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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

そんなにうらやましいなら、代わってあげましょうか?

作者: 紺青

 「いいなー、ロザリンド様って」


 ティーカップに砂糖を三杯も入れて、カチャカチャと音を立ててスプーンをまわす女の戯言にロザリンドの表情が動くことはない。ロザリンドは公爵家の令嬢で、王太子殿下の婚約者。長年の淑女教育の賜物で微笑みを浮かべた表情を崩すことなく、静かにカップに口をつける。せっかく王宮の侍女が用意してくれた最高級品の茶葉が砂糖をあれだけ入れたら台無しだろう。

 ロザリンドは極力、目の前の女の情報を入れないようにしながら、口の中に広がる桃と苺の風味の紅茶を味わう。ロザリンドはシンプルな紅茶を好むが、最近の流行の風味のついたものも意外とおいしいかもしれない。


 「だってぇ、公爵家に生まれたから、アイザックの婚約者になれたわけでしょう? 魔力量だったら、私だって負けてないと思うんです」

 

 紅茶のカップを両手で抱えて、幼子のようにぷくっと頬を膨らませている。ロザリンドについているマナーの教師がこの場にいたら、小言や鞭が一体、どれだけ飛んでくるだろうか?

 でも、そんなことにはならない。小柄で華奢で可愛いらしい、髪も瞳も柔らかいピンク色に染まったこの女は、婚約者である王太子殿下のお気に入りなのだから。そう、名前に敬称を付けずに呼ぶのを許すくらいに。

 男爵家の庶子として生まれ、十五の時に男爵家に引き取られたと聞いている。育ちが平民ならば仕方ない事なのかもしれない。でも、男爵家や貴族が通う学園でマナーを叩きこまれているはずだ。まぁ、三年経ってもこの有り様だから、婚約者であるロザリンドがこの女の教育を任されて、教育の一環としてお茶をしているわけだが。


 「あーあー、ロザリンド様がうらやましい。公爵家に生まれてたら、私が王妃さまになれたのに」


 わたくしだって、あなたがうらやましいわ。ただ、可愛くて庇護欲をそそるというだけで、無礼で無様でも許される存在。ロザリンドの当たり前を突き崩し、未来を叩き壊した元凶。殿下はこの女をどうするつもりなのだろう? 今現在はロザリンドが婚約者で、彼女はただの寵愛を受ける存在だ。ロザリンドに任せたことから、殿下の周りはおそらく側妃か愛妾に据えるつもりだろうと推測している。それだって過ぎた境遇だというのに、更にそれ以上を望むのか。


 「そんなにうらやましいなら、代わってあげましょうか?」

 

 目の前の女のただでさえ大きな瞳が、さらに見開かれる。それは、いつも無言で無表情なロザリンドが言葉を発したからなのか、その発言内容に驚いたからなのかはわからない。

 人形めいた美貌にロザリンドがめったに浮かべない微笑みを見せると、その女は頬を赤く染め、しばしの間見惚れていた。


 

◇◇



 でも残念ながら、あんな発言をしたところで現実は変わらない。今日もロザリンドのいつもと変わらない一日が始まる。


 相変わらず顔を洗うために用意された水は冷たい。母が生きている頃はあたたかいものが用意されていた。母が五歳の時に亡くなって、後妻に入った女のせいで、ロザリンドの毎日は快適とは言い難かった。


 気を利かせて世話をするはずの侍女達は全て義母の息のかかったものに入れ替えられた。食事を抜かれたり、暴力を振るわれたりなどと、あからさまな嫌がらせはされない。でも、貴族らしく細々とした嫌がらせをされ、手を抜かれる。そのせいで、自宅でもロザリンドは気を抜くことはできない。化粧も髪型もロザリンドのきつい印象をさらに強調するようなものに仕上げられている。


 「ロザリンド、殿下は男爵家の庶子の娘をたいそう寵愛なさっているそうじゃないか」

 

