雪の降る日にあなたと
季節は冬。吐く息も空の色も真っ白で、緑の街路樹も甘いクリームを乗せたようになっています。
そんな白い世界の中を、茶色のふわふわが上品に歩いていました。
猫です。ノルウェージャンフォレストキャット、ヨーロッパでも特に寒い地域が原産の、好奇心旺盛な種類の子です。
ガラス玉を思わせる透き通った瞳はフォレストグリーン。
長い毛は複雑かつ芸術的に混ざり合ったミルクティー色と茶褐色。口元からお腹にかけては柔らかな白色で、まさに雪降る森の妖精のようでした。
彼女はすぐ近くの家に飼われている、立派な飼い猫です。
名前はクロエ。道を歩けば誰もが振り向く、素敵なレディです。
朝になると家じゅうをパトロールしてはネズミなどの不届き者を捕らえ、家族にプレゼントするのが日課の彼女のはずなのですが……今日はパトロールもそこそこに、雪が積もる外へ一目散に飛び出して行くではありませんか。
彼女にとって冬とは特別な季節なのです。なぜって、冬にだけ会える素敵な友達がいるから。
これはそんな彼女と素敵な友達との、誰も知らないささやかな語らいの記録───。
12月3日 AM9:00
『はじめまして、背高のっぽのあなた。シルクハットの素敵なあなた。この冬だけで構わないわ、あたしの友達になってくれないかしら』
───はじめまして、森の瞳のあなた。素敵なふわふわのあなた。こんな僕でもよろしければ、この冬の間、喜んであなたのお友達になりましょう。嬉しいな、あなたは僕のはじめてのお友達です。
『決まりね。どうか今年の冬も、楽しく過ごしましょう。そうそう、私の名前はクロエ。そこの家でお母さんとお父さんと女の子と一緒に暮らしてるの』
───こちらこそ、どうぞよろしくお願いします、クロエさん。僕のことはどうか、あなたのお好きなようにお呼びください。
『あら、困ったわ。あたし、誰かに名前をつけるのとか、あんまり得意じゃないのよ。いい名前が浮かんだら教えてあげるわ』
───嬉しいな。楽しみにしていますね。
12月10日 AM10:36
『ごきげんよう。何してるの?』
───おはようございます、クロエさん。皆さん、随分と暖かそうな格好をしていらっしゃるなと思って。それに種類も様々で、見ていて飽きないです。
『人間観察ってことね』
───これくらいしか、できることがありませんからね。ほかに何か、僕でもできそうなこと、ありますか?
『あたしとお喋りするのはどう?』
───それは名案ですね!ああ、それなら僕、クロエさんの好きなことが知りたいです。
『あたしのこと?そんなに面白いことはないと思うわよ?』
───いいんです。僕が純粋に、クロエさんのことを知りたいだけですから。
『まあ、別に構わないけど……好きなこと……そうね、日向ぼっことお散歩。ブラッシングをしてもらうこと。美味しいおやつはたまのご褒美ね。あと、こうして誰かとお喋りすること』
───クロエさんは好きなことがたくさんあるのですね。僕も誰かとお話するのは大好きです。道行く人々に挨拶することも好きですし、あと、星を眺めたりするのも。
『星を眺めるのが好きだなんて、随分とロマンチストなのね』
───星って、とても遠いところにあるものでしょう?何年、何十年と前の光が今の僕らに届いているんだって、フクロウさんが言っていました。それってとても不思議なことだと思うんです。
もしもあの無数の光のどれかに、僕たちへ手を振ってくれている誰かがいるとして……振り返した僕の姿がその誰かに届くのは、もっとずっと後のこと。僕がこの世界からいなくなった後でも、手を振る僕の姿は誰かに届くんですよ。
そうして僕の姿が遠い星の誰かに届いた時、僕たちは確かに握手を交わしたことになるんじゃないでしょうか。
『見えてるのに触れないってもどかしくて、あたしにはよくわからないけれど。でも、遠い誰かとお友達になれるなら、それは素敵なことだと思うわ』
───昼間は星は見えなくて、夜になっても雲に隠れてしまうこともありますが。それでもそこにあるのだとわかっていれば、空を見上げるだけで僕はそこに友達の姿を見ることができるような気がするんです。
『時々は、目に見える友達のことも気にかけてよね』
───もちろん、いちばんのお友達はクロエさんですとも!それだけは何があっても変わりません!
