アリスティーノ、八歳になる
「リリ見て!このハンカチ、とても上手に刺繍できたでしょう?」
私はドレスの裾をひらりと翻しながら、リリの腰元にどんっと飛びつく。彼女は少しよろめいたものの、しっかりと私を抱きとめた。
「見て、ほらこの花!」
「まぁお嬢様、とても素敵です。前より随分お上手になりましたね」
温かい笑みを見せるリリを見て、私は得意げに胸を張る。
「ローラに教わったの。彼女とっても手先が器用なのよ。それに教え方も上手いのよ。歳の離れた妹が三人もいるんですって」
ローラとはウチに勤めるハウスメイドの一人で、いつだったか私は彼女にぶつかり洗濯物をばら撒いたことがある。
あの時はまだ十六歳のアリスティーノが強くて腹が立って仕方なかったけれど、今は違う。
あの一件で彼女の顔を覚えた私は、見かければ話しかけるようになった。そしていつのまにか私は、すっかりローラに懐いてしまったというわけだ。
あの私が使用人の顔を覚え、ましてや名前を呼び懐くなんて以前ならありえないことだけど。地位のない可哀想な存在だと見下していた彼女達は皆優しくて、私にはない知識を持っているから話していておもしろい。
人生逆行から、もう三年が経つ。八歳になった私は益々可愛さに磨きがかかり、そこに日々美しさもプラスされているのだから、見た目に関していえば無敵だ。
肝心の性格の方は、まだまだ良いとは言えないけれど。だって、やっぱり環境が環境なんだもの。
軽く指を鳴らして一言口にすれば、ほとんど全ての願いが叶う環境。加えてクアトラ家は代々王家に仕える由緒ある公爵家。お父様は処世術に長けているからあからさまに態度には出さないけれど、典型的な貴族至上主義が根底にある。
だからクアトラ家の子供達は自然と、その習わし通りに自分達こそが至高であるって考えの元すくすくと育っていくわけなのよね。
別にそれが、悪いことだとは思ってない。
私の場合は、やり過ぎだったっていうだけだもの。
「これ、リリにプレゼントするわ」
「とても嬉しいですわ、お嬢様。ですがこれは、せっかくなら殿下に差し上げてはいかがですか?」
「…げぇ」
その名前が出た途端に潰れたカエルみたいな声を上げた私を見て、リリがぱちくりと瞬きをする。
私は唇を尖らせて、ぼそぼそとぼやいた。
「私苦手なのよ、ユリアン様」
「いつもそう仰るけれど、殿下はお嬢様にお優しいではないですか」
「優しいの?あれが?リリやローラ達の方がよっぽど優しいわ」
琥珀色の髪を指で弄りながら言う私を見て、リリがふわりと目を細めた。
「お嬢様、覚えていらっしゃいますか?五歳になったばかりのお嬢様はいつも、怖い怖いと泣いていらしたこと」
「もちろん覚えているわ。今だってたまに、貴女に泣きついているじゃない」
自身がコントロールできなくなった時、私の精神安定剤はリリだった。真夜中だろうが仕事中だろうが、彼女はいつも私を優先してくれた。
「お嬢様は、とってもまっすぐに育ってらっしゃいます。リリはお嬢様に頼られることが、嬉しくてたまらないのですよ」
「リリ…」
「そんなお嬢様だからこそ、私達は心から忠誠を尽くしたいと思うのです。周囲を優しいと感じるならばそれは、お嬢様のしていることが返ってきているのです」
彼女の温かい言葉が十六歳の私の胸に刺さり、思わず泣いてしまいそうになる。八歳の私がそれをすると不自然だから、拳をギュッと握って涙を堪えた。
あら?そういえば私、いつまでも十六歳ではないのよね。もしも以前の私が生きていれば、十九歳になっているんだもの。だけど本来の人生は十六で幕を閉じたのだから、十九というのもおかしな話かしら。
なんだか頭がこんがらがってきたので、アリスティーノは八歳ということで結論付けることにした。
「それと同じように、殿下にもありのままのお嬢様で接すれば、きっと仲良くなれますよ」
「ありのままの、私」
以前はそれで死んでしまったのだけれど、まさかリリにそんなこと言えるはずもない。
「…そうね。私このハンカチ、ユリアン様にプレゼントするわ!」
「きっとお喜びになりますよ」
リリの温かい手が私の頭を撫でて、私は気持ち良さにギュッと目を閉じる。
プライドの塊だった私が殿方に自らハンカチを渡すなんて、以前だったらあり得なかった。
まぁいいわ。リリの言う通り、いつまでも苦手じゃどうしようもないものね。
そうと決まれば早速行動だと、私はハンカチを丁寧に畳んだ。