 普段はしんと静まり返っている朝食の席で父がロザリンドに話しかける。


 「ええ、庶民や下位貴族のことを知りたかったそうです」


 「有益な話が聞きたいからというレベルを超えているだろう? 学園でも常に傍に侍らせているとか。王宮であの女にお前が教育を施しているんだろう?」


 「ええ。ゆくゆくは王妃となるのだから、愛人の一人や二人御しなさいと王妃殿下もおっしゃっていました」


 「チッ。結婚もしていないのに、もう他の女に目移りされるとは情けない。お前が殿下の心を掴んでおかないから! きちんとその女を制御しろよ」


 「父上、仕方ないではありませんか。姉上は冷たくてお高くとまりすぎなんですよ。一緒にいたら息が詰まります」


 父の暴言は今更だが、異母弟に物申されると怒りが湧いてくる。この男は後妻の息子だ。ロザリンドと同じ年だが、父の血を引いている。

 父や後妻に言わせると母の方が邪魔者だったそうだ。恋人を引き裂いて無理やり、父と結婚した女ということらしい。母の実家の金目当てに結婚したくせに浅ましい。母と結婚してからも義母と繋がっていて、子まで成した父は母が亡くなるとすぐに義母と再婚し、異母弟も公爵家の籍に入れた。

 父は一緒に暮らす前から異母弟にロザリンドと同じ家庭教師をつけていた。それなのに、成績は振るわない。それが気に食わないのか彼はロザリンドを目の敵にしてくる。そんなことしている間に、己を磨けばよいのに。

 しかし、出来が悪くても外見だけは美しい義母にそっくりな異母弟を父は可愛がっている。最近は仕事先にまで連れて行っているようだ。公爵家の後継ぎでもある異母弟は殿下に侍る側近の一人でもある。そして、男爵家の令嬢にもぞっこんだ。


 「お前はあの女にそっくりだな」

 

 父が吐き出すように言った言葉に腸が煮えくり返る。二人への怒りは腹に納めてなんでもない顔をする。でも、朝食を食べる手は止まった。フォークを置くと、退席して学園に向かうことにした。今日は異母弟と同じ馬車では行きたくない。


 相変わらず婚約者はロザリンドを公爵家へ迎えに来ることもなく、貴族の通う学園では常に男爵家の令嬢を侍らせている。それを注意すべき側近や護衛達もまるでそれが正しい行いであるかのように、二人を温かく見守っている。


 殿下との関係が希薄になるにつれて、ロザリンドの派閥は瓦解し、今は学友達はロザリンドを遠巻きに眺めるだけで傍に侍る者はいない。ロザリンドに先はないと、その状況が現しているようだ。実際に殿下が関心を示さないロザリンドの行く末は暗い。


 ――表情だけでなく心まで冷たいから、殿下に見放されたのだ。

 ――公爵令嬢が男爵令嬢に負けるとは、どれだけ魅力がないのだろう?

 ――爵位も学力も魔力量もあっても、意味なんてないのね。

 ――お可哀そう。でも、ちょっとだけいい気味ね。


 現時点ではまだ、王太子の婚約者であり公爵令嬢であるロザリンドに直接なにかを言ってくるものはいない。でも、遠巻きにひそひそ声で告げられる言葉はなぜか耳によく届く。それが、一滴一滴、雨粒のようにロザリンドの心に降り積もって沁み込んでいく。


 たまに話しかける者がいるかと思えば、殿下の側近や護衛の婚約者達で、自分の婚約者にまで男爵家の令嬢が馴れ馴れしくするのをなんとかしろと懇願される。ロザリンドのことを慮ってくれないくせに、要求だけは突きつけてくる。


 今は、学園が終わるとすぐに家に帰って書庫に籠るのが日課だ。王太子妃教育で課せられた教育や学園で習った中で、魔法の授業だけは好きだった。ロザリンドは魔力量も豊富で、魔法を扱うセンスがあった。魔法の書を読み込み、自分の知らなかった魔法を発動させる。その時間だけが癒しの時間だった。上手くいかない婚約者との関係も、先行き不安な自分の未来も全て忘れて、魔法の腕を習熟させることに没頭した。

