背中だけが 2
最初から、こうしていれば良かった、と思う。
アシュリーが公爵家に来た時点で、手を打っておけば、いらない恐怖を、彼女に与えることはなかったのだ。
ジョバンニの髪と目は、あの日、アシュリーの血で真っ赤に染まっている。
元々、彼は魔術が使えた。
王宮魔術師が「半端者」と呼ぶ者の1人だ。
魔力顕現しても、本来、国王との契約なしには魔力は与えられない。
長く供給を断たれていると、魔力を維持するための器は、その機能を失う。
つまり、魔力が尽き、魔術が使えなくなるのだ。
だが、中には例外がいた。
極端に王宮を忌避する者は、なぜか魔力が尽きない。
そのため、いつまでも器が機能を有している。
ジョバンニは、平民ではなく貴族だった。
男爵家の生まれだ。
土地は肥沃で、8歳くらいまでは、何不自由のない生活をしている。
ところが、突然に、男爵家が管理していた領地に大量の虫が発生した。
そのせいで、農地が壊滅的な被害を受け、その年は税を納められなかったのだ。
もちろん、当時、当主であったジョバンニの父は、上位貴族に嘆願した。
男爵家のような下位貴族は、小麦や野菜、果物などにより税を納めているため、農地への被害は、直接、税収に関わる。
納められる物がないことには、どうにもできない。
そういう年は、上位貴族に嘆願し、翌年に繰り越してもらうのだ。
けれど、その年の嘆願は通らなかった。
結果、爵位を停止されるとともに、領地も取り上げられている。
ジョバンニが、嘆願の通らなかった理由を知ったのは、十歳の時だ。
その頃、彼は両親と一緒に平民暮らしへと身を落としていた。
採れた作物を納めに行って、偶然に理由を知ってしまったのだ。
上位貴族が欲を出し、肥沃な土地を直轄領にしたかった。
それだけのことだ。
たった、それだけのことで、そんな理由で、彼はすべてを取り上げられている。
貴族や爵位が、どれほど理不尽なものかを知った。
その象徴が、高位貴族が重臣に名を連ねている王宮だ。
ならば、平民でかまわない。
いや、平民のほうがいい。
貴族になど戻りたくもない。
けれど、両親は違った。
それを、十歳のジョバンニは気づいていなかった。
彼らは貴族であることを誇りとし、その自尊心から領地や領民を守っていたのだ。
ジョバンニから嘆願が通らなかった理由を聞かされた両親は、上位貴族に挑み、そして、負けた。
せめて領民の税を上げないでくれと頼みに行っただけなのに。
爵位を取り上げられた逆恨みから貴族を襲ったとされ、命を奪われている。
ジョバンニは自らの言葉を嘆き、さらに貴族や王宮を忌避した。
その強い想いが、彼を「半端者」にしたのだ。
両親を失い、1人になってからは、領民の家を転々として暮らしている。
農作業を手伝うことで、ぎりぎり衣食住を賄ってもらえていた。
とはいえ、それも長くは持たず、14歳になった時に「もう大人なのだから」と言われたのだ。
それが「出て行け」と同義であることを、ジョバンニは悟っている。
もう生きるのも死ぬのも、どうでも良かった。
縋る者もおらず、街をふらついているジョバンニを拾ったのが、子爵家の老いた執事だ。
貴族の屋敷で働くなんて、とは思った。
だが、それ以上に、自分の命を見限っていた。
本当に、なにもかもが、どうでも良くなっていたのだ。
アシュリーに出会うまでは。
アシュリーのいる毎日は、ジョバンニにとって特別だった。
日々、表情を変える彼女に、彼の日々は、幸せな感情であふれていった。
両親を失ってから、初めて「生きていたい」と思えた。
その時間を奪った者が、今、目の前にいる。
自分だけなら諦めがつけられていたかもしれない。
だが、ハインリヒの愚かな命令のせいで、アシュリーは死にかけたのだ。
あの日、ジョバンニの髪は彼女の血で濡れていた。
あの日、ジョバンニの瞳は赤い涙を流した。
その色は、いつまでも薄れずにいる。
公爵に魔力を与えられた際、アシュリーの血の色と混じり合ったままだ。
ジョバンニは、再び、思う。
最初から、こうしていれば良かった。
アシュリーの背に突き立ったものと同じ光の矢が、手の中に現れる。
ハインリヒの顔が恐怖に引き攣っていた。
「お、俺は、せ、セシエヴィルだぞ……こ、殺せばどうなるか……」
「知りませんね、そのようなことは」
「ろ、ローエルハイドは、せ、セシエヴィルには、手、手を出さない、と……」
「どうでもいいことです。私自身はローエルハイドではございませんので」
ひゅんっといったふうに、光の矢がハインリヒの両足に突き刺さる。
大声を上げ、ハインリヒが床に膝をついた。
その姿を、冷たい瞳に映す。
『きみは、大きな代償を支払うことになる。とても大きな代償だ。それでもいいのだね?』
そうか、と思った。
あれは、こういうことだったのだ。
公爵の元に来てから4年。
ジョバンニは、まだ人を殺したことがなかった。
魔術を使えば、簡単に人を殺せる。
そういう力を手にしたのだと、彼は気づいている。
まさに、今、その力を行使しようとしていた。
手を汚さずに、アシュリーを守ることができないのなら、いくらでも汚す。
『愛のため、と言うと、美しく聞こえるがね。実際には、愚かで冷酷な本質だ』
ジョバンニは、ふっと笑った。
自分は、そこまで「冷酷」になれそうにない。
ひゅん。
床を這いずって逃げようとしていたハインリヒの背中に、幾本もの光の矢が突き刺さる。
突き刺さった上で、床にまで達していた。
体を貫通した矢が消えても、傷は消えない。
床が血だらけになっている。
「あなたは、私に感謝すべきでは?」
手の中にあった光の矢が、ハインリヒの頭を貫く。
ほんのわずかな間のあと、ハインリヒが、すべての動きを止めた。
痛みも恐怖も、もう味わうことはない。
「我が君であれば、恐怖と苦痛から逃しはしなかったでしょう」
きっと永遠にも近しい時間を、その中で過ごすことになっていた。
比べれば、死など生温い。
生きながら、苦痛にのたうち回るより、ずっとマシだ。
ジョバンニは、自分の両手を見つめる。
目の前には、血塗れの遺体が転がっていた。
自分は、人を殺したのだ。
気分がいいとか悪いとか、そういう感覚はない。
ただ、人を殺せる自分がいることに気づいただけだった。
だから、アシュリーのためだとは思えずにいる。
ハインリヒを殺したのは、自分が安心したかったからだ。
アシュリーを害させたくないとの思いも、ただの自己満足に過ぎない。
「もう……お嬢様と手を繋げそうにありませんね……」
ぽつん…と、つぶやく。
ハインリヒの言った「ローエルハイドはセシエヴィルに手を出さない」との言葉の意味は知っていた。
帰ったら、咎めを受けるかもしれないが、どうでもいいことに思える。
どの道、公爵に拾われた命だ。
ジョバンニは、アシュリーに、このことを、どう伝えるかを考えている。
伝えない、との選択肢を、彼は持たない。




