ねこの恩返し
いつも仕事帰りに車で通る広い山道で、道路の上に100匹のねこが車に轢かれて倒れていた。
1匹も踏まないよう気をつけながら、私はその中から1匹のねこを拾った。
白にオレンジの島のある子にピンときた。
私の顔を見て弱弱しく鳴いたのだ。私が降りた場所からすぐのところにうずくまっていたし、外傷が見当たらず、綺麗だった。
何より説明のつかない運命のようなものを感じたので、車に乗せて、連れて帰った。
ねこは助手席で横になったまま、動けないようだった。外傷はないようなのに、何かのショックでも受けたのだろうか。
私のほうを見ながら「シャアッ」と威嚇する声を上げ、それでも前脚一本動かさない。
「大丈夫だよ。あなたは私が助けるから」
私は安心させようと声をかけた。
「あんなにたくさんのねこ、どうしようもなかったけど、一匹だけなら助けてあげられるから」
ねこは諦めたようにそっぽを向くと、大人しくなってくれた。
アキラと別れたばかりだったので、私は慰めが欲しかったのかもしれない。
アパートの部屋に帰っても誰もいない。
助ける代償なんて求めたつもりはないが、介抱してあげる代わりに私の気持ちの慰みになってくれるなら、それが充分ねこの私に対する恩返しになると思っていた。
抱っこするとびよーんと伸びるのがねこだ。信じられないぐらい長く伸びる。
しかしその子は緊張しているのか、抱っこしても身を固くして、まるでダンゴムシのように丸くなろうとする。あるいはどこかやっぱり悪くて、体が長く伸びないのかもしれない。
頭を撫でてやると死んだふりをするように目を閉じた。
「ここが私の部屋だよ」
私はアキラのいなくなった部屋をねこに紹介した。
「本当はペット禁止なんだけど、あなた動けないし大人しいから、いいよね」
ねこは「うう」と小さな声で答えると、お腹が減っているように舌なめずりをした。
ケージなんてものはないから大きめの段ボール箱をハウスにした。
動けないので開けっ放しでも出ることはなさそうだが、念のため箱に数ヵ所空気穴を空け、私が見ていない時には蓋をしておくことに決める。
ねこに牛乳はよくないと聞いたことがあるので、水を小皿に汲んでやる。
ネットで調べると低体温になっていたらスポーツドリンクを与えるのもいいと書いてあった。
アキラの歯ブラシがまだそこにあったので、握りしめて人さし指で毛先を数回撫でてから、ゴミ袋にそっと捨てた。
冷蔵庫にちょうどササミ肉があった。そのままでも食べるだろうが、食べやすいように茹でて、細かく裂いて与えることにする。
段ボールの蓋を開けるとまた威嚇された。
怖い顔を蛍光灯の光が照らし出し、緑色の瞳に大きく開いた瞳孔が怯えたように光る。
「怖くないよ〜、私も、あんたもね」
微笑みかけて、頭を撫でてやると、不本意そうに大人しくなる。
口元に水を指から垂らしてやると、虐待を受けているように震え、顔をしかめた。
ササミ肉を口に入れようとすると、私の手を噛もうとするようなことはなかったが、固く口を閉じられた。
まるで殺されるのを覚悟したような顔をしている。
「じゃ、ここに置いとくから。食べたくなったら食べてね」
私は裸だったので、名前がなかった。
アキラと別れたことは、人間社会と切断されたような心地だった。
私は服を着ないただの猿で、誰とも言葉を交わさない生活を送っていた。
アキラがいれば、何処へだって行けたのに。
人がたくさん集まる賑やかな場所へ行き、色んな服を着て、みんなに名前を覚えてもらって、これが人間の幸せかと知るように、私はその中で笑っていた。
今、私はただ職場とこの部屋を車で往復するだけ。
誰とも会話を交わさない。
誰に見せるための服も着ない。
次の日、猫を動物病院に連れて行かなかった。明らかに昨日よりも元気になっていたので。
田舎町もところにより便利になったと聞くが、私の住む場所は時代に取り残されたように不便だ。一番近い動物病院まで車で1時間かかる。
ねこが出られないように乗せていた重い雑誌の束を退けて、段ボール箱を開く。
入れておいた水が減っていた。ササミも少しは食べてくれている。
まだ『シャアー』と威嚇はするが、頭を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。
私も嬉しくなって、抱き上げる。膝に乗せて、まだぐったりの取れないねこを、ぬいぐるみのように膝に抱き、そのぬくもりを感じる。
拾った時はてっきり雌だと思っていた。
ねこの二つ玉は緊張すると縮み上がるのだろうか。
今は立派なポンポンのような白い男の子のしるしがそこに並んでいる。
私がそれをチョンチョンと指先で突っつくと、ねこが軽く身をよじった。
私は思わず笑顔になって、しつこくしつこくそれを弄んだ。
『ニャジラ』と名前をつけた。
どこかで聞いたことがあるような気もしたが、それが空から降って来たように頭に浮かんだので。
シャーシャーと怪獣みたいに威嚇する顔が印象にあったのかもしれない。もう、威嚇されることはなくなった。
「ねえ、ニャジラ」
あたしは彼を抱きしめて、語りかける。
「ここは私たち、二人の部屋だよ」
ニャジラはお腹を上に向けられたまま、しっぽをゆっくりと左右に動かした。
夢にアキラが出て来た。
あの頃みたいに微笑んでくれていた。
ここは二人の部屋だった。
私の部屋のほうが住みよいので、アキラのアパートの部屋は引き払おうと、このベッドの上で話し合ったのだった。
二人はまるで一つのものだった。
考えていることは違っても、いつも同じ景色を見ていた。
彼と見る景色はたとえ幽霊の出そうな廃墟でも、小さな妖精が体を煌めかせながら、割れた窓ガラスの下から踊り出して来そうにキラキラとして見えた。
「縛られるのは嫌だ」
そんなありふれた言葉が彼の口から出るなんて思わなかった。
「俺しか知らないお前に男の何がわかる」
浮気をしろっていうこと? それは……
「俺をお前と一緒にするな! 俺たちは別々の人間なんだ! もう、たくさんだ!」
意味がわからない。意味がわからないよ。
私たちは運命の赤い糸で結ばれていたのではなかったの?
涙で目を覚ますと、段ボール箱が静かにベッド脇にあった。
中には何もいないように、物音の一つもしない。
静かすぎる部屋で、ねこが物音を立てるのを待ちながら、いつの間にか心も落ち着いて、悲しい夢を見ない眠りの中に落ちて行った。
ニャジラは日に日に元気を取り戻した。
重たい雑誌の束を退け、段ボール箱を開けると、足を綺麗に体の下に畳み込んで座っている。後頭部に元気を感じる。ササミは綺麗に食べきり、水も底にうっすらと残っているだけだ。
「ぼちぼちお別れかな」
私はニャジラの背中に話しかけた。
「本当はここで一緒に暮らしたいけど、大家さんに見つかったら大変なの」
私はニャジラを助手席に乗せた。
彼を拾ったところに帰すため、車を発進させた。
助手席でニャジラは大人しかった。
手足も尻尾も全部お腹の下に入れて、じっとしていた。
もう充分元気なはずなのに、顔を上げて見せてくれない。
手を伸ばして顎の下を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らした。
あの時道路で轢かれていた100匹のねこ達はどこにもいなくなっていた。
道路管理の人が片付けたのだろうか、それともあれは私が見た幻だったのだろうか。
天気がよくて、アスファルトに黄色と赤の秋色が落ちていた。
「さ、お別れだよ」
そう言いながら、私はそっと、抱いていたニャジラを路肩の砂の上に下ろした。
「名残惜しいね。また会えるかな」
ニャジラは砂の上に足をつけると、私のほうを初めて振り向いた。
その顔は恐怖に竦んでいた。私を一瞥するなり前を向き、急いで逃げ出した。
材木を置く小屋の後ろへ駆け込むと、あっという間に山の斜面を滑るように駆け上がり、見えなくなった。
「ニャジラ!」
私が叫ぶとその名前は彼の後ろ姿から剥がれ落ちて、私の足下にぺたりと置き去りになった。
私はそれを見て初めて、その名前がアキラに似ていたと知った。
可笑しくなった。
なぜ、私は、アキラに未練など、いつまでも残していたのだろう。
彼は道路で轢かれている100匹のねこのうちの、たったの一匹だった。
私はたまたまそこを通りかかり、助けたかったから助けただけだった。
私のねこなどでは、なかったのだ。
彼はそれを教えてくれた。
ほんの一時の感傷はすぐに私の中から去り、もうとっくに姿の見えない、名前のないただのねこの背中に、私は言った。
「ありがとう」
砂とアスファルトの間にある線を跨いだ時、私の笑顔がドアミラーに映っているのを見た。