 


◇◇



 そんな毎日を重ねて、貴族学園の卒業式を迎えた。卒業の一年後に殿下との結婚式が控えている。いつ婚約破棄をされてもおかしくはない状況で、殿下はロザリンドにかまうことはなかった。その静けさがロザリンドには恐ろしく感じた。それでも、ロザリンドにできることはなにもなかった。


 「ロザリンド、お前との婚約を破棄する」

 無事に卒業式の式典を終え、卒業記念パーティーの開始を告げた殿下はロザリンドを呼び寄せると卒業生、在校生、そして保護者である主だった貴族達のいる場で、婚約破棄を静かに告げた。


 「皆の者、このような祝いの場と貴重な皆の時間を使うことを許してほしい。公の場ではっきりさせておきたいからだ。しばしの間、つきあってほしい」


 公爵令嬢とは思えないほど地味なドレスに身を包んだロザリンドは顔を伏せて、王太子殿下の言葉を静かに聞いている。卒業記念パーティーのドレスやアクセサリーは婚約者が贈る風習があるが、もちろんロザリンドに贈られることはなかった。しかも、公爵家の采配は義母にゆだねられていて、ロザリンドのドレスやアクセサリーは公爵令嬢に相応しい物ではなく、貴族令嬢として最低限の物だった。義母は婚約者である殿下がそのようにロザリンドを扱っても、意に介さないと分かった上でやっている。


 「ロザリンド、お前は私に黙っていたことがあるな」


 「……」


 「私との婚約の条件の一つである豊富な魔力を失っているだろう?」


 「……はい」


 「なんだと! ロザリンド! それは本当か!」


 ロザリンドは頭を垂れたまま、殿下の言葉を肯定する。保護者の輪の中から、父親である公爵の怒鳴り声が聞こえてくる。


 「事実を偽ってまで、この婚約にしがみつくとは卑しい心根だな。それだけに留まらず、ジェニーへの淑女教育で、嘘偽りを教え、挙句の果てに暴言や暴力まで振るったそうだな」


 「……はい」


 ジェニーは殿下の正妻になるには身分も教養もなにもかもが足りない。側妃か愛妾にするつもりで、ロザリンドがジェニーの淑女教育という名の側妃教育を任された。殿下もいつも淡々としているロザリンドなら、ジェニーが側妃や愛妾になろうとも、教育を任されようともなんとも思わないできちんと遂行するだろうと思っていたのだろう。


 ところが、いつの間にか豊富にあった魔力を失い、ジェニーへの教育の場では叱責や鞭打ちなどの暴力が振るわれていたようだ。ロザリンドへの信頼もあり、密室であったことから発覚が遅れた。


 ロザリンドが魔力を失ったことに気づいたのは側近の魔法師団団長の息子で、ジェニーへの偏った教育や暴力に気づいたのは側近の宰相の息子だった。

 気落ちするジェニーの様子に気づいたロザリンドの異母弟が根気良く話を聞き出したことが発端となり、芋づる式に発覚していった。殿下の護衛や側近達はこのままロザリンドが正妻となれば、余計にジェニーが虐げられるだろうと奮起して、ロザリンドの瑕疵を探したようだ。殿下は気づかなかった自分の迂闊さを呪いつつも、側近や護衛の優しさと優秀さに満足していた。


 王太子殿下は自分の隣に誇らしげに立つジェニーの背中を労わるようになでた。彼女のドレスやアクセサリーは公爵令嬢といっても差し支えない最高級品であり、殿下の瞳の色である深いブルーがふんだんに使われている。殿下からの贈り物であることは誰の目から見ても明らかだった。


