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「……!」
押しとどめる力が加えられ、エリシア王女は、そのまま椅子に縫い留められた。
(……まさか……)
いや、疑問を覚えるこそ愚かしい。
間違いない。
「姿なき誰か」。
イブリールへの急行の折、ずっと助けてくれた、見えざる意志だ。
(……あ、……一体……?)
抵抗しようなどと、どうして思えるだろう?
エリシア王女は、細い息を吐き出して、身体の力を抜いた。
すると、しっかりと抱き締められる。
こうした意味での人の温もりを、ほぼ知らない身だ。
けれど、わかる。
今、彼女は確かに、力強い腕に囲い込まれ、その動きを封じられていた。
暴力でなく、紛れもない慈しみによって。
奇妙な覚悟が、胸に満ちる。
エリシア王女は、瞼を閉ざした。
全てを、委ねる。
瞬時の判断だ。
すると、全身に不思議な波が取り巻いた。
姿勢はおろか、着衣の乱れもないが、けれど……これは、肉の交わりに付随する、悦を呼び覚ます感触、なのではないだろうか?
いかんせん、不明瞭な身なので定かでないが、それ以外、考えられない。
「……あ、は……っ……」
身体の奥底から、込みあがるものがある。
徐々に……徐々に……全身を取り巻き、熱もまた高くなった。
「……ふっ……、あ、……はぁっ……」
制御できない声が漏れる。
少しずつ、少しずつ、心と身体が、見えないきざはしを上って行くのを感じる。
「……ああっ……」
座したままの身が、激しく痙攣した。
そして、緩やかに脱力すると、たまらない脱力感に見舞われる。
「……はぁ……、は……あ……」
浅い呼吸を繰り返す顎を、堅い感触が掬い上げた。
見えない動きが促した視界の先にあるのは、崩れ落ちた兄の姿だ。
彼の全身が、淡い光を放っている。
(……これは、……いった、い……?)
意識のないままのイルファールス王は、先ほどのエリシア王女と同じく、切なげな息を漏らして、小刻みに身を震わしていた。
そして、頂点に達した動きで、そのまま弛緩する。
「……あ……」
イルファールス王を取り巻く光が、浮き上がった。
そして、彼の胸元に渦を巻いて集まると、小さな粒へと収縮する。
爪先の半分程度の大きさになるや否や、それはエリシア王女に目掛けて動き出した。
(……ま、さか……)
彼女の腹部に到来すると、吸い込まれるようにして消える。
(これは……これ、は……)
疑問が形になるより先に、拘束が失われた。
温もりが突如去り、エリシア王女はすくみ上る。
たまらず自らの腹部に手を当てれば、凄まじい存在感を覚えた。
子だ。
子を、宿したのだ。
どうしてそのような理解がかなうのか、定かでない。
けれど、間違いなく、エリシア王女は懐妊している。
(……これが……神の、奇跡……)
たまらず、面を上げて、天を仰いだ。
その瞼から、滂沱の涙が滴り落ちる。
罪を犯す覚悟をしていた。
実の兄を犯し、その子を宿し……偽りの嫡子を、世に送り出す謀を企んだ。
神の教えに逆らいかねないとわかっていて。
なのに、その神は、こうして自分を……自分たち兄妹を救ってくれたのだ。
「……神、よ……」
瞳を閉ざしたまま、エリシア王女は遥かな存在に呼びかけた。
「……わたくしは……この生涯を賭して……レガーリアを守ります……」
強く誓う。
「……これよりは、女の身を偽り、男として……レガーリアに全てを捧げます」
そこで、ようやく理解した。
エリシア王女は強く目を見開く。
「レガーリアを、伴侶として!」
もう、迷いはなかった。
そうだったのだ。
(わたくしは、レガーリアの申し子!)
ようやくの確信である。
レガーリアのために生まれ、レガーリアを伴侶とし、生涯を捧げるのが、自らの運命なのだ。
自分の生まれた意味を、真実理解したエリシア王女だった。
「姿なき誰か」。
エリシア王女の伴侶、レガーリアもまた、祝福してくれるはずだ。
彼女は、強い覚悟を抱いて、一歩を踏み出した。