50 北限の鷲⑪
オペラ『エクセルシオール』は最後の凱旋式の場面を迎えていた。さっきまで水が溢れていた円形広場はあっという間に将軍がパレードをする街並みに変わり、人々が勝利を称える合唱が響いた。
祝砲となるのはもちろん打ち上げ花火で、夜空を埋め尽くすような華麗なページェントに観客席から歓声が上がった。舞台の歌手たちも負けじと熱唱し、終幕に向けて盛り上がりは加速する一方だった。
宮殿内の一角はそれどころではない混乱ぶりだった。ダイグル公爵令嬢に刺された皇太子ルイ・アレクサンドルは極秘裏のうちに病院に運ばれ、犯人の捜索が続いた。
警備本部にも非常事態が伝えられ、兄マルセルを待っていたシャルロットは驚愕の表情で立ち尽くした。
「お命に別状はないのですか」
「意識はしっかりしておられますが、刺された場所が場所なので予断を許しません」
報告する近衛士官も青ざめていた。シャルロットは別の問題を口にした。
「このことは皇王陛下や皇后陛下には…」
「オペラが終わるまでは無理だ。混乱が起きる」
ひっきりなしに伝令が行き来する中、朗報をアロイスが伝えてくれた。
「マルセルの班は無事に『赤い雄鶏』の構成員を捕らえた。自爆に走ろうとしていたのをうまくやってくれたようだよ」
そして彼は言いにくそうに告げた。
「こっちに戻ることになっていたんだが、この騒ぎだ。捜索班に合流してもらうことになる」
シャルロットは頷いた。皇太子刺殺未遂犯の確保が最優先だ。
――あの女が簡単に捕まるとも思えないけど。
この広い宮殿で使用人に紛れられたら警備隊も苦労するだろう。そう考え、彼女はアロイスたちの邪魔にならないよう桟敷席に戻ることにした。
警備本部から出て回廊を歩いていると爆音が聞こえた。花火だろうかと思ったが、警備隊の叫び声で違うと分かった。
思わず宮殿奥に足を向けると、負傷した警備隊の衛兵や怯えた使用人たちが見えた。錯乱状態のメイドを掴まえ、シャルロットは詰問した。
「何があったの?」
「控え室がいきなり爆発して、みんな血を流してて…」
「どなたの部屋なの?」
「分かりません、公爵様や大公様のお部屋がある場所です」
怪我人の中にマルセルがいるかも知れない。メイドを落ち着かせてシャルロットは奥に向かった。
公爵以上の貴族の控え室は、前世の記憶と同じ配置だった。騒ぎが起きているのはドートリュシュ大公の部屋だと見当が付き、運ばれていく怪我人の中にマルセルがいないことにシャルロットは安堵の息をついた。
そして、ダイグル公爵家の部屋がある回廊を見て首をかしげた。警備隊が捜索に向かったはずなのに、妙に静かなのだ。そっと近寄っていくと微かな苦痛の声がした。
扉は開いており、中には警備の衛兵たちが倒れていた。
「大丈夫ですか?」
最も近い一人に声をかけると、衛兵は苦しそうに答えた。
「……暖炉が爆発して…、危ないから下がるんだ」
シャルロットは一旦ダイグル公爵家の控え室を離れ、足早に警備本部に戻る伝令を捕まえた。
「ダイグル公爵の控え室で負傷者が出ました。すぐに応援を」
驚いた様子の伝令は彼女の迫力に押されたように敬礼をした。
「了解、直ちに応援を呼びます」
駆けてゆく伝令を見送り、シャルロットは負傷者の手当てをしようとダイグル公爵家の控え室に戻った。
「すぐに応援が来ますから」
そう言いながら室内の照明を付けると、崩れた暖炉が開いていた。そして、部屋の中央にいなかったはずの人物が立っていた。まだ若い、癖のある灰色の髪と丸眼鏡の男性。
「……ピエール先生…」