 「それだけではない。お前の実家の公爵家は違法薬物売買と人身売買の疑いがある」


 殿下とロザリンドが話しているところまで、興奮して乗り込んできていた公爵が近衛騎士達に捕らえられている。どちらもこの国では重大な犯罪で、周りを取り囲んでいた貴族達から悲鳴があがり、ざわめきが広がった。


 「現在は調査を進めているところだが、現時点でもその罪は濃厚だ。お前は父親の罪を知っていた上に、ジェニーを誘拐し人身売買組織に売ろうとしていたな? 罪が重大であることから、公爵とお前の処刑は免れないだろう。婚約は破棄されているが、犯罪者であるお前との婚約は白紙撤回となり、婚約していた事実そのものがなくなるであろう。公爵夫人と子息はこの犯罪に関与していない。子息は父親や義姉の犯罪に気づいて、公爵家が取り潰しになる覚悟の上で告発してくれた。よって、公爵夫人と子息には情状酌量の余地がある」


 さらに告げられたロザリンドの恐ろしい犯罪計画に夫人や令嬢達から甲高い悲鳴が上がる。


 「……承知いたしました」

 ロザリンドは青ざめた顔でカーテシーをする。あまりに騒ぐので猿轡をかまされ、近衛騎士に抱えられるように父が退場した。その後をロザリンドも近衛騎士に囲まれて連行された。



 「もっと早くに父や義姉を止められていたらと思うと……」

 ロザリンドが去った方を見つめながら、異母弟が拳を握りくやしそうに顔を歪める。


 「いや、知らなかったのは罪ではない。お前が父と義姉の異変に気付き、勇気を出して報告してくれたおかげで、ジェニーはこうして無事で居られるのだ」

 王太子は慰めるように、異母弟の肩を叩いた。

 

 「皆のもの、暗い話題はここまでだ。公爵とロザリンドの罪は全て(つまび)らかにし、しかるべき罰を与えると誓う。そして、次の婚約者にはジェニーが内定している。ロザリンドの王太子妃教育を担当した教師達からも見込みがあるとお墨付きだ。優秀で魔力量も豊富。彼女を置いて私の伴侶に相応しい者は彼女しかいない。すでに男爵家の寄り親の侯爵家の養女となっているので身分に関しても問題ない」


 学園でもひそやかに愛をはぐくんでいた二人を応援していた令嬢や子息達から拍手が起こる。上座で見守る王や王妃、高位貴族達からも異論が出ないことから、これは既定事項なのだろうと保護者である貴族達は戸惑いながらも子供達にならい拍手で同意を示した。


 「さぁ、ここからはパーティーを楽しんでくれ!」

 その言葉に、断罪された元婚約者の公爵令嬢のことを忘れ、皆それぞれにパーティーを楽しんだ。



◇◇



 厳格な捜査が行われた結果、公爵家から次々に人身売買と薬物販売の犯罪の証拠やロザリンドが人身売買組織の者とジェニー誘拐についてやり取りした証拠が出てきた。公爵とロザリンドはその罪の重さから貴人用の牢ではなく、地下にある薄暗い大罪人が入れられる牢に入れられている。


 婚約破棄と断罪の場ではしおらしかったロザリンドは牢に入れられてから、発狂した。「ジェニーに会わせろ」と言って、一日中叫んで暴れまわっているという。


 「殿下、私、ロザリンド様に会います。お世話になったのは事実ですし。私が憎い気持ちもわかるんです」


 「ジェニー……。ひどいことをされたのに、なんて優しいんだ。ロザリンドに少しでも人を思いやる気持ちがあればよかったのに」


 「牢の鉄格子は丈夫なのでしょう? 鉄格子越にお話しします。でも、ちょっぴり怖いので付いて来てくれますか?」


 殿下の手を両手で包み、ピンク色の目を潤ませて見つめる。


 「わかった。ジェニーがそれほど言うなら」


 渋々といった様子の殿下と牢に捕らえられたロザリンドに対面した。殿下には少し離れたロザリンドから見えない位置に控えてもらう。二人の様子は見えるが小声であれば話し声は聞こえない距離だ。