『そう?』
───それはそれとして、空の向こうに新しいお友達ができた時に、クロエさんがどれだけ素敵な方かを広めたいと思うのですが……。
『それはだめ』
12月15日 AM11:14
『ごきげんよう、今日もいい天気ね。……って、どうしたのよその腕!?ぽっきり折れてるじゃない!』
───うう……流れ弾に当たりまして………。
『流れ弾?……もしかして雪玉のこと?そういえば昨日の夕方、近所の子供たちが雪合戦をしてたような気がするわね』
───クロエさん、僕はもう駄目です……これでさよならです……。
『もう、腕が折れたくらいで何を言ってるのかしら。人間じゃあるまいし。ちょっと待ってなさい、いま新しい腕を持ってきてあげるから』
───待って、クロエさん……もう駄目なんですってば………クロエさん……クロエさん……。
『ほら、持ってきたわよ。これならちょうどいいでしょ。だから情けない声を出すのはもうお止めなさい』
───だって腕が折れてるんですよう……。
『血なんて出ないし骨があるわけでもない。ほら、折れてる腕を抜くわよ』
───いたくしないでください……。
『そこまで嫌なら庭先のリスでも眺めてなさい。すぐ終わるわよ。……ほら』
───うう……痛……く、ない……?
『だから言ったでしょう。ついでに新しい腕を挿したけど、どうかしら?』
───……ええ、ええ!最高です!これまで生きてきた中で一番最高の気分です!身体の不調がすべてなくなりました!
『本当に大げさなんだから……だいいちあなた、その身体で不調なんてあるの?』
───………ないですね!
『まったく、調子がいいんだから……』
───確かにこれは気分の問題かもしれませんが、それでも随分と変わるものですよ。何より、あなたが僕に優しくしてくださったことが嬉しいのです。ありがとうございます、クロエさん。
『どういたしまして。これも友達のよしみってやつよ』
12月20日 AM10:26
『おはよう。今日も寒いわね。雪が降ってるし。ま、あたしは慣れっこだけど』
───ああ、クロエさんだ。おはようございます。僕も寒さには随分慣れてきましたよ。もともと、寒さに強い体質のようです。
『ならよかったわ。風邪なんて引いてもいいことはないもの。……ところで、そんなに熱心に何を見ているの?』
───あれですよ。
『イルミネーション?』
───イルミネーションと言うのですか。すごいですね。どの家も同じようにきらきらしく飾り立てているのに、同じ装飾はひとつとしてないんです。なんのために飾りつけるんですか?
『なんでかしらね。ああほら、冬って雪が降るじゃない?街路樹も家の屋根も真っ白で、花なんてろくに咲いてない。だからせめて、きらきらしたもので目を楽しませるんじゃないかしら』
───なるほど、寂しい景色を少しでも楽しくするための知恵なのですね!
『あくまであたしの想像だけどね』
───きっとそうです。そうに違いありません。冬をきらめかせる灯りの花。あれならきっと、真っ白な冬でも寂しくありませんね。
『まるで詩人みたいな表現をするのね』
───ああ、あれはすごいな。あんなに光っていたら、他のどの家もまだ輝きが足りないと思ってしまいますよ。
『どの家?』
───ほら、あそこ。雪が積もっているので少しわかりづらいですが、あのラズベリー色の屋根の家。すごいなあ。まるで燃えているみたいじゃありませんか。僕、生まれてから一度も火なんて見たことありませんけど、きっとあんな感じなんでしょうねえ。……どうしました?尻尾が心なしかいつもより膨らんでいるような……。
『燃えてるみたい、じゃなくて燃えてるのよ!本物の火事じゃない!』
───えっ、あれが火ですか!はじめて見ました!触っていいですか!
