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プロローグ 「崩壊と流出」

その日、社内は騒然としていた。


 若手のエース・コンサルタントと称され、29歳にして最年少役員となった専務・橘が、部下を引き連れて独立する――その旨を、ごく一部のメンバーに伝えたのだ。だが、その情報はすぐさま社内を駆け巡り、社員たちの間に大きな動揺を呼んだ。


 橘が率いる不動産事業部は、すでに会社全体の4割近い売上を担っていた。そこから主要メンバーが一斉に去るとなれば、会社が傾くのは火を見るより明らかだった。国内有数の経営コンサルティング会社の社員たちだ。頭の回転は速い。どの部署の人間も、これは誰がどんなに頑張っても支えきれるものではない――そう確信し、動きの早い者たちは水面下で橘の新会社への合流を模索し始めた。なんとかして橘の会社に移れないものかと。


 もちろん全員がそうではない。橘に追随せず、あくまで独自の道を探る者もいた。諦めたように転職を考える者、会社に残って再建の道を模索しようとする者、そして、橘のやり方そのものに憤りを覚える者も。


 特に、橘の直属ではなく距離のある他事業部の社員たちはその感情をより強く抱いていた。


 この経営コンサルティング会社の事業部は5つの事業部で構成されていた。経営全般に関わるコンサルティング事業部、製造業のコンサルティングを行う事業部、自動車業界を中心にコンサルティングを行う事業部、外食業界のコンサルティング事業部、そして不動産業界に関わるコンサルティング事業部の5つであり、それぞれの業種に特化したコンサルタントで構成されていた。

 

 橘が率いる不動産コンサルティング事業部は、今でこそ会社の売上の4割を担う部署になっているが最初からそうであったわけではなかった。橘が入社した頃の7年前は多額の赤字部署で他の事業部に支えられているような状態だった。会社が作成した予算計画に対して、毎期、未達、未達、未達の連続であった。その未達分を上乗せされカバーしてきたのが他の事業部のコンサルタントたちだった。


 その状況の中、新星のごとく現れたのが橘であった。東大卒の期待された新卒入社。A4用紙10ページ分の書類程度なら、5分ほど目を通せば全て暗記できるほどの能力があった。彼が企画したプロジェクトは次々と当たり、不動産事業部の赤字を解消するどころかあっという間に社内で最も稼ぐ部署に変わっていった。まさしくエリートだった。その功績で最年少役員となった時、社内の誰にも異論はなかった。むしろ「この会社は年齢・年次ではなく実力をきちんと評価される」といった認識が社内に広まり歓迎されていたムードさえあった。


 しかし不動産事業部が長年赤字だった時期を支える為に無理をした他の事業部が徐々に低迷し、赤字に転落したタイミングで事業部メンバーを引き連れ独立する――自分達さえ良ければそれいい。赤字になっているのはお前らの責任だ――という橘の意図を見抜き憤慨するコンサルタントは少なくなかった。


 秋葉宗一も、その一人だった。


 彼は橘専務独立のニュースを聞き、腹立たしさを抱えながら会議室に一人籠もり仕事をしていた。ガラス張りの会議室である。秋葉がノートパソコンに向かっている姿を見かけた同僚の佐伯和馬は、会議室に入り声をかけた。


 「聞いたか?」

 「聞いたよ」


 秋葉は顔を上げず、キーを打つ手も止めずに短く返した。


 「なぁ、お前も一緒に橘さんの会社、行かないか?一緒に仕事したことはなくてもお前のことは知っているだろうし、力のあるコンサルタントなんだから、俺が橘さんに声をかけてメンバーに入れてもらうけど」


 この会社では、上司も部下も「さん」付けで呼び合うのが通例だったが、秋葉と佐伯は同期入社で友人関係である。入社直後の研修で同じチームになった頃から互いに「俺」「お前」と自然に呼び合う気安い仲だった。だから秋葉も遠慮なく言った。


 「橘さんが辞めるのは、別にいい。だけど部下を引き連れて事業部ごと独立させるってのは、どういうことだ? うちの会社は経営コンサルティング会社でしかも上場してるんだぞ? 売上の四割以上を占める事業部をごっそり引き抜いて出ていくなんて、会社が無事で済むと思うのか? そんなこと上場企業の役員がやることか! 株主から訴えられてもおかしくないだろ!」


 いつもは冷静沈着で、感情を表に出すことなど全くないと言っていい程の秋葉が、声を荒げる。佐伯は少し驚きながら、落ち着いた口調で答えた。


 「そのへんは、ちゃんと手を打ってると思うぜ」

 「あの専務のことだから、それはそうだろうよ」


 普段なら「橘さん」と呼ぶはずの秋葉があえて「専務」と言っている。相当腹立たしく思っていることが伺えた。だが秋葉は、それ以上は言わなかった。これ以上言えば、橘と共に行くと決めた佐伯――同期であり、友人でもある男の選択を否定することになる。


 「……で、お前はどうする? 会社に残るのか?」

 「俺は俺でやる。社内の派閥だの、事業部間の壁だの、もうそういうのも面倒だしな」


 こうして始まった組織の崩壊は、この1年後に上場廃止が決まり、かつて業界の一時代を築いたと言われた経営コンサルティング会社は、市場から静かに姿を消した。


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