 「ロザリンドォォォォ――」

 牢で暴れていたロザリンドはジェニーが視界に入ると、鉄格子に体当たりしてきた。なぜかジェニーのことをロザリンドと呼びながら。

 

 「あなたの描いた台本通りに動いてあげたわ。これで満足かしら」


 「戻しなさいよ! 一体、なにをしたっていうの! 私はジェニーよ! ロザリンドなんかじゃない! 私の体を返して――――!!!」


 元々、ジェニーが企んでいたのはロザリンドに暴言や暴力を振るわれ、さらには暗殺されそうになるという筋書きだった。公爵家を没落させるなどという大事にする予定はなかった。


 でも、そんなのロザリンドから言わせると甘いのだ。そのような事実はないのだから、証拠不十分でロザリンドは婚約者のままで正妃となり、ジェニーは予定通り側妃か愛妾におさまることになっただろう。


 だから、確実に婚約破棄して、相手を亡き者にするにはこうするしかなかったのだ。自分を駒だとしか思っていない、極悪非道の父を巻き込んだことに対してなにも感じない。父が犯罪に手を染めていたのは事実だ。ここまで苛烈なことができるのは、父の血筋だとも言えるかもしれない。ジェニーはいつもの天真爛漫な笑みではなく、見てるものの背筋が冷やりとするような笑みを浮かべた。


 「うらやましいと言うから、代わってあげたのよ。ちょっと配役を代えただけじゃない。それを今更、戻りたいって言っても無理よ」

 本当は戻る術はある。でも、そんなことのために膨大な魔力を失うわけにはいかない。この禁術の発動は膨大な魔力を消費するのだ。そして消費した魔力は戻らない。


 「体が入れ替わっただけじゃなくて、全然、自分の思うように体が動かないし、話せないじゃない! アイザックはどこ? 会わせて―――! 彼なら私がジェニーってわかってくれるわ」


 「ふふふ、だって、自由に動いたり話せたりしたら、わたくしがどんな状況だったかわからないでしょう? そっくりそのまま体験して欲しかったのよ。楽しかったみたいね? たかだか1ヶ月くらいで、わかった気になってほしくはないけど」


 ジェニーは楽しくて仕方ないというように美しい微笑みを浮かべる。代わってほしいとジェニーに請われた時に浮かべたような笑みを。


 「ロザリンドォァアアアア―――――」

 ロザリンドの華奢な白い手がガシャガシャと鉄格子を掴んで揺すぶる。泥と汗の饐えたような臭いが漂ってきて、ジェニーは顔をしかめる。ロザリンドは公爵令嬢であったとは信じられないくらい汚れていた。


 「おお、怖い。お望みを叶えてあげたっていうのにお礼の言葉もないのね」

 ロザリンドの体の中にいるジェニーの無様な姿を堪能したジェニーの体の中にいるロザリンドは満足した。


 よかった。

 ボロボロになっているロザリンドを見ても、心が動かなかった。ロザリンドの体に戻りたいとも思わないし、自分の体であったものを見てもなんの感慨もない。

 ロザリンドの体に入っているジェニーに対してもなにも思わない。彼女が経験したこともこれから受ける仕打ちも。可哀そうだとも、やりすぎだとも思わない。

 だって、あれは彼女が望んだことなのだ。


 「アイザック、お待たせ」

 「もう、あいつに言葉は通じないだろう。もう精神が壊れている」

 「ええ、そうみたいね。可哀そう、ロザリンド様」

 「私のジェニーは優しいな、あんな女にまで情をかけるとは」

 ジェニーは離れた位置で心配そうに待つアイザックの元へ駆け寄った。アイザックはジェニーを引き寄せると、守るように肩を抱いて階段を昇って行った。



 ◇◇



 わたくし達の関係性を重ねるのは薄紙を一枚ずつ重ねるように繊細で途方もない作業だった。幼い頃に決まった婚約者である殿下とも、側に侍る護衛達とも、側近候補の令息達とも。なのに、築いてきた信頼も絆も敬愛も、ジェニーという風の一吹きでどこかに飛んでいった。