『絶対だめだから!』
その日、小さな町で一匹の猫が表彰されたのだそうです。新聞の片隅に掲載された記事によると、猫は近所の家で発生した火事にいち早く気づき、その家の人々に知らせたという話。
火事のあった家の住人は、庭先で突然猫が騒ぎ出したのを不思議に思い、外に出たところ出火に気がついたとのことでした。
「あの子が知らせてくれなければ、私たちのクリスマスは悲しいものになっていたことでしょう」
家の主はそう語ります。結果的に、燃えたのは火元となったイルミネーションだけで、家そのものには一切被害がなかったのは、幸運としか言いようがありません。
新聞では「猫が届けたクリスマス前の奇跡」という題が掲げられましたが、そこに載った猫の写真は、助けた家の人々にぎゅうぎゅうと抱きしめられてちょっと不機嫌そうな顔をしていました。
でも。
───これでクロエさんも有名人、いえ、有名猫の仲間入りですね。
『やめてちょうだい。火事を知らせたスーパーキャット、なんて謳い文句にも結構うんざりしてるのよ』
───ですが、何か素敵なものをいただいたんでしょう?
『素敵なもの……ああ、高級なごはんのことかしら。あれは最高だったわ!今まで食べてきたものが物足りなくなってしまうくらいにね』
───よかったですね。クロエさんが嬉しそうだと、僕も嬉しいです。
『あなたのおかげでもあるのよ』
───え?
『あなたが火事に気づいてくれたから、あたしはあの家の人たちに知らせることができたの。だから本当は、あたしだけじゃなくてあなたもご褒美を貰うべきなのよ』
───実際に彼らを助けたのはクロエさんですから。誰かの役に立てて、クロエさんが幸せそうなら、僕はそれで十分です。
『まったく……あ、それならあたしが毛繕いしてあげるわ』
───僕、毛の一本だって生えてないのですが……。
12月24日 AM10:03
───クロエさん、見てください!全身真っ赤な人がいます!
『そりゃあ今日はクリスマスイブだもの。本物も偽物も関係なしに、きっと町中がサンタクロースだらけになることでしょうね』
───……クリスマス!ああ、なんだかその言葉の響きは知っている気がします。詳しいことはわかりませんが、心がこう、ふわっと浮足立つような素敵な気持ちになりますね。
『この季節のメインイベントと言ってもいいくらいだから、冬の化身みたいなあなたが知っていてもおかしくはないわね。
クリスマスっていうのは、有名な人の誕生日なんですって。で、その前日の夜には、サンタクロースっていう赤い服を着たおじいさんが、トナカイの曳くソリに乗ってプレゼントを届けにくるのよ』
───では、あの方がサンタクロースさんですか?
『あの人は違うんじゃないかしら。プレゼントの入った袋も持っていないし、ソリにも乗ってない。たぶん、クリスマスだから仮装しているのね』
───そういうことでしたか。それだけ、たくさんの人から慕われているのでしょうね。サンタクロースさんという方は。
『まあ、子供たちのヒーローみたいなものだし。あたしの家の女の子もね、クリスマスイブの夜はサンタクロースをもてなすために、ツリーの下にクッキーとレモンティーを用意してるのよ』
───サンタクロースさんはクッキーとレモンティーがお好きなのですか?
『……それはサンタクロースによるんじゃないかしら。世界中のすべての家に一人でプレゼントを届けて回るなんて無理な話だから、サンタクロースも何人かいるのよ。だから、それぞれの好みに合わせたものを準備しておくんでしょうね』
───なるほど、クロエさんはクリスマスにお詳しいのですね。
『……そりゃあ、あたしだってもう四歳だもの。仔猫みたいに世間知らずじゃないわ』
───もしもサンタクロースさんがプレゼントをくださるとしたら、クロエさんは何が欲しいですか?
『あたし?何かしらね……急には思いつかないわ。あなたは欲しいもの、ある?』
───僕は格好いいマフラーと手袋が欲しいです。道行く皆さんがつけているのを見て、僕も同じものが欲しいと思いまして。
『じゃあ、サンタクロースに会ったらお願いしないとね』
───ああ、会えるでしょうか?僕のお願いでも、サンタクロースさんは聞いてくださるでしょうか?
