5 ニド街のヒバリ④
「どいてくれ!」
馬車道へと走り続けたロジェとマルセルは、人だかりをかき分けた。石畳の道で彼らが見たのは無残なイルマの姿だった。
「イルマ!」
「母さん!」
父と息子は彼女に駆け寄り、息があるのを確認した。ロジェが妻を背負い、息子を連れて立ち去ると群衆から同情の声が上がった。
「可哀想に…」
「ひでえことしやがる」
「あれは男爵とこの馬車だったろ」
弟を連れて駆けつけたモニカは、あまりのことにかける言葉もなかった。事情が分からないジョスが不思議そうに尋ねた。
「モニカ姉ちゃん、エフィは?」
何も答えられない姉は弟を抱きしめるだけだった。
ようやくの思いで戻ってきた家で、祖母はおろおろしながら待っていた。血まみれの嫁を見て彼女は仰天した。
「ああ、イルマ、何てこと…」
孫娘がいないことに気付いた祖母は視線で息子に問いかけたが、ロジェは首を振った。
「マルセル、水を」
妻を椅子に座らせ、一家の父親は顔面の傷を拭ってやった。呆然自失状態でされるがままだったイルマの目が、床で潰れた白い花束を視界に入れた。
彼女は突然床に這いつくばり、必死の形相で花束の残骸をかき集た。無残に踏みにじられた白い花びらを胸に抱き、子を奪われた母親は悲痛な声を上げて泣き崩れた。
義母は耐えきれずに顔を覆い、夫は俯くことしか出来なかった。その息子は涙を堪えて両の拳を握りしめた。
イルマの手からこぼれた花びらが揺れながら床に落ちた。
馬車は町外れにある大きな門を通り、屋敷の前に停まった。
「出ろ」
エリクがエフィの腕を掴んで引きずり出した。慌ててメイドが馬車を降り、少女に付き添おうとした。
「お前は自分の仕事をしてろ。旦那様はこいつに用があるんだ」
メイドは引きずられるように連れて行かれるエフィを心配そうに見送った。
屋敷はかなりの大きさで、豪華な調度品に溢れていた。
広い部屋の前まで来て、エリクは居住まいを正した。
「旦那様、連れてきました」
「入れ」
横柄な声が入室を促した。恐怖で固まるエフィを押し込むようにして部屋に入れるとエリクは扉の所で待機した。
屋敷の主が少女の前に立った。なでつけた黒い髪と細い口ひげの彼はエフィの顔を仰向かせてじろじろと眺め、口元を歪めた。
「こんなものか。まあ、使えるかもしれんな」
「イルマの奴、子供を生んだことも隠してやがって」
揉み手をするようなへりくだった口調でエリクが言った。男は安楽椅子に座ると足を組んだ。
「昔の女と作った子供が、こんな時に役に立つとはな」
「まったくで、男爵様」
エフィの中のデルフィーヌの意識は、ここに来た時から妙な既視感を覚えていた。そして、彼が何者かを悟った時にそれは頂点に達した。
――ロシニョール男爵!
前世の彼女の全てを奪った女、シャルロット・ロシニョールの実父が目の前におり、しかもエフィが庶出子だと言っているのだ。
そこに、誰かを探す声がした。
「シャルロット、どこなの? 私のロロット」
エフィは全身をこわばらせた。
――ここに、あの女がいる。
声は次第に近づき、やがて扉が開くと金髪の貴婦人が現れた。美しいが妙に虚ろな瞳がエフィを見るなり輝いた。彼女は微笑みを浮かべ、駆け寄った。
「ここにいたの、シャルロット。かあさまを心配させて、悪い子ね」
そして貴婦人は優しくエフィを抱きしめた。デルフィーヌは混乱した。彼女が何を言っているのか分からなかった。
首を巡らし、飾り棚の鏡に映る自分を見た。赤みを帯びたブロンドに若草色の瞳の少女が映っている。
それは忘れられない顔だった。言葉巧みに皇太子にすり寄り、彼の心も皇太子妃の座も、公爵令嬢という地位すらデルフィーヌから奪い去った女の顔。シャルロット・ロシニョール。
――……嘘!!
デルフィーヌは声にならない絶叫をした。自分が前世で最も憎んだ女としてこの世に生まれたことを悟ったためだった。
「奥様、お嬢様はお休みになる時間ですので」
眼鏡をかけた侍女が子供に言い聞かせるようにして貴婦人を連れ出した。男爵は忌々しそうに溜め息をつくと、少女に指を突きつけた。
「いいか、今日からあれがおまえの母親だ。死んだシャルロットの代わりをしろ」
冬に聞いた弔鐘をデルフィーヌは思い出した。男爵は冷たい声で続けた。
「逃げようなんて思うなよ。俺に逆らってみろ、あの薄汚い街ごとお前の家族を潰してやる」
びくりとするエフィを見て、彼はせせら笑いながら使用人を呼んだ。入ってきたのは馬車にいたメイドだった。
「こいつを部屋に連れて行って、家のことを教えてやれ。別人だとあれに気付かれたら騒がれて面倒になるからな」
メイドは頷き、少女を案内した。
通されたのは子供部屋らしき一室だった。メイドの左頬が腫れているのにエフィは気付いた。少女に見つめられ、彼女は無理に笑顔を作った。
「大丈夫、エリクはいつも乱暴なの」
そして、小声でこの家の事情を話してくれた
「あたしはアンヌ。奥様は去年にお嬢様を事故で亡くされてからおかしくなってしまわれて、お嬢様が生きていると信じ込んで夜も昼も探そうとされるの。エリクが街であなたを見かけて、亡くなったシャルロット様にそっくりだと旦那様に告げ口したんだわ。…可哀想なイルマ」
寝間着に着替え、一人になった子供部屋をエフィは見回した。人形や玩具、可愛いドレスに溢れ楽しげなはずの部屋は、死んだ子供のものだと思うと不気味に映った。少女は部屋の隅でうずくまった。
いつのまにかうとうとしていると、そっと揺り起こされた。すっかり暗くなった部屋で、アンヌがエフィを覗き込んでいた。廊下を気にしながら、彼女は囁いた。
「あたしの姉がニドの街に住んでいるの。今日の騒ぎを知って、人づてにこれを届けてくれて。あなたに、マルセルからだって言えば分かるって」
はっとして、エフィは畳まれた紙を受け取った。更にアンヌはエプロンのポケットから何かを取り出した。
「これ、馬車の中に落ちてたけど、あなたのでしょ?」
手渡されたのはレースのリボンだった。少女が怖がらないように小さなランプに火を灯してアンヌはそっと出ていった。
灯りの側でエフィはマルセルからの紙を広げた。拙い字で「エフィ、かならずたