丸眼鏡の小さな先輩
人気のない場所まで来ると、私はパッと彼の腕を離す。
「断りもなく触れてしまってごめんなさいね」
「え…あ、あの」
相変わらず、小柄な男子生徒は震えている。かけている丸眼鏡は片方ヒビが入り、髪の毛は芝生にまみれていた。制服の泥だらけ具合は言わずもがな。
「もう行ってらして?今後あの方達に何かされそうになったら、言ってやりなさい。自分はアリスティーノ様専用のおもちゃだと言われた、と」
男子生徒は動かず、ヒビの入った眼鏡でじいっと私を見つめる。
もう、震えてはいないみたい。
「も、もしかして僕を助けてくださったのですか…?」
それでもやはり怖いのか、言い方がびくびくしていて聞き取りづらい。
「ちゃんと聞いていらした?貴方は私専用のおもちゃになったのよ」
「だ、だけどもう行っていいって…」
「えぇ、確かに言ったわ。今はそんな気分じゃないの」
わざとつんとしてみせたのに、この男子生徒は意外と頑固らしい。何故か中々この場を去ろうとしない。
「あ、あのクアトラ公爵令嬢。本当にありがとうございました」
「何故お礼を言うの、変な人ね」
「あのままだと、これを捨てられていただろうから」
彼がずっと大事に胸に抱いている、一冊の古びた本。うずくまって蹴られ放題だったのは、その本をまもっていたのだろう。
「それは、何の本なの?」
「古い薬学書です。とても貴重なもので、図書室の司書の方に何度も何度も頼み込んでやっと貸し出してもらえたんです」
「ふぅん」
自分から尋ねておいてなんだけど、あまり興味がない。
自分の身より眼鏡より大切なのだから、捨てられなくてなによりだ。
「あ、あの僕、ウォルと言います。ターナトラー子爵家の次男で、今四年生です」
「まぁ、とても歳上じゃない」
「気にしないでください。年相応に見られたことなどないので」
ウォルと名乗った男子生徒は、にへらと笑いながら眼鏡のツルを人差し指で持ち上げた。
「貴方って変わってるのね。自分の体よりそんな古びた本が大切なんて」
「あはは、よく言われます。本にばかりかじりついて、人生何が面白いんだって」
ターナトラーさんの表情はにこやかだけど、本を持っている指が白くなっている。力が入っている証拠だ。
私また、考えなしな発言をしてしまったかしら。
「何かを成し遂げる人ってそうよね。他人には理解されないものだわ」
「ク、クアトラ公爵令嬢…」
途端にターナトラーさんの顔が輝きはじめる。心なしか、彼の眼鏡は曇っていた。
「じゃあ、私行くわ。さようなら」
「あっ、はい!さようなら!」
彼が中々去っていかないので、私が立ち去ることにした。おもちゃ呼ばわりされたにも関わらず、ターナトラーさんはぶんぶんと音がしそうなほど何度も頭を下げていた。
彼の髪についていた芝が、その反動ではらはらと舞っていた。
私は彼を助けたつもりも、彼を苛めていた男子生徒達を責めるつもりもない。だって私は、もっと酷いことも平気でやっていたから。
それをなかったことにして、正義の皮を被って善人面をしたところで、結局本質は変えられない。だけど、見て見ぬ振りもできなかったのだ。
「もっと早く、間に入ってあげればよかったな…」
その小さな呟きは、ざぁっと吹いた春の風によってどこかへ飛ばされてしまった。