『楽しみに待ってみましょう。たとえ会えなくても、きっと素敵な夜になるわよ』
12月24日 PM23:35
───おや、クロエさんじゃありませんか。こんな時間にどうしたんですか?
『どこかの誰かさんが寂しがってるんじゃないかと思ったものだから。クリスマスイブくらい、誰かと夜通しおしゃべりするのも悪くないわよね』
───ええ、ええ!とても素敵な考えだと思います。嬉しいなあ、クロエさんがそばにいてくれるだけで、特別な夜がもっと特別になりますね。
『あら。お世辞だったら承知しないわよ』
───お世辞なわけがないじゃないですか。本心ですよ。クロエさんとお話しをしている時は特に、世界がきらきらして見えるんですから。僕はときどき、クロエさんのことを魔法使いなんじゃないかと思うことがありますよ。
『あたしが?魔法使い?』
───はい。だってこんなにも僕の心を温かくしてくださるんですから。きっと素敵な魔法使いに違いありません。
『大げさなんだから』
───大げさなんかじゃありませんとも。……おや?
『どうしたの?』
───鈴の音が聞こえませんか?
『え?』
───ずっと上の方……あの雲の向こうから、鈴の音が聞こえてくるんです。
『本当に?』
───ええ。耳をすませてみてください。
『………』
───………。
『…………』
───…………どうですか?
『……あたしには聞こえないわ。不思議ね。あたしは人間よりも耳がいいはずなのに、あなたに聞こえる音が聞こえないだなんて』
───僕もあの方も、人とは少しずれた世界の存在だからでしょうか。でもほら、今日は魔法の夜ですから。雲が晴れれば、クロエさんの目にもあの方の姿がきっと見えますよ。
『そうだといいわね』
───あっ、雲が晴れますよ!……見てくださいクロエさん!サンタクロースさんです!クロエさんの仰った通り、トナカイの曳くソリに乗って赤い服を着ているんですね!
『………驚いたわ。本当にいるなんて』
───おーい!おーい!サンタクロースさん、こんばんは!素敵な夜ですね!
『こんなに遠くちゃ聞こえないわ』
───わかりませんよ。だって彼からは魔法の音が聞こえてきますから。きっと、この世界で暮らす人々のいろんな願いを聞くための、特別な耳を持っていると思うんです。
『本当に?それなら、あなたのお願いも聞いてくれるかもしれないわね』
───そうでしょうか?僕のような春を見られない者でも、人ではない者でも、望みを口にしてもいいのでしょうか?
『当然よ。だって今日は魔法の夜、なんでしょう?素敵な魔法は、誰のもとに訪れてもいいはずよ』
───ええ、ええ、そうですね!おうい、サンタクロースさん!こんばんは!格好いいマフラーと手袋が欲しいです!あっ、クロエさんは?
『え、あたし?あたしは別に、』
───はやく、はやくしないと行ってしまいます!
『そ、そうね、なら新しいリボンかしら』
───わかりました。……クロエさんは新しいリボンが欲しいそうです!素敵なものにしてください!彼女にとびきり似合う、素敵なリボンをください!
『……見えなくなったわね』
───ふう。これでばっちりですね。
『ちゃんと聞いてくれたかしら』
───大丈夫ですよ。僕たちのお願いは、きっとサンタクロースさんに届いたでしょう。……あっ。
『どうしたの?』
───せっかくなら、「冬が終わっても融けない身体にしてほしい」とお願いすればよかったかな、と思いまして……。
『きっとそういう、無茶なお願いはさすがに叶えられないわよ。あんまり困らせたらかわいそうだわ』
───それもそうですね。特別な魔法は、本当にそれを必要としている誰かのために使ってもらうことにしましょう。
「あれ?クロエ、珍しいリボンつけてる。ママかパパが買ってくれたのかな?可愛いね!」
「んにゃん」
朝起きると、彼女の首には素敵なリボンが巻かれていたのでした。
クロエの好みにぴったりの、手触りがよくてうるさい音のしない、きれいな深紅のリボンです。
猫はちょっと自慢げに尻尾を揺らしています。女の子のお母さんもお父さんもリボンのことは知らないのですが、言葉にしても伝わらないので、ただ『似合うでしょう?』と鳴いておくだけにしました。
「あ、そうだ!あたしもクロエにクリスマスプレゼント、用意してるんだ!はいこれ、新しいおもちゃ!今から遊ぶ?……あれ、外に行きたいの?」
「にゃ」
「そっか。お友達にそのリボンを見せに行くんだね。気をつけてね」
12月25日 AM9:42
───あ、クロエさんだ!おはようございます!新しいリボン、とっても似合ってらっしゃいますね!
