、心底この仕事を止めようかと思った。こんな事はもう止めて、さっさと自分の家に戻り、明日の朝早い講義の為に熟睡したいと言う欲求に満たされる。
しかし……。
そんな事を考えているうちに、もうぼくは橋の影がつくる闇の中に入ってしまっていた。マジェスタは影に同化していて、すぐそこに停めてあると言うのに、それを認識するまでに少し時間が掛かった。
慌てて精神の『絆』を確認した。車の中にはその存在が感じられなかった。すると思ったより近くにその存在が確認された。男はぼくに気づいてはいるが、特に気にしている様子は無かった。先程の娘と激しく抱き合っているようだ。ぼくは無視されたのだ。
ぼくは視線を辺りにさまよわせるふりをして、なるべく視界の端で彼らの行為を盗み見た。草叢の中に二人は寝転がるようにして、半裸の状態で絡み合っている。ぼくが立っているアスファルトの遊歩道から十メートルも離れていない。
ぼくはその場から動く事なく、ちらちらと横目でその行為を盗み見ていた。偶然通りかかった振りをして、思わぬものを見てしまった為に唖然として立ち竦んでいる、そんな風を装っているのだ。
男はぼくが動かないのに気づいて、苛々した感情の波動を放射してきた。ぼくの存在を不安に思うのではなく、ただ邪魔に感じているだけなのだ。それがおおきな間違いである事を、ぼくは大声で言ってやりたくなった。
男は裸の上半身を起こしながら、暗闇の中ではっきりとぼくを見つめて、唸るような声を発した。
「なんだ、てめぇ? 見せもんじゃねぇぞ! さっさとどっかにいっちまえ!」
ちんぴらのような脅し文句に、ぼくは思わず微笑みたくなった。どうしてこう言う輩は、〈闇の種族〉に転化してさえもこのような存在でいられるのだろうか?
それは、ヴァンパイアが人間から派生するものだと言う証拠なのだろうか?
「うるさい。そんなのおまえの知った事じゃない。こんな所でいちゃいちゃしているおまえが悪いんだろう? そっちが消えろよ」
ぼくは嘲笑うような感じで、にやにやとしながらそう言った。男を挑発して娘から引き離す為だった。そしてそれは、ぼくの本心からの言葉だった。
「なんだとてめぇ!」
頭の悪そうな男は、素早く娘から身を解き、草叢の上に立ち上がった。歯を剥き出しにして威嚇の表情を浮かべているので、鋭く尖った、人間のそれとは比較にならぬ長さを持った犬歯が、薄闇の中で鈍く光っていた。
茶髪の娘も身を起こし、何も着けていない白い胸を隠そうともせず、とろんとした目をこちらに向け、
「早くそんな奴、ぶちのめして追い払ってよう」
と、囃したてた。
こんな娘を救う為に、ぼくはこんな所にいるのだと思うと、正直言って腹立たしかった。男が食餌を済ませるまで待っていれば良かったと、心底悔やんでしまった。それでも見殺しにする事は出来ないのだから、まぁ、仕方ないだろう。
ぼくは少しずつ移動して、男が少しでも明るい所に出てくるように誘った。もっと自分に近づいてくるのを待った。少しでも命中率を高くする為だった。
ぼくは一撃でこの男を、まだ『若い』生まれたばかりの〈闇の種族〉を倒したかった。頭を一発で吹き飛ばすつもりだったから、確実に命中させる為に明るい場所に出て欲しかったのだ。もし外したのなら、次の瞬間にぼくはずたずたにされるだろう。
男は興奮しているのか、異常に発達した乱杭歯を剥きだしにしてぼくを追って来た。決して速い動きではない。しかしぼくが、自分を滅ぼす事の出来る武器を持っている事を、そしてそれを完璧に使いこなしている事に気づけば、彼は真の姿を曝け出し、人間の数倍の速さで襲い掛かってくるだろう事は間違いない。
橋の灯かりで映されたその顔は、はっきりと男がヴァンパイアである事を示していた。
金色に光る瞳、鋭く尖った二本の長い犬歯、突き出された両手の長い爪。それらは彼が〈闇の種族〉である証明だった。
ぼくは少しだけ恐怖を感じたが、それを無理やりに押し殺した。自己暗示の強いものを自分自身にかけたのだ。これで恐怖に身を竦める事はなくなる。
