6 小夜鳴鳥の箱庭①
この章から8年経過しエフィ(シャルロット)は15歳です。
八年後、ファロス歴1008年、牧月。
きらびやかな調度品が並ぶロシニョール男爵邸の廊下を、今はシャルロットと呼ばれる〈デルフィーヌ〉は歩いた。
――いつ見ても趣味が悪いわね。
高価だが成金趣味丸出しのそれらを侮蔑の視線でひと撫でし、彼女は男爵の私室に向かった。月に一度、精神を患っている男爵夫人の様子を報告するという気の重い義務のためだ。
男爵はガウンを着て新聞を広げていた。ちらりと血を分けた娘に向けた目には、何の感情も宿っていなかった。
シャルロットの服装は身体の線の分からないぶかぶかの子供向けで、赤みがかったブロンドは前髪を長く伸ばし二つのお下げにまとめている。
不快そうに男爵は何事かを呟いた。おおかた、いつ見ても不器量で愛想のない奴だというところか。
〈デルフィーヌ〉の予想は、肉付きのいい下働きの女に彼が好色そうな視線を向ける様子からも正鵠を射ているだろう。
「で、変わりは無いのか」
「……はい」
「そうか、下がれ」
わざと鈍そうな動作でシャルロットは部屋を出た。そして、人のいない廊下で大きく息を吐き出した。あの男の部屋など空気も吸いたくない。
朝食を摂るため、少女が向かったのは男爵が使用する食堂ではなく台所だった。
彼女が姿を見せると、コックや台所のメイドたちが一斉に声をかけた。
「おはよう、ロロット」
「奥様はどうしてるの?」
「ほら、こっち来て食べろよ」
さっきまでの陰気さを振り捨てたようにシャルロットは彼らに笑いかけた。
「ありがとう。奥様は昨夜はなかなか眠ってくれなくて疲れてたの」
「大変だな」
用意された皿の両側にナイフとフォークを自分でセットし、シャルロットはマナーどおりに食べ始めた。不思議そうにコックが言った。
「面倒な食べ方するんだな」
「マダム・モワノが抜き打ちでテストするから」
「あのガミガミ夫人か」
男爵夫人の侍女は口やかましいことで知られていた。シャルロットは小さく笑うのみだった。彼女も最初はマダム・モワノを冷たい人だと思い苦手としていたのだ。だが、年月を重ねた今では分かることがある。あの侍女は全ての愛情と忠誠を男爵夫人にのみ注いでいるだけなのだと。
それは前世でダイグル公爵夫人に使えていた侍女マダム・ビオロを思い出させた。彼女も公爵夫人第一主義で、娘のデルフィーヌは公爵令嬢としての教養と礼儀作法を厳しく仕込まれたものだ。
家族から引き離され、この屋敷に連れてこられてから八年になろうとしている。その間、男爵と食事をしたことなど一度も無かった。当たり前のように台所で食事をする少女に最初どう接していいか分からない様子だった使用人たちは、彼女をシャルロットとして働く子『ロロット』と認識したようだった。
食事を終え、食器を片付けた少女にコックの一人が声をかけた。
「なあ、ロロット、また手紙を頼めるか?」
「いいわよ。他に代筆して欲しい人はいる?」
故郷を離れて働きに来ている何人かがやってきた。持参の紙と封筒を受け取り、シャルロットは家族友人への手紙を書いてやった。
「凄いわね、奥様のお世話をしながら勉強もやってるなんて」
感心したように台所メイドがいい、少女は首を振った。
「読み書きぐらいよ」
「それでもありがてえや。街の代筆屋なんて、たった二、三行でとんでもねえ代金ふっかけてきやがるからな」
気さくな使用人たちと一緒にいる方が楽なのは事実だった。かつて公爵令嬢だった頃は考えられないことだが。
八年の間に使用人の顔ぶれも変化があった。最初に優しくしてくれたメイドのアンヌは本邸から遠ざけられた後で結婚し街を離れた。彼女が同僚にシャルロットの事を頼み込んでくれたおかげで、彼らと友好的な関係を築けている。
二年前は国の内外で『エスパ風邪』と呼ばれる肺炎が大流行し、リーリオニア皇国内だけでも二十万人に及ぶ犠牲者が出た。屋敷の使用人で重症化した者はいなかったが、下町などはかなりの被害が出たと聞く。ニドの街の様子を知る術がない〈デルフィーヌ〉は、何夜も聖光輪十字に祈った。
食事後の雑用を片付けて、少女は子供部屋に戻った。幼児が着るようなデザインのドレスに着替え、ほどいた髪には大きなリボンを付けた。毎回道化のようだと思うが、彼女の仕事には必要なことだった。
サンルームで彼女を待っていた男爵夫人は、八年の歳月を経ても時間が止まっているかのように若々しかった。両腕を広げて少女を迎え優しく微笑む。