『おはよう。あなたのその深緑色のマフラーと手袋も、とっても素敵だわ』
───本当ですか?嬉しいなあ。それにしても、サンタクロースさんとはすごい方ですね。僕、「マフラーと手袋が欲しい」とは言いましたけど、色や形については口にしていなかったはずです。それなのにこんなに素晴らしいものをくださるんですから、サンタクロースさんは不思議ですね。
『空を飛べるんだから、少なくとも普通のおじいさんではないわよね』
───僕、何かお礼ができたらいいんですけど……。
『そういうのじゃないのよ、サンタクロースって。きっとね。あたしたちの生き方をずっと見ていて、誰かに優しくできたかとかいじわるなことをしないとか、贈り物をするのにふさわしいかどうかを見極めてるの。
だからあたしたちは、その贈り物を喜んで受け取ればいいってわけ』
───いいのでしょうか?もらってばかりで、返すことができなくても。
『きっと返せてるわよ。ありがとうとか嬉しいとか、そういう気持ちがきっと届いているでしょうから。だからもしも何かを返したいと思うなら、心の底から喜んであげることね』
───そうですね。クロエさんを信じます。ああ、嬉しいなあ!サンタクロースさんとは、ひょっとして神さまからの御使いなのではないでしょうか。
でなければ、世界中の人々に……いえ、人ではない僕たちにまで、こうして贈り物をくれるはずがないと思うんです。
『そうかもしれないわね。きっと不思議な目で、あたしたちのことを見ているんでしょう。……どうしたの?そんな顔をして』
───僕が人間だったらと、思いまして。そうすれば……。
『まあ、そうすれば春になっても融けずに済むし、あたしのふわふわを堪能させてあげられたかもしれないわね。……でもいいこと?
もしあなたが人間だったら、あたしとあなたはこんなふうにお喋りできてないわ』
───えっ。
『あたしたちの言葉は人間には通じないの。なんとなくの感情は伝えられるけど、それだけよ。何気ない挨拶のひとつも満足にできやしないんだから』
───そうなんですか……。
『だから、あなたはあなたのままでいいんじゃないかしら。……いいえ、あなたがあなただからいいのよ。一緒にいられる時間は短くても、あたしとあなたはこんなにお互いのことを知ってる。それにね……』
───それに?
『だれかを置いていくのって好きじゃないの、あたし』
12月30日 AM10:08
───クロエさんクロエさん、
『何かしら』
───今日は一段とあたりが賑やかな気がするんです。もしかして、今日もクリスマスですか?
『あら、クリスマスは一年に一回よ。今日は……そうね、きっと一年の終わりの日の前日だから、みんなはしゃいでいるのね。いろいろと準備も必要みたいだし』
───終わる、ということはまた何かが始まるのですか?
『新しい一年が始まるのよ。人間はそういう……節目っていうのかしら?新しい何かの始まりをみんなでお祝いするのが好きな生き物だから』
───クロエさんはどうなのですか?
『あたし?あたしは別にいつもどおり軽く運動して毛づくろいして、あなたとお喋りするくらいよ。一年の終わりとか始まりとか、あたしにはそこまで関係のないものだから。人間は妙なことを考えるわね』
───僕たちに必要なのは季節や時間くらいですからね。ねえクロエさん、一年の終わりには何が起こるのですか?爆発とか?