これもぼくを、〈擬装者〉専門のハンターとしている能力だった。
ヴァンパイアの視線には人の心を支配し、操る事の出来る魔力があると言われている。それはある種の催眠能力とされていて、ヴァンパイアと呼ばれる〈闇の種族〉が恐れられている理由の一つであった。つまり、普通のハンターならば引き金を引く事も出来なくなってしまうと言う事である。
そしてそれは、確実な死を約束するのだ。
ぼくは男が投げつけてきた恐怖を振り払うと、平然と男を睨み返した。男の瞳に逡巡の色を見たのはぼくの勘違いだろうか? いや、男は確実に狼狽している。その証拠に、その場に足を止めたではないか。躊躇うように、男は動きを止めたのだ。
ぼくはその隙を見逃さなかった。ジャケットの裾を払うようにして、ぼくは腰のホルスターから45口径オートマチックを引き抜き、男の鼻梁にその銃口を向けた。トリチウムの光る点が、はっきりとその照準を際立たせていた。
安全装置は銃口を向けた時点で解除されている。後は引き金を絞り落とすだけで、マグナム弾並みのエネルギーを秘めた、強力な特殊銀弾が、男の頭を吹き飛ばすだろう。
ぼくは自分の頬が歪んでいくのを感じた。笑っているのだ、ぼくは。
押さえようの無い歓喜がぼくの心に湧き上がっていた。
男が恐怖を覚えている事をぼくは感じ取っていた。〈闇の種族〉の末席に連なってから、恐らく初めての事であろう。
心地よい優越感を感じながら、ぼくは引き金を引いた。
〈闇の種族〉として生き返ったはずの男は、血と脳漿を撒き散らし、またもや死に神に捕まってしまった。もう決して蘇る事の無い、完全な〈死〉へと旅立って行ったのだ。
ぼくは45オートを右手に、だらりと下げたまま、茶髪の娘を見た。
娘は呆然として、ぼくの顔を見つめている。知性の欠片も感じさせないその表情に、ぼくは何故だか激しい怒りを感じた──まだ殺戮への興奮が冷めやらない。
ぼくはゆっくりと45オートを持ち上げ、娘の胸に銃口を向けた。唇の端が、歪んだ笑い作っているのに気づいていた。引き金を徐々に力が加わっていく。
「おい、もう終わったんだぞ。さっさと銃をしまえ」
背後から響いたその声に、ぼくははっとして振り向いた。水城がダーク・スーツのズボンのポケットに両手を突っ込み、数メートル離れた背後に立っていた。
ぼくは内心動揺していたが、「わかってるよ。女がヴァンパイアに転化したかも知れないから、用心の為に狙いをつけただけさ。撃つ気は無かったんだ」と、平然とした表情を浮かべようと努力した。
もちろんそれは嘘をである。
水城は片方の眉を器用に上げながら、わざとらしく肩を竦めた。
「まぁ、おまえがそう言うならそれでいいさ。取りあえず、警察もおっつけ来るだろうから、状況説明をきっちりやってくれよ」
「マジかよ? ちぇっ、また睡眠不足になっちまう」
水城はぼくの殺人衝動に気づいたようだったが、それを見逃してくれたようだ。ぼくは睡眠不足の不満を水城に言って、その所為で過剰な防衛反応をしたのだと思わせる。
もっともそれを信じる水城ではない。水城の心が読めない事が、こう言う時ほど悔しく思える。普段はけっして、そんな事を思いもしないが……。
「さて、写真を撮るとするか」
そう言って水城はデジタルカメラを取り出し、頭の半分を吹き飛ばされた、ヴァンパイアの死体に近づいて行った。今は怯えて、擦れた声で啜り泣きながら震えている、茶髪の娘には一瞥もくれない。
相変わらず冷たい奴だ。自分の事を棚に上げてぼくはそう思った。さっきはその娘を射殺しようとさえ思ったと言うのに……。
ただ、ぼくがあの娘──今は憐れにも思う──を射殺したい感情を覚えたのは、あの娘がぼくに対して一瞬、強い憎しみの念を放射したからなのだ。落ち着いて考えてみれば、目の前でぼくに恋人──そう呼ぶには短い付き合いであろうが──を射殺されたのだから仕方ないのだろうとも思う。
しかし、自己暗示をかけている戦闘中のぼくには、そんな事を考える余裕など無い。ぼくに対して敵意や悪意を放射した者はすべて抹殺するべき敵なのだから……。
その状態のぼくを、〈バーサーカー〉と水城は呼んでいた。殺戮の快感に身を浸している、無差別に敵を求める狂戦士のようだと。
いいじゃないかそれでも。そうしていれば、取りあえず生き残れるのだから……。
ぼくは自分の能力の中で、これだけは持っていて良かったと思っているのだ。
フラッシュを何度も光らせて、一心に記録写真を取っている水城に近づき、倒れている男の死体をゆっくりと見た。徐々にその身体は溶けて、白い骨を剥き出しにしていった。酷い腐臭が辺りに立ち込めている。
これが〈闇の種族〉の末路なのだ。
彼らヴァンパイアは、真の死を迎えると肉体を維持する事が出来ず、急激に腐敗し、白骨だけになってしまう。数百年を生きてきた〈貴族〉クラスならば、灰しか残らない場合も多いと言われる。
ぼくは自分が滅ぼした、ヴァンパイアの成れの果てから目を逸らした。別に気分が悪くなったとか、良心の呵責に耐えかねてと言った事ではなく、単純に飽きたからだった。その事で放っておかれた茶髪の娘が視界に入った。
彼女は凍りついたように固まっている。呼吸さえも忘れているのではないだろうか?白い肌を露出したまま、そのまま座り込んでぼくを見ている。
晩夏と言うよりも秋に近いこの時期の、冷たくなった風を受け、その肌には鳥肌が立っているのだが、彼女にはそんな寒ささえも感じられていない。
心の中が空っぽになっているのだ。
ぼくは暫くの間迷っていたが、軽く溜め息をついて、娘に向かってゆっくりと歩いていった。本当は面倒臭かったのだが、このまま放置しておけば、彼女は確実に狂ってしまうだろう。せっかくヴァンパイアの魔の手から逃れたのに……。
ぼくが目の前に立っても、彼女は空虚な眼差しでぼくを見る事しかしない。いや、正確には、ぼくの姿さえも見えていないのだ。彼女の精神は完全に闇の中に蹲っていた。
ぼくは彼女の頬を両手で挟み、その焦点の定まらぬ瞳を覗いた。そしてぼくは彼女の心に出来るだけ優しく触れた。彼女は一瞬だけ恐怖の色を瞳に浮かべ、そして気を失った。
ぼくは崩れ落ちる彼女を受け止め、ゆっくりとその草叢に横たえて、肩から落ちているその着衣をおざなりにでも直してやった。
これで彼女は、彼岸の向こうから戻って来られるだろう。
「ふん。今日は優しいな?」水城がぼくの後ろでそう言った。
「別に──ただのアフターサービスさ」
と、言い捨ててぼくは立ち上がり、
「もういいだろう? これから取り調べ何て受けたくないよ。ぼくは帰るぞ」
と、水城に向かって厭味ったらしく文句をつけた。
水城は肩を竦め、背を向けながら右手を上げて軽く振った。そして先程の屍骸の元へ戻っていく。警察の到着を待つのだろう。そして契約を果たした証拠の写真を手渡すのだ。
ぼくは彼に背を向けて、駐車場に向かって歩き出した。草叢に横たえた娘にも、二度と視線を戻す事なく……。
後始末は警察の仕事だ。ぼくがいなくとも、警察には水城が色々と説明するだろう。
ぼくは早く帰って眠りたかった。
迎えてくれる者のいない我が家に入り、暗い居間の明かりを灯す。大きなバッグを床に放り出し、ソファの上に寝転がると睡魔が襲ってきた。
腰の拳銃と装備品が身体にごつごつと当たっているのだが、それもあまり気にならないほど疲れていた。それでもこのまま寝込んでしまえば、目覚めた時には体のあちこちが酷く痛むだろうから、ぼく残った意思を振り絞って身を起こした。
隣の寝室に向かい、手早く身に着けたものを外して下着だけの姿になると、45オートを片手にベッドに向かった。倒れ込むようにしてベッドに横になり、枕の横に拳銃を置いた。
疲れていた。身体ではなく、精神的にまいっていた。能力の使い過ぎなのだろう。
他人の心を覗き、そして自分の意思に従えさせる事の出来るぼくの能力は、いわゆる〈テレパシー〉と呼ばれる超能力である。
