高架下の塊
ーーーやだ、もうこんな時間じゃない。
電車を降りて時計を見ると、10時50分を少し回ったところだった。
駅の周りはまだ数件の飲食店が開いていて明るいが、少し離れると人通りも少なくなる。自分の真新しいヒールの音がやけに大きく聞こえ、薄ら寒くなったリサは身体を震わせた。間に合わないと分かっていても、諦め切れずに急ぎ足になる。
今日は、居なければいい。あそこにそれが、無ければいい。
高架下の、赤黒い塊。それが赤いワンピースを着た長い髪の女が、膝を抱えて座っている姿だと気付いたのはいつだったか。邪魔だなと反対側の壁に沿って歩きながら、ただの塊だと思っていたモノが。
あれは、夜の11時を過ぎると、必ずそこにいる。どうしてかは分からないが、その前には絶対にいない。分かってからは、決して時間を過ぎないよう、気を付けていたのに。
いつも通る、高架下が近付いてくる。
本当なら、もう少し早く帰れる筈だった。あんな時間に、課長が急の仕事をふってこなければ。
何が、「今日は、子どもの誕生日なんだ 」よ。だから、どうだっていうの? 自分はとっとと帰っちゃって。ウチだって、お母さんが足を骨折して大変なのに。
お母さん、大丈夫かな。さっきも、私の帰りが遅いからメールをくれていた。痛い足をおして、駅まで迎えに行こうかだなんて。そんなことさせられる訳ない。
大丈夫。アレはただの塊。だって、今まで動いたことなんてないじゃない。
リサは思い切って、高架下に入るために道を曲がった。
しかし、曲がった途端、目に映ったものにヒュッと喉が鳴る。
なん、で……?
いつもなら、高架下の丁度半分行った所の右側にあるそれが、何故か、道の真ん中にあった。
「嘘、でしょう? 」
思わず、口を突いた自分の声にハッとする。
通りたくない。遠回りして帰ろうか、でも……。
その時、スマホの着信音が鳴った。慌ててバッグに手を入れて、電源を落とす。
気付かれてない? 背中を冷たいモノが伝った。
暫く待ってみるが、塊が動く気配は無く、ホッと息を吐く。
一瞬見えた画面から、母からだと分かった。遅い帰宅を心配しているだけではなく、家で何かあったのかも知れない。遠回りという選択肢は消えた。
仕方無く、塊を避けて通ることに決める。
カツン……。
リサは息を詰めて、高架下に足を踏み入れた。
カツン…、カツン…、カツン…。
そうっと歩いているのに、どうしても靴の音が響いてしまう。
塊が近付いてくると、それは赤黒い服を着た女が蹲っているのだとはっきり分かってきた。
やはり、見間違いではなかった。
カツン…、カツン…。
女は膝を抱えて、俯いている。その長い髪はてらてらと濡れていて、毛先は下のコンクリートに付いていた。
目を離したいのに、離せない。離した途端、女が動きだしそうで。
カツン…、カツン…。
もう直ぐ、通り過ぎることができる。ところが女の横に差し掛かった時、リサはあることに気付いてギョッとした。
女は、赤い水溜りの上に蹲っていた。ポタリと濡れた髪から、赤い雫が落ちる。雫は、女が着ている赤い服に染みて分からなくなった。
カツッ、カツンッ、カツンッ。
後退った靴音が、コンクリートの壁に大きく反響する。
しまったと思った時には、もう遅かった。音に反応したのか、女が肩を揺らしたかと思うと、ゆらりとその顔をあげていく。
見ては駄目だ!
咄嗟にそう感じたリサは、叫び出しそうになる声を堪えて、その場から駆け出した。高架下を抜け、歩道に出る。
今まで動かなかったあれが、動いた。どうして、動いたの? なんで?!
分からないけれど、あれを見てはいけないものだということは分かる。あれは関わってはいけないものだ。
もう二度とあそこは通らない。回り道でも、時間が倍以上掛かっても、もう行かない。
早く帰りたい一心で、必死で走る。
カッ、カッ、カッ、カッ。
11時を過ぎなくても、もうあの高架下には近寄らない。
早く、家に帰りたい。
カッ、カッ、カッ、カッ。
早く家に帰るんだ。家に帰ったら、お母さんが、夕食を作って待ってくれている。いつもと同じに、「遅かったのね 」と言いながら。
今起こっている出来事も、怖いことがあったんだよと、暖かいリビングで夕食を食べながら話すんだ。
カッ、カッ、カッ、カッ。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ。
ーーーえ?!
カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ。
気のせいじゃない。自分の足音に重なる、誰かの足音。何かが、後ろから付いて来ている。
カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、カッ……。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ……。
こちらの走る速度に合わせて、濡れた足音が追ってくる。きっと、あの女だ。血塗れた姿を想像してゾッとした。
今にも追いつかれそうで、怖くて堪らない。もっと速く走りたいのに、足が縺れそうになって焦る。
確かめたいけれど、振り向けない。振り向いたら、あの女の顔を見てしまう。見たら、捕まってしまう。
息が苦しくて、心臓が爆発しそうだ。だけど、スピードは緩める訳にはいかない。必死に足を動かした。
あの角を曲がったら、家はもうそこだ。ほら、見えてきた。直ぐに帰ると分かっているから、鍵は開けていてくれる筈。
祈りながら、玄関の取っ手に手を伸ばす。ガチャンと音がして、ドアが開いた!
そのまま、玄関に転がり込む。
やった、着いた。家に入れば、もう大丈夫。
あの女から逃れた喜びに安堵して、涙が出そうになる。
ざまぁみろ! 私はお前なんかに、絶対に捕まらないんだから。二度とあそこには行かないし、二度とお前なんか見ない。
廊下の先から、夕食の良い匂いがする。今日はカレーライスなのか。きっと、私の大好きなポテトサラダも添えられている。早く、お母さんの顔が見たい。
「ただ…… 」
ただいまと息を整えながら言い掛けた時、ふと、ある違和感を覚えた。気付いて全身から血の気が引いていく。
ーーードアが、閉まる音って、した?
嫌な考えに息を飲む。まさか、そんな事がある訳ないと思いながら振り返ったリサの、……目の前にそれは立っていた。
どうしてーーー。
割れた頭と抉れた顔。その女は残った口でニタリと笑うと、赤い両手をリサに伸ばしてきた。
◆
「リサぁー? 帰ったの、リサぁ? 」
松葉杖を付きながら、母親が奥の部屋から出てきた。
漂う冷たい空気に、ぶるっと身体を震わせる。
「帰ったんならいいなさ……、え?リサ? 」
玄関を見ると、そこには、娘が朝に履いていった筈のヒールの靴が転がっていて、真っ赤に濡れた靴底を晒していた。
《おわり》
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