『ないわよ。死んじゃうじゃない。花火が上がるとか、その程度よ。また一年、みんなで頑張ろうっていう気持ちを込めてね』
───へえ、それは楽しそうですね!僕もその花火というものを近くで見られたりするでしょうか?
『どうかしら。打ち上げ花火はこのあたりじゃあ少し狭すぎるかもしれないわね。遠くに上がっているものならここからでも見られると思うわ。……くれぐれも、「触ってみたい」なんて思わないことね。花火だって立派な火なんだから』
───近づけば、融けてしまいますか?
『融けるわね』
───わかりました。そばに行くのは諦めます。
『どうしたの?随分と聞き分けがいいじゃない』
───だって、春はまだ先なのに融けてしまうなんてあんまりじゃないですか。まだまだクロエさんとお話したいことがたくさんあるので、花火がどんなに素敵なものでも我慢します。すぐそばへ行かなくたって、クロエさんと見ているだけでそれは美しいものに見えるでしょうから。
『そうね、きっとあなたとならなんだって素敵に見えるわ』
12月31日 PM12:45
───新しい年がやってくる、という感覚は僕には馴染みのないものですが……それでもやっぱり、みんながわくわくしているのを見ていると、僕まで楽しい気分になってきますね。
『そう?』
───クロエさんは楽しくないですか?
『浮かれた人間たちにもみくちゃにされるのは苦手だわ』
───あはは、クロエさんらしいですね。でも確かに、あの人だかりの中に入ったら最後、身体がばらばらになってしまいそうです……。
『向こうにいる人間たちがこちらに来ないことを祈るばかりね。もしもそうなったら、あたしが彼らを追い払ってあげるわ』
───頼もしいことこの上ないですが、さすがに恥ずかしいですよ……。
『今さら何言ってるの。こういう時は、年上に甘えるものよ』
───そうか、クロエさんはもう四歳なんでした。生まれてまだ一か月も経っていない僕なんて、まだまだ半人前ですね。クロエさんは何でもできてすごいなあ。
『あら、あたしにもできないことのひとつやふたつあるわ。その中には、あたしにはできなくてあなたならできることもある。誰だってそうよ。ひとつくらいは、誰にも負けないものを持ってるの。でもみんなそのことに気がつかないで、他人を羨ましく思ってしまうものなのね』
───僕にできることとは、いったいなんでしょうか?
『それはあなたが自分で見つけないと』
───そうですね。僕にできること……この冬の間に見つけられればいいのですが……。
『ま、あんまり気負わなくていいんじゃないかしら。そういうのはほどほどにね。……あら、カウントダウンが始まったわ』
───本当だ。ああ、なんだか僕、とてもどきどきしてきました。皆さん、こんな気持ちなんでしょうか。……三、二、一……わあ!
『今年も派手だこと』
───すごい!すごいですよクロエさん!花火ってあんなにきれいなものなんですね!
『そうね。』
───クロエさん。
『何かしら?』
───これからも、どうぞよろしくお願いしますね。
『こちらこそ、ずうっとあたしのお友達でいて頂戴ね』
それは明るく、盛大に。
寝ぼけ眼の月すら驚いて目を覚ますような光と音の花々は、夜空を鮮やかに彩って弾けます。
咲いた花は瞬く間に散ってしまうけれど。
それでも、この光景をいつまでも憶えていたいと思うふたりなのでした。
1月16日 PM2:31
『……でね、その子、よりによってあたしにこう訊いてきたのよ。「わたしの王子様しりませんか?」って』
───王子様、ですか?
『なんでも、自分の家にいる子がそういう本を読んでいたんですって。お姫様と王子様が結ばれる話。だからほら、向かいの家のオウムを紹介してあげたのよ』
───ああ、真っ白な彼ですね。お喋りがとても上手な。
『そう、その彼。そしたらその子、なんて言ったと思う?「王子様はね、お日様の色の髪に空の色の目をしてないといけないんです。あのオウムは真っ白なので、王子様じゃありません」って。呆れちゃうわ』
───真っ白は駄目でしたか……。
『あの子がお子ちゃまだったって話よ。お日様の色だろうと真っ白だろうと、王子様は意外とすぐそばにいるものなんだから』
───えっ、どこですか!?
『……まったく、こういうところはいつまで経っても鈍いのよね』
2月14日 AM11:24
『あげるわ』
───花、ですか?
『ええ。今日は特別な日なんだって、うちのお転婆さんが言っていたから』
───特別な日?
『なんでも、普段お世話になっている誰かに贈り物をする日なんですって。お花とかお菓子とかをね。だから、これをあなたにあげるわ』
───いいのですか?
『もちろん。でも困ったわ、どこにつけようかしら?頭に挿すのはちょっとね……』
───ではここの、マフラーの隙間はどうでしょう?
『ああ、それならいいわ。ちょっと上らせてもらうわね。………どうかしら?』
───ええ、とてもいいですね!まるでブローチのようです。素敵な贈り物をありがとうございます、クロエさん。
『どういたしまして。そんなに喜んでくれるなら、探してきた甲斐があったわ』
───では僕も、クロエさんに何か贈り物をしなければ。……そうだ、歌なんていかがでしょう?
『あなた、歌えたの?』
───鳥に少しだけ教わりまして。「聴かせたい方がいる」と言ったら、それはもう熱心に指導してくださったのです。ええ、実に厳しい鍛錬の日々でしたとも。
『いつの間に……』
───贈り物は知られないように準備するのがマナー、でしょう?
『まったく、気障なんだから』
───クロエさんのために練習したのです。聴いていただけますか?
『もちろんよ。あなたの歌、聴かせてちょうだい』
歌が聞こえました。
飛び抜けて上手いわけでもなく、人間には聞こえない歌だったけれど。
それでも、ただひとりのために捧げられた歌はどこまでも優しく響き渡ります。
傍らにはいつものように彼女の姿。
ふわふわの尻尾は、彼女の心を表してぴんと立っているのでした。
2月25日 AM9:15
『縮んだ?』
───やっぱり、クロエさんもそう思いますか?どうも以前より視線が低くなった気がしていたんです。少し恥ずかしいですね……。
『あらそう?あたしは前よりもあなたの顔が近くなったようで嬉しいけど』
───それもそうですね。僕も、前よりクロエさんの声がよく聞こえるようになった気がします。ああ、そう思うと、暖かくなるのも悪くないですね。ところで、僕の帽子傾いてません?
『気にするもんですか。そういう被り方だってお洒落でいいと思うわ』
───なるほど、そういうものですか。お洒落とは奥が深いですね。
『背が縮んでも帽子が傾いても、あなたはあなた。これっぽっちも損なわれたりしないわ。だから自信を持ちなさいな』
───不思議ですね。クロエさんにそう言われると、理由なんてなくても自信が湧いてきます。
『だって本当のことだもの。あなたはあなた、どんなに姿かたちが変わっても、あなたが私のお友達だってことは変わらないわ』
───ええ、ええ、どんなに姿かたちが変わっても、きっと僕はクロエさんのお友達ですとも。ああそうだクロエさん。僕、ようやくわかったんです。
『何が?』
───僕にできることは何か、ということが。
『聞かせてくれる?』
───僕にできること。それは……あなたのお友達になることです。
『あら』
───この冬だけという期限つきではありますが。それでも僕はあなたと言葉を交わすことができて、こんなふうに同じ景色を見ることもできる。クロエさんはクロエさんのお友達にはなれません。でも、僕なら。僕なら、クロエさんのお友達になることができるんです!
『………』
───……あの、クロエさん?どうされました?僕、何かおかしなことを言ったでしょうか?