それを使えばそれなりに、ストレスはどんどん溜まっていくのだ。もっともぼくの能力はそれだけでは無かったのだが……。
六年前、〈デーモン〉と呼ばれる存在が世界に現われた時に、いきなりぼくの中でこの能力が発露した。同じ頃、そんな人間が世界中で出現したらしい。〈デーモン〉が異世界から現われた影響で、そう言う〈能力者〉が生まれたのだ。
最初の頃はこの能力を制御できず、ぼくは発狂しそうになった。四六時中他人の思考がぼくの脳に侵入してきて、ぼくの自我は壊れかけたのだ。
より強い感情がぼくの感情を飲み込み、暗い情熱がぼくの心を追いつめた。他人の思考と感情が、ぼくの思考と感情を奪っていった。ぼくは自分の感情を失っていった。
ぼくの高校生活は惨めな病院暮らしで終わった。大検に受かったのは僥倖と言えるだろう。それでもその三年で、ぼくは自分の能力を制御する方法を覚えた。そして何とか大学に入学し、普通の学生生活を送れるようになれた。
同じ様な症状で入院していた人間の中で、十人に一人の生還率だったらしい。多くの能力者が発狂し、自殺したらしい。ぼくにはそんな人たちの記憶は無かったが……。
とにかくこの能力がある為にぼくはハンターになった。いや、なれたのだろうか?
家族をそろって失った二年前のあの日、水城がぼくの前に現われたのだ。ぼくを自分の事務所にスカウトする為に……。
結局ぼくは水城と一緒に働く事になった。家族をすべて〈デーモン〉に奪われたからと言う訳じゃなかった。それよりも、忌まわしい能力の使い道が出来た事が嬉しかったのだ。ぼくの能力を必要だと言われたからだった。
だが、ぼくは水城の性格が好きになれない。ぼくの能力をもってしても彼の心が読めないからだけじゃない。いや──
そうなのかも知れない。他人の心が簡単に覗けるようになって、自分に悪意を持つ者を徹底的に避けて生きてきたのだ。自分を傷つける者、自分を嫌う者はすべて自分の近くから排除しようとしてきたのだ。ぼくはいつの間にかそんな生き方を続けてきた。
でも、ぼくが水城を本当に信頼出来ないのは、時折見せるあの冷たい眼差しの所為であるのも間違いない。まるで道具のようにぼくたちを使う事も……。
疲れているのにこんな事を考えると眠気が醒めてしまう。
さぁ、もう寝よう。明日は早くに目覚めなければならないのだから……。
そう思いながらも、精神的に疲れ切っている所為なのか簡単に眠れそうになかった。そんな時はつい、さまざまな疑問が浮かび上がってきてしまう。
〈デーモン〉は何処からやってきたのだろう? それに〈デーモン〉とは一体何なのだろう? そんな答えの出ない事を考えてしまった。
〈デーモン〉と呼ばれる生命体は六年前のある日、突如としてその存在を明らかにした。十三柱の〈魔神王〉と呼ばれる強大な存在が、その日全人類に自らの力と存在を見せつけ、そして正式に宣戦布告したのだ。彼らは時空の彼方からやって来た。多くの伝説と神話の世界から、自らの眷属と従者と共に世界中に降り立ったのだ。
彼ら〈デーモン・ロード〉は肉体を持たない生命体だ。いや、彼らの眷属たる上位の〈デーモン〉はすべて精神体もしくはエネルギー体である。それ故に人間の肉体に憑依するか、この次元に属する〈肉体〉を創り出す事によって存在できると言われている。それが真実なのかはわからない。ただ、『エイリークの書』にそう説明されているだけだ。
『エイリークの書』は〈デーモン〉について記された記録の事を指し、膨大なデータが保管されているデータベースの事を言う。パスワードを知る人間なら、それをインターネットで誰でも閲覧できるシステムだ。
何故それを『エイリークの書』と呼ぶのか? それは初めて人類の手で倒された〈魔神王〉、〈デーモン・ロード〉と呼ばれている存在の一柱、〈剣の魔神王エイリーク〉がいまわの際で漏らした情報だからだと言われる。
はっきり言って眉唾な話であるとぼくは思っている.
〈エイリーク〉が滅んだのは四年前、〈エイリーク討伐隊〉がそれを成した。千人を超える人類の英雄達が、己が命を掛けて魔神王の居城に攻め込み、そしてあまたの〈デーモン〉を滅ぼし、〈デーモン・ランド〉に変えられてしまったその領地を奪回したのだ。それはかつて旭川市と呼ばれていた、北海道のほぼ中心に位置していた所だった。
それは人類にとって最初で、そして最後の勝利だった。
今となっては、それが本当に人間が勝利した証とは思えないのだが……。
それ以前、各国の〈デーモン・ランド〉に、それを統べる〈デーモン・ロード〉に対して、各国の軍隊が立ち向かっていったのだが、その攻撃はすべて一蹴された。
その戦力の多数を占めていた最新鋭の兵器は、彼らには何も通じなかった。その運用をほとんど機械とコンピューターに頼っていたので、〈デーモン〉の魔力によってそれが狂ってしまっては、ただの鉄くずに過ぎない事を、人類は忘れていたのだ。
〈エイリーク討伐隊〉は、その戦力のほとんどを単純で原始的な銃火器に頼っていたのだが、それ故に〈デーモン〉の魔力の干渉を受けずに機能したのだ。彼らもこの次元に存在する限り、銃弾や刃物と言った物理的な攻撃を受けて、滅びを迎える肉体と言うものをを捨てる事が出来なかったからだ。
それ以後、彼らの領土である〈デーモン・ランド〉に侵入しない限り、彼らが人類に戦いを挑む事も無くなった。人類もその領地に再び侵入する事も無くなった。それは『触らぬ神に祟りなし』と言う言葉を実践しているだけの話であると思う。
そしてぼくたち人類と、侵略者である〈デーモン〉との、条約なき不可侵状態が続いている。魔神王達は生き残りの人間に対して、特に興味を持っていないようだった。それに〈デーモン・ランド〉以外の土地にも、まったく執着は無いのだった。
しかし、〈デーモン・ロード〉自身が新たなる侵略を停滞させているとは言え、時空間を繋ぐ〈ゲート〉は何処にでもその存在を顕わし、〈デーモン〉と呼ばれる『絶対敵』は次々と現われるのだ。
もうこの地球上で、本当に安全な場所など無くなってしまったのだ。
そしてぼくたちのような、〈デーモン〉を駆逐する為の職業が生まれた。〈デーモン〉と戦い、それを狩る者たち。通称〈デーモン・ハンター〉と呼ばれる存在である。
〈デーモン・ロード〉の降臨以来、国家として機能しない現在の政府は、警察や自衛隊だけでは〈デーモン〉に対応し切れない事を認識し、民間のハンター制度を取り入れた。そして一般に銃器の所持を許可し、それを護身用とする事を認めた。それは、自分の身は自分で守れと、誰も守ってはくれないと言う事なのだ。
そしてデーモン・ハンター資格を受ける者は一気に増加した。
混乱した現在の経済状況の中で、誰もがその高額な報酬に惹かれるが、常に危険を伴う職業でもある。とは言え危険の少ない仕事を選べば、もちろん報酬は小さなものになる。
例えば、オークやゴブリンと言ったレッサー・デーモン──小鬼とか呼ばれる亜人類の一種──を山間で待ち伏せたりして射殺する、いわゆる『駆除』業務はその際たるものである。下顎を切り取ってそれを提出すると、一匹あたり1万円から3万円の手当てが支給されるのだ。危険は少ないが、労力も大きい。
しかし、ぼくたちのような〈擬装者〉を追う者は、報酬も大きい事が多いが、危険も非常に大きい。オークを追いかけるのとは訳が違う。
〈擬装者〉と呼ばれる〈デーモン〉の多くは、人間と同等、もしくはそれ以上の知性を有している場合が多い。人間の姿を装い、さらにその社会の中に解けこんでいるのだから、当たり前の事である。そしてその正体の多数を、〈闇の種族〉と呼ばれる者たちが占めている。〈擬装者〉イコール〈闇の種族〉と言っても良いだろう。
