クリケット嬢と柱
「アリスは今からどうするの?」
「大講堂で自習でもしようかと」
「僕も一緒にいこう」
貴方はそんな必要はないのでは?という台詞は心中に留めておく。余計なことを喋ればまたどんな辱めを受けるか分かったものではないのだから。
大体、ここは紳士淑女を育てる神聖な場とされているはず。手本となるべき国の王子が、幾ら婚約者といえど人前でべたべたとして、評判に関わらないのだろうかと心配になる。
まぁこの学園の実際の内情は、金を積めば積むだけ待遇が良くなるという傲慢貴族の温床だけれど。
ちなみに心配というのは、あくまで一般的なそれだ。決して個人的に彼を案じている訳ではない。そう、断じて違う。
すすす…と距離を取ればすぐさまくっつかれ、またすすす…と離れというなんとも滑稽な流れを繰り返していると、不意に名前を呼ばれた。
「呼び止めてしまい申し訳ございません。クアトラ様」
鈴の鳴るような可憐な声でそう口にするのは、クリケット子爵家の令嬢リリナンテ・クリケット。あのアイザック・オーウェンの想い人その人。
正直に言うと今までしっかり顔を見て話したことはなかった。暗めの髪と瞳の色。控えめで大人しそうな、可愛らしい雰囲気の令嬢だ。
公爵令嬢に自ら声をかけるタイプには見えないが、話の内容は十中八九あれだろう。
「あの…彼から聞きました。私達のことでクアトラ様に大変なご迷惑をおかけしたと」
「そうね。間違ってはいないわ」
「私からもお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした」
他の大多数の生徒達と同じように、彼女も私を前にして小刻みに震えている。けれど小さな両手を胸の前でぎゅっと握り、その瞳はまっすぐに私を捉えていた。
「クアトラ様のおかげで、私達その…ええと…」
薄くそばかすの散った頬は薔薇色で、震えの理由ははどうやら緊張と恐怖だけではないようだ。
私は腕を組み、あくまで尊大な態度を崩さない。こうでもしていないと、心の声が顔に出てしまいそうだ。
ーー成功したのね!なんてことなの!
「私はただ、退屈凌ぎにちょっかいをかけただけよ。礼を言われる謂れはないわ」
「は、はい…申し訳ございません…」
明らかにしゅんと項垂れる彼女を見て、私の中の何かがうっと刺激された。
「だけど貴女、これからが大変よ。貴族令嬢は自分で婚約者を決めることはできないのだから」
「は、はい。理解しております」
「だけど一人で背負う必要はないのだから、良かったわね」
ちらりと柱の陰に視線をやる。私に気付かれたことに気が付いたオーウェンさんは、こちらに向かってびしりと勢いよく敬礼をしてみせた。
敬礼の意味が分からないけれど、触れずにおきましょう。
これはきっと、クリケット嬢の配慮だろう。特定の男性と教室以外で何度も顔を合わせ会話をすることは、婚約者を持つ私にとっていい方向に働かない。
だからあそこで、彼はひょろりと立ち彼女を見守っているという訳だ。なるほどクリケット嬢は、見た目よりもずっとしっかりした女性なのかもしれない。
「話が終わったのなら、失礼するわ」
「あっ、はい。ストラティス殿下、クアトラ様。貴重なお時間を割いて頂き本当にありがとうございました。彼もくれぐれも感謝の気持ちを、と何度も口にしていました!」
「そう」
ひらりとスカートを翻し、私は彼女と柱に背を向ける。幾らか歩いたところで、ユリアン様がそっと私に耳打ちしてきた。
「喜んでるアリスも可愛い」
「秩序!学園の秩序を!保ってくださいませ!」
顔を真っ赤にさせて反論したところで、彼には少しのダメージも与えられなかった。