『いえ、いいえ、違うの。確かにそうね。あたしはあたしのお友達にはなれないけど、あなたならあたしのお友達になれるわ』
クロエは思い出しました。
昔、まだ友達の少なかった彼女に「僕があなたのお友達になります」と言ってくれた彼は、いま目の前にいる彼とよく似ていたことを。
新しい冬がやって来るたび、よく似た姿をした彼らはクロエの大切な友達になってくれるのです。
彼らは皆、クロエに素敵な冬を贈ってくれました。
彼らがいてくれたから、冬がいちばん好きな季節になりました。
けれど。
彼らと過ごす時間が楽しければ楽しいほど、寂しい気持ちが少しずつ降り積もっていくことだけは、いつまで経っても慣れることはないのです。
お別れの日が、すぐそこまで迫っていました。
3月2日 PM10:48
───あなたと過ごせるのは、この夜が最後になりそうです。
『そろそろお別れってわけね』
───ええ。大変名残惜しいのですが、明日の朝、太陽があの木の上を通り過ぎる頃に出発するでしょう。
『そう。随分はやい出発だこと。道中気をつけてね。……また、会いに来てくれるんでしょう?』
───もちろんです。春が来て夏になり、秋が終われば冬はすぐそこです。冬になったら、一番はやい雪雲に乗ってまたあなたに会いに行きますよ。そうしたらまた、一緒に冬を過ごしましょうね。
次の冬も、そのまた次の冬もきっとここに降り積もって、あなたとお喋りをするんです。……ああ、楽しみだなあ!
『その言葉、忘れないでね。約束よ?』
───ええ、約束です。こう見えて僕、一度も約束を破ったことがないんですよ。……まあ、生まれてからそんなに日が経っていないだけなんですけどね……。
『知っているわ、あなたがとっても義理堅いってこと。ええ、ずうっと前から知ってるんだから』
───どうか次の僕のことも、よろしくお願いしますね。
『任せてちょうだい。それじゃあ、そろそろ寝るわね。あなたも出発前にひと眠りしておくといいわ。明日は大忙しでしょうから』
───そうですね、そうします。……おやすみなさい、柔らかくて温かい、僕の大切なお友達。
『ええ、おやすみなさい、冷たくて温かい、あたしの大事なお友達』
「お父さん見て!雪がほとんど融けちゃってるよ!」
屋根から滴るしずくの音は雨のよう。あれだけあたりに積もっていたクリームを思わせる雪は、青々とした草に居場所を奪われつつありました。
「ああ本当だ。今年はいつもより長く残った方だけれど、だんだん温かくなってきていたからね」
「雪だるまも融けちゃった。クロエ、あんなに気に入ってたのに」
「また来年も作ればいいさ。うんと大きな雪だるまにしよう。……あれ、そういえばクロエは?」
「にゃ」
お行儀よく返事をしながら、猫用のドアを押し開けてクロエが姿を現しました。どうやら外に出ていたようです。
女の子はよいしょ、と猫を抱き上げました。ふわふわの被毛からは澄んだ冷たい空気のにおいがします。
そして名残惜しそうに窓の外に目をやって言いました。
「また雪だるま、作ってあげるからね。春に負けないくらい大きいの、作っちゃうんだから」
「んにゃ」
短い鳴き声からは『期待してるわ』と言いたげな響きがしました。クロエはとても賢い猫なので、ときどき人間の言葉がわかるのではないかと思うのです。
「ごはんにしようか、クロエ。おなかすいたでしょ?」
そう言って踵を返そうとしたその時。
窓の外をひときわ強い風が吹き過ぎていきました。
街路樹を揺らしあらゆる生き物を目覚めさせるそれは、何かきらきらしたものをその手に掬い上げると高く、遠くへと運んでゆきます。
真っ青な風に乗って、冬の最後のひとかけらが旅立っていったのでした。
そうしてどこか誇らしげな顔で、生まれたばかりの春がやってくるのです。
猫は飼い主の腕のなかで喉を鳴らし、外を見つめてゆっくりと瞬きをしました。
さよならはいつまで経っても慣れません。
春に咲く花の香りも夏の水浴びの楽しさも、秋の落ち葉の音の面白さも。
話すことはできます。けれど、分かち合うことはできないのです。
悲しく思うこともありました。冬しかいられない彼に苛立つこともありました。
それでも、今の彼女は知っています。
季節はまた巡ること。律儀な彼は、ちゃんとクロエのもとへやって来てくれることを。
だから彼女は信じて待つのです。
春が来て夏になり、長い秋が終われば待ち望んだ季節はすぐそこに。
『冬が来たら、また会いましょう』
───また、次の冬に───。