呟くようにシャルロットは彼の名を呼んだ。何故彼が宮殿にという疑問と共に、この医師がモニカの失踪に関わっていた可能性が呼び起こされた。
ピエール医師はまるでニドの街にでもいるような親しげな笑顔を浮かべた。状況にそぐわない表情が不気味に思え、シャルロットは後ずさった。彼は懐かしそうに呼びかけた。
「何年ぶりかな、見違えたよ」
ピエールは一歩前に出た。同時に彼の表情が別人のような冷酷さを湛えた。
「覚えていないのかい、デルフィーヌ」
その名にシャルロットは声も出なかった。頭の最奥で何かが弾けたような感覚があった。故意に塗りつぶされた記憶が一気にクリアになり押し寄せる。
『まだ若いですが、お嬢様のような症例を何人も診てきた医師です』
ダイグル公爵家の主治医が紹介したのは丸眼鏡をかけた若く気の弱そうな青年だった。部屋に閉じこもり食事も忘れていたデルフィーヌは、彼のおずおずとした言葉には何故か逆らえなかった。
『よく効く薬ですよ。ゆっくりと眠れるようになりますからね』
彼が与えてくれる薬は確かに束の間苦しみを忘れさせてくれた。ただ、楽になりたい一心で彼の言葉に従い、増やされる薬の量に疑問も持たなかった。
記憶はダイグル公爵家に入り込んだシャルロット・ロシニョールの姿を再生させた。
『ねえ先生、お義姉様がつらそうよ。はやく楽にしてあげて』
『困りましたねえ。あまり速いと壊れやすくなるんですよ』
薬の投与で朦朧とするデルフィーヌの寝室にペーパーナイフを置いて医師が退出する。いかにも楽しげにシャルロット・ロシニョールが近寄ってくる。
そして記憶は北限の塔での出来事を教える。親切そうに付き添うピエール医師。いつもどおり薬を与え、窓から微かに聞こえてくる音に顔をほころばせる。
『聞こえますか、お嬢様。今日は皇太子殿下のご婚礼の日なのですよ。ほら、こんな僻地の町でも祝いの鐘が鳴ってる』
ぴくりとデルフィーヌの痩せ細った肩が震えた。目を見開き両手で頭を抱え、のろのろと首を振る。その様子を興味深そうに観察しながら、ピエール医師は心配そうな声を出した。
『顔色が悪いですね。何か暖かいものを持ってこさせましょう』
手にした小型のナイフをテーブルに置いて彼は出て行った。そして扉の外でデルフィーヌがナイフを手に錯乱状態で塔を上がるのをただ見ていた。
突然記憶の荒波に放り込まれたような状態で、シャルロットは声を振り絞った。
「……ロベス先生…、どうして……」
ピエール医師は心から嬉しそうに笑った。
「思い出してくれたんだね、可哀想なデルフィーヌ。でも、ここでの君の役目も終わりだ。期待外れの連中のせいでね」
激しい頭痛と目眩で立っていられなくなったシャルロットを彼は支えた。そこに厳しい誰何の声がした。
「誰だ!? ここで何をしている!」
応援の警備隊だった。その中にいたマルセルは見覚えのある医師がいるのに驚愕した。
「貴様!」
青年医師はぞっとするような冷笑を口元に刻んだ。
「我が名はピエール・ロベス。全ての平行世界において革命を成し遂げる者」
彼がぐったりしているシャルロットを抱き寄せるのにマルセルは怒鳴った。
「エフィ!」
憐れむような顔で、ピエールは手にした物を床に叩きつけた。次の瞬間、部屋に白い気体が充満した。
「何だ?」
「…喉と目が!」
「部屋から出ろ!」
妹を取り戻そうとするマルセルを仲間の衛兵たちが引きずり出した。
「ここは危険だ!」
白一色になった部屋に彼は手を伸ばし叫んだ
「エフィ!!」