「いらっしゃい、シャルロット。ご本を読んであげるからどこも行かないでね、私のロロット」
「はい、かあさま」
年齢に似合わない子供服を着てシャルロットと呼ばれる〈デルフィーヌ〉は、精一杯幼い仕草で男爵夫人の隣に座った。彼女が選んだのは幼児向けの絵本だ。もう空で覚えてしまった内容をさも面白そうに聞き、時折不安そうな様子を見せる夫人に甘えてはこちらに意識を向けさせる。
たった六歳で死んでしまったシャルロットをずっと演じてきたが、シャルロット――エフィはもう十五歳になる。夢の世界に漂う男爵夫人にはどう見えいるのか分からないが。
庭に面した窓から影が落ちてきた。鳥のようだ。軽快な鳴き声にヒバリだろうかとシャルロットは顔を上げた。あの鳥はどうしても『ヒバリ』という名だった頃を思い出させる。気がつけば、男爵夫人もぼんやりと空を見ていた。
「かあさま?」
シャルロットが白い手に触れると、彼女は怪訝そうな顔をし、何かを探すように首を巡らした。すかさず、侍女のマダム・モワノが細い肩にショールを掛けた。
「少し冷えてきましたね。お部屋で休みましょう」
二人で両脇から支えるようにして男爵夫人を移動させる。寝室付きのメイドに彼女を任せて、シャルロットとマダム・モワノは同時に溜め息をついた。
最近感じていたことを少女は告げた。
「奥様に私がシャルロットと思わせるのは、もう難しいのではないでしょうか」
彼女の中のシャルロットは永遠に年を取ることはない。男爵は似た子供をあてがっておけば解決するとでも思っているようだが、男爵夫人が求めるのは六歳の娘だ。
それに関してはマダム・モワノも同意見のようだった。
「私もそう感じています。いくら似ていても奥様のシャルロット様は今も六歳なのですから」
男爵夫人とほぼ変わらない背丈になった少女では、いつ認識されなくなってもおかしくない。
――その時はお払い箱にしてくれれば願ったりだわ。
出て行けと言われれば、こんな家喜んで出て行ってやると〈デルフィーヌ〉は思い続けてきた。ここに来た最初の日からだ。
「そうなると、またシャルロット様を探して家中を歩き回られるのかしら」
憂鬱そうな侍女に、シャルロットが質問した。
「奥様のご実家、エグレット伯爵家の経済状況はどうなっているのでしょうか」
「あの男爵の支援を受けて立て直したと聞きました」
「伯爵家のご領地に静養できるような病院か施設があれば…」
少女の言葉に、マダム・モワノは目を瞠った。
「調べてみましょう。あの家はお嬢様…、いえ奥様の犠牲で持ち直したのですもの。嫌などと言わせるものですか」
彼女は夫人の乳姉妹でエグレット伯爵令嬢時代から仕えてきた。〈デルフィーヌ〉との関係は、男爵夫人を救おうとする同志のようなものに変化していた。
忠実な侍女と別れ、シャルロットは自分の子供部屋に戻った。早くこの馬鹿馬鹿しい服を脱ぎたかった。
簡素な部屋着に着替え、少女は窓から庭と空を眺めた。ここに来た当初は男爵夫人の異常な様子が恐ろしかったし、全ての元凶と思い恨みもした。
しかし、八年も娘の振りをし世話をしていれば嫌でも情は湧いてくる。マダム・モワノがぽつぽつと話すことから彼女の悲惨な生活を知れば尚のことだ。
男爵夫人ジュスティーヌ・ロシニョールは、伯爵家の三女だった。美貌で知られる彼女に目を付けたロシニョール男爵が、事業の失敗で傾きかけた伯爵家に支援を申し出たことがそもそもの始まりだという。
男爵は見返りにジュスティーヌとの結婚を要求し、家のために彼女は恋人と引き裂かれ男爵家に嫁いだ。当時は金で爵位も花嫁も買ったと陰口を叩かれていたようだ。
そこまでして手に入れた夫人にさっさと飽きると、男爵は彼女を粗雑に扱い女遊びに走った。使用人に手を出すことも再三だった。夫人の家柄に対する劣等感から、彼女を虐げることでいびつな満足感を覚えたのかも知れない。
つらい生活の中で生まれた娘だけが、彼女の生きる喜びであり希望だった。幼くして失われてしまうまでは。
シャルロットの事故死はエフィと家族の運命も狂わせた。
自分の手を〈デルフィーヌ〉は見つめた。エフィという少女の手。左手首の傷跡は今でも残り、男爵夫人の前ではリボンで隠している。
エフィとシャルロット。二重の存在の中にあるのが前世でこの国の公爵令嬢だった自分だと思うと、状況の複雑さに笑えてくるほどだ。
ただ一つはっきりしているのは、いつか必ず家族の元に戻るという目標だけだ。ずっと肌身離さず身につけているマルセルからの手紙と母イルマにもらったリボンを収めた胸元に、〈デルフィーヌ〉は無意識に触れていた。