 はじめから絶望がそこにあったのなら、良かったのかもしれない。あたたかな気持ちや心地よい状況を知らなければ、良かったのかもしれない。まだ、我慢できたのかもしれない。


 でも、殿下との間には信頼と敬愛があった。

 護衛達や側近候補の令息達の間には、殿下を支え守り盛り立てようという共通の志があった。

 派閥の令嬢達とも貴族の義務を全うするべく、心地よい交流があった。


 一度持ち上げられた所から落とされる絶望が、どれほど深いかわかるかしら?


 ロザリンドの心は徐々に壊れるのではなく、コップに一滴ずつ貯まった水が、突然、縁から溢れるように決壊した。


 だから、自分の名前も体も捨てることに躊躇はなかった。


 公爵家の書庫で見つけた魔法書にある禁術を実行したのだ。ロザリンドの持つ膨大な魔力を犠牲にして。

 ――魂を入れ替える禁術を。

 なにせ、ロザリンドには魔法を扱うセンスがあったので。そして、禁術に手を出すことをだめだと思う良心はなかった。だって、ロザリンドの心は壊れてしまったから。


 ロザリンドは同時に、魂を入れ替えたジェニーが自由に行動し、発言することを封じる禁術も施した。

 だから、魂を入れ替えた後もジェニーはロザリンドの体の中でどうすることもできず、ロザリンドがこれまでしていた行動や発言をトレースすることしかできなかったのだ。

 父の犯罪やロザリンドがジェニーの誘拐を企む証拠はバカな異母弟でもわかるように、あらかじめ仕込んだものだ。

 実際にロザリンドがジェニーを教育の場で虐げたことはない。ジェニーの魂と入れ替わった後も。でも、そんなものどうとでもなるのだ。


 この一ヶ月、ロザリンドの体の中でジェニーが味わった苦しさや屈辱を思うと笑いが止まらない。


 ロザリンドが牢に入れられてから、行動や発言を縛る術は解除した。牢に入れられて、ロザリンドの体にいるジェニーが「自分はジェニーだ。ロザリンドじゃない」といくらわめいても誰も信じないだろう。むしろ、ロザリンドが気が狂ったと思われれば、処刑する罪悪感を誰も持たないだろう。


 そして、迎えた処刑の当日。


 「お前は見なくともよい」


 涙を溜めて、悲壮な決意を胸に秘めてこの場に来たジェニーをアイザックは胸元に抱き寄せた。婚約者の胸元に顔を伏せながら、笑いが止まらない。かつて自分の魂を内包していた体が殺されるというのになんの感慨もなかった。


 「その女は魔女なのよ! いやぁああ――。殺さないで! やめて! その女はロザリンドで、私がジェニーなのよ! アイザック、アイザック、たすけてぇええ――――」

 公爵令嬢で、王太子の元婚約者だとは思えないほど見苦しく叫んでいる。

 王太子の胸元からちらりと周りを見回す。王族や高位貴族達はさすがに表情を変えることはない。少し痛ましげな表情を浮かべている。下位貴族達や、平民達はにやにやとした下卑た笑いを隠すことはない。


 なんのために、ロザリンドの人生はあったのだろうか?

 ふいにそんな問いが浮かぶ。王家も金と手間をかけて婚約者を教育して、いらなくなったからと処刑する。まぁ、貴族や平民のうっぷん晴らしにはなったのかもしれない。


 きっと人間なんてみんな愚かなんだろう。だから、ロザリンドだって、自分のことだけを考えて愚かに生きることが許されるはずだ。

 

 さぁ、これからどうしようか?

 まずは今回、英雄のような扱いを受けている異母弟だ。異母弟の活躍で、公爵家は取り潰しは免れた。男爵家に降格され、領地も削られた。まっとうな商売もしていたが、全て解体させられて副収入はなくなった。殿下の側近からも外された。それでも、王宮で文官として勤めるようだし、殿下のお気に入りであることは間違いない。

 彼に気のあるふりをして、襲われそうになったと狂言を起こそうか?


 殿下の側近と護衛達にも痛い目にあわせてやりたい。本当はジェニー以外も体を入れ替えて、ロザリンドの境遇を味わわせてやりたかった。あの孤独と絶望を。だけど、魔力が足りないし、バレる危険もあった。だから、一番憎い元凶に味わわせてやった。


 ロザリンドは全部覚えている。

 誰が何を言ったのか、なにをしたのか。なにをしてくれなかったのか。

 王と王妃を筆頭に、婚約者、その側近や護衛達、学園の令息、令嬢達、公爵家や王宮の侍女達も。

 

 大丈夫。ロザリンドには魔力も知識も、そしてかばってくれる人もいるのだから。

 王太子妃となったら、王家の秘匿としている書庫にも入れるだろう。公爵家の書庫にあった禁術なんて、目じゃないかもしれない。

 

 今のロザリンドには、なにもない。

 自分の体も名前も良心も。

 だから、なんでもできる。


 ロザリンドは生まれて初めて、心の底からわくわくする気持ちを感じた。

 愛だとかぬくもりだとか、そんなものを求めていた自分が馬鹿だったのだ。貴族の矜持や義務を投げ捨てて過ごすのはなんて気ままなんだろう!


 それに、人のぬくもりや愛情のこもった視線がこれほど心地いいと初めて知った。殿下のことも心の底から憎んでいるけど、与えられるぬくもりや優しさはなかなかいいものだ。愚かな彼は愛する女の中身が入れ替わったことに気づくことなく、変わらず愛を与えている。


 それに殿下の護衛や側近達や王宮の侍女達もロザリンド相手のように距離はない。人と親し気に交流することもなかなか楽しい。


 人から与えられる愛情や好意はなんて心地いいんだろう。ロザリンドがかつて心地よいと思っていた状態の何十倍もすばらしい。


 だからといって、心が壊れたロザリンドは誰かを愛することはない。絆されることなんてないし、憎しみを忘れることもない。


 ロザリンドには王太子妃教育で培った知識とマナーがある。

 ロザリンドがジェニーの学習係から外されて、ロザリンドにかつて王太子妃教育を叩きこんだ家庭教師達がつけられた。殿下の婚約者とするのに問題がないことを示すために、ロザリンドが学んだことを惜しみなく披露した。それを殿下をはじめとして教師も誰もおかしいと思わなかった。むしろ、これでロザリンドや公爵家を罰しても、ジェニーを婚約者に据えられると周りはほっとしていた。


 でも、ジェニーは家庭教師達が暴言や鞭を振るうのを許さなかった。殿下に泣きつき、その横暴を訴えた。今、ジェニーについている教師は優しくて優秀な者だ。ロザリンドであった時に我慢したことを一つも我慢する気はない。権力者の庇護下にいるということのありがたみをひしひしと感じる。


 豊富な魔力と魔法の知識、王太子妃教育で身に付けた語学力や教養やマナー。それにジェニーのもつ愛嬌がある。天真爛漫さがある。いわば一つの体に二人分の人間の能力が詰め込まれているのだ。


 他の者には、ジェニーや父のようにすぐに罰を与えることはしない。

 みんなに上手くいっていると自分の思い通りになっているとふわふわと思い上がらせてから、一人ずつ絶望へと落としていってやる。ロザリンドがそうされたように。


 こいつは最後までとっておこう。

 腕を絡めている相手を愛おしそうに見上げてにっこりと微笑む。

 じわじわと真綿で首を絞めるように苦しみを与えてやろう。

 そして、死の間際に囁いてやるのだ。

 自分の最愛だと思っている者の中身が一体誰なのかを。

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