もちろん、〈闇の種族〉以外の〈擬装者〉も存在する。魔神クラスの上級デーモンがそうだ。もっともそのクラスの〈デーモン〉ならば、人間を依代として召還しなければならないので、そう見かける存在では無いが……。
だから多くの〈擬装者〉は、概ね〈闇の種族〉と言えるだろう。
ダーク・レイス──〈闇の種族〉は人間の肉体や精神を糧とする存在の総称である。ヴァンパイアとか悪鬼羅刹と一般には呼ばれている不死の人類。いや、もともとは人間として生きていただろう存在。
彼ら〈闇の種族〉は、〈デーモン〉と言う存在に含まれてはいるが、実際には〈デーモン〉が出現する遥か昔から、この地上に存在していたと言われる。世界中に残っている鬼や吸血鬼の伝説がそれを裏付けている。その元をたどっていけば、人類が誕生したばかりの時代にまで遡れるらしい。
つまり、〈闇の種族〉の祖先は人類と共に生まれたとされるのだ。そして今まで人間の中でそれは存在し、その姿をはっきりと顕わす事無く、自らを偽装しながら生き延びてきたのだ。
それが、〈デーモン〉が異界の門をくぐり抜けてきた後、彼らは暗黒の時代以来、密かに隠してきたその存在を顕わにしたのだ。ある意味どさくさに紛れてだろう。そして今では誰もが、忌まわしきその存在を疑う事は無い。恐ろしいその〈闇の種族〉が、自分の隣人である事に気づく者は少ないが……。
ぼく達の相手はそう言った〈擬装者〉がほとんどである。それはぼくらが持っている能力の御陰だと言える。能力を持たぬハンターには、彼らを見分ける事も追跡する事も出来ないのだから、依頼のほとんどがぼくらの事務所にやって来る。
レッサー・デーモンなどより危険な獲物ではあるが、それでも人的被害の大きいこの獲物を狩る事は、ある意味ぼくのヒロイズムを刺激している。もちろん、報酬の大きさも魅力ではあるのだ。被害者の家族からの依頼が多いデーモン・ケースは、その被害が大きければ大きいほど、高額な成功報酬となる。
それに、人間の形をした〈デーモン〉を殺すのは、何故だかぼくにとって非常にスリリングな快感をもたらすのだ。それはある意味、危険な快感なのかもしれない。
ぼくはこの仕事が楽しいと思っている。殺戮する喜びさえも感じている。闇の中で生きている存在を抹殺するのに、何の躊躇いも、禁忌も持てなかった。憐れに命乞いをする、まだ『生まれたばかり』のヴァンパイアの若者の頭蓋骨を、ぼくは笑いながら吹き飛ばす事も出来た。
──彼がまだ幼い少女を何人も、欲望のままに犯しては殺していたからだった。
ぼくは〈闇の種族〉ほど残虐で非道な〈デーモン〉はいないと思っている。魔獣やレッサー・デーモンは、人間を食餌と思っているので、いたぶりながら殺す事は無い。ただ捉えて、それを貪るだけだ。それに魔神などと言うある意味神に近い存在は、どうせぼくらにはどうする事もできないし、そう言った存在を呼び出すのは結局人間なのだ。悪いのはそんな人間だと思う。
しかし、元来人間だった〈闇の種族〉の犯した事件のほとんどは、無残で忌まわしいものである。被害者の多くはただ殺されているだけだった。それは彼らが、人間の血や肉体だけを糧にしている訳ではない証拠だった。被害者の苦痛や恐怖の感情を喰らっているのである。それを彼らは『魂の食餌』と呼んでいた。
彼らは悪魔のような存在になってしまったから、そのようなおぞましい心を持つようになったのだろうか? それとも人間であるからこそ、その心に恐るべき闇を持っているのだろうか?
ぼくはそれを考える事が嫌だ。何故ならぼくはその答えを──知っている。
ぼくは人間の心がどのように歪み、捩じれてしまっているのかがわかっている。誰もが心の奥に、悪魔の闇を閉じ込めているのだ。
そしてぼくは認めている。ぼくの心の中にもその闇が存在している事を。