警備隊が部屋から出るのと同時に轟音が響き、扉からの爆風が回廊の人々をなぎ倒した。床に伏せていたマルセルは立ち上がり、破壊された部屋の惨状に呆然とした。室内に人の姿はなく、暖炉の抜け道は潰れていた。
マルセルは崩れ落ちるように膝をついた。その時、瓦礫の下に白い物が見えた。白鳥の羽。シャルロットの髪飾りの一部だった。それを握りしめ、マルセルは拳で床を叩いた。
「……エフィ…!」
その場に駆けつけたアロイスもウジェーヌも、彼に掛ける言葉を持ち合わせていなかった。
宮殿内の爆発は壮大なオペラの花火にかき消されていた。凱旋式の場面で将軍と姫君は祖国と愛の勝利を歌い上げ、彼が国王となることを竜も祝福するだろうと合唱が加わった。それと同時に最大の大玉花火が打ち上げられ、噴水の竜の彫刻を照らし出した。まるで本物の竜が出現したかのような演出に観客は立ち上がり万雷の拍手が庭園に広がった。
オペラ『エクセルシオール』は大成功のうちに幕を閉じた。
悄然としたマルセルへの慰めも思いつかず、アロイスとウジェーヌは彼を挟むようにして庭園に出た。そこに軽快なクラクションが口笛のように鳴らされた。
「浮かない顔のハンサムさんたち、どちらまで?」
最新型自動車の運転席に男装のサラ・パンソンがいた。彼女は三人に告げた。
「シモンから大体の話は聞いたわ。来て、うちの情報部の力をお見せするから」
せき立てられるように彼らはサラの車に乗り込んだ。
リーリオニア最大の銀行であるパンソン銀行本店に自動車は停まった。営業時間外にもかかわらず、財閥令嬢は平然と建物に入っていった。エレベーターで最上階に上がると、そこは夜間とは思えない活気に満ちていた。
部屋のあちこちにかたかたと音を立てる機械があり、担当者らしき者がそれを翻訳している。サラは得意そうに披露した。
「ここがパンソン財閥の情報部よ。国内国外の情報が電信で集まるの」
「だが、電信は実用には…」
言いにくそうなアロイスに、サラは片手を上げた。
「送信できる区間が短い、でしょう? なら、可能な限り繋げていけばいいだけの事よ」
彼女は通信技師たちを背にして陸軍元帥の息子に要求した。
「さあ、そちらの情報をちょうだい。追跡対象は最低でも男女各一名。馬車か自動車で逃走する者を見かけた者はいるか。園遊会の夜だから、町に出ている者は多いはずよ。片っ端から当たってみて」
「その情報をどう使うんだ?」
「人海戦術で該当するものを追跡するのよ。外れを除いていけば絞れていくわ」
それまで一言も話さなかったマルセルが、サラに向けて口を開いた。
「エフィはほとんど意識がなかった。病人を装って運ぶかも知れない」
「いいわね、条件が多いほど速く絞れるのよ。情報部を信用してシャルロットを探しましょう」
アロイスは父親に連絡を取り、『赤い雄鶏』を操っていたとおぼしき男性の捜索の協力を取り付けた。ウジェーヌがマルセルの肩をそっと叩いた。
「きっと見つかるよ」
衛兵は無言で頷いた。
夜が明け、宮殿の庭園には酔っ払った花火師たちがごろごろしていた。一人がよろよろと池の方に歩いた。冷たい水で顔を洗い、酔いを覚まそうとする。
「妙に水が多いな。ああ、噴水がどうとか言ってたっけ…」
何の気なしに水面を眺めた彼は、何かが浮かび上がるのに気付いた。
「丸太か?」
目をこらしてやっと、それが人間の死体だと分かった。しかも死体は次々と浮き上がってくる。花火師は腰を抜かし、言葉にならない奇声を発して仲間の元に走った。
大園遊会の夜に構成員のほぼ全員が捕縛、あるいは死亡したことで革命組織『赤い雄鶏』は終焉を迎えた。




