彼女と彼は 1
彼女は、男性に抱きかかえられている。
男性というより、まだ青年なのだが、その違いが彼女には明確でない。
彼に抱きかかえられ走っている、ということだけが、はっきりしていた。
自分を抱きかかえている彼の顔を、時々、見上げる。
彼の額からは、幾筋もの汗が流れ落ちていた。
もとより夏場なので、外は蒸し暑い。
夕暮れ時でも、じっとりした空気が体にまとわりついてくるような感覚がある。
その中で、彼女は彼に抱きかかえられ、移動していた。
周囲は薄暗い。
ただ、森の奥だということは、わかっている。
昼間、彼とピクニックに来ていたからだ。
夕方になる前には、屋敷に帰る予定だった。
帰り支度の最中に声をかけられなければ、予定の変更はなかっただろう。
今頃は、屋敷でくつろいでいたに違いない。
男だった、と思う。
声をかけられた際、彼が彼女を庇うように前に出た。
そのため、しっかりと姿を見てはいない。
フードをかぶったローブ姿が、一瞬、見えた。
幼いながらも、相手が魔術師だと悟っている。
彼女の住むロズウェルド王国は、この大陸で、唯一、魔術師のいる国だ。
実物を見たことはなかったが、話だけは聞いている。
彼に、魔術師の話をせがんだのは彼女だった。
彼女自身は魔力を持たなかったため、物語や歴史に出て来る魔術師に、好奇心をかきたてられたのだ。
けれど、魔術師は、彼女のいだいていた印象とは、まるで違う。
薄気味が悪く、不気味で、彼に庇われていても体が震えた。
恐怖からか、そのあとのことは、よく覚えていない。
気づいた時には、森の中を走っていた。
彼女は、彼に、ぎゅっとしがみついている。
彼は、彼女にとって、絶対の味方だ。
あまり顔を合わせることのない両親よりも、ずっと長く一緒にいる。
彼女が、彼の名を呼ぶと、どんな時でも、すぐに来てくれた。
そして、内緒だとしながら、彼女の怪我を癒してくれることもある。
彼は、いつも笑顔だった。
怒った顔も不機嫌な顔も見たことがない。
その彼が、今は険しい表情を浮かべている。
なにか悪いことが起きているのだ。
不安と恐怖で、心が押し潰されそうだった。
自分では走ってもいないのに、呼吸が苦しい。
心臓が、やたらとバクバクしている。
息苦しさに、彼女は口で息をしていた。
不意に、彼が足を止める。
木々の繁った中に、彼女の体が降ろされた。
とたん、ひどい不安に襲われる。
両手を伸ばし、再びの抱っこをねだった。
が、彼は、彼女の、その小さな両手を握る。
「お嬢様、ここにいてくださいね。私が戻るまで、じっとして声も出さないように我慢してください。私からのお願いです」
薄茶色の瞳が、彼女を見つめていた。
彼が微笑んでいることに、少し安心する。
そして、彼女は小さくうなずいた。
彼が戻るまでここにいて、黙っていること。
それが彼の願いなのだ。
彼の初めての「お願い」なのだから、聞いてあげなければならない。
彼は、彼女の「お願い」を、いつだって聞いてくれたのだから。
彼が、彼女から離れる。
茂みから出て行く後ろ姿に、それでも声をかけたくなった。
それを、じっと我慢する。
「あなたは魔力を隠すのが下手過ぎます。ああ、だから、彼女を隠したのですか。賢明な判断ですよ。私の用は、あなたにありますのでね。元々、彼女を害する気はなかったので、手間が省けました」
彼の声ではない。
きっと、あのローブ姿の魔術師が追いかけてきたのだ。
彼女は膝をかかえ、体を丸めた。
小さな膝に、強く口を押しつける。
そうしていなければ、恐怖に声を出してしまいそうだった。
周りから、チッチッという虫の声が響いてくる。
走っている時には気づかなかった。
あれは蝉だ。
彼に教えてもらったことがある。
その蝉の声だけが聞こえていた。
ほかには物音がしない。
彼は、もうすぐ帰ってくるだろうか。
思った時だ。
彼女は、咄嗟に顔を上げる。
彼のくぐもった苦しそうな呻き声が聞こえたのだ。
混乱と恐慌に、彼女の意識は支配される。
じっとしていなければならない。
声を出してはいけない。
彼の初めての「お願い」も、彼女の心を抑制できなかった。
震える体で、地面を這い、茂みの隙間から外を覗く。
その彼女の目が見開かれた。
彼が、地面に膝をついている。
しかも、血を流していた。
彼の前に立つ魔術師の手が、薄暗い中で明るく光っている。
それが、矢の形になり、彼に向かって飛んだ。
音もなく、彼の腹に刺さる。
彼女の視界の中、彼の体から血がしぶいた。
一瞬のうちに、ありとあらゆる光景が頭に浮かぶ。
ナイフとフォークをうまく扱えず、汚してしまった手を拭いてくれる彼の姿。
読み書きを教わりながらも、笑っていた自分たち。
どの記憶にも、必ず彼の姿があった。
「あなたは“目障り”なのだそうですよ」
また魔術師の手が光る。
それが起きると、どうなるか。
彼女は知ってしまった。
光の矢になり、彼に刺さる。
彼は、血を流す。
きっと、すごく痛いに違いない。
だから、彼は呻いているのだ。
光の矢が、今度は彼の両足に刺さる。
みるみるうちに、血が溢れ出した。
彼の顔は、苦痛に歪んでいる。
彼女の知る笑顔は、そこにはない。
どうしてこんなことになっているのか、理解できなかった。
けれど、このままでは「酷いことになる」のは、わかっている。
彼とは、2度と会えなくなる気がした。
頭に浮かんでいた光景が、パキパキと壊れていく。
「私も十分に楽しみましたし、これで終わりにしてあげましょうか」
また、あの光だ。
あの光から彼を守らなければ、彼を失う。
どうすればいいのかなど、彼女にはわからなかった。
ただ「遮る」ことだけを考えていた。
彼女は、茂みから飛び出す。
彼の名を呼んだ。
彼が驚いた顔で、彼女を見る。
背中が、ひどく痛い。
転んで怪我をした時より、ずっとずっと痛かった。
けれど、それもすぐに消える。
瞳に映ったのは、彼の悲痛なまなざしだけだ。
地面に倒れる彼女の小さな背中に、光の矢が突き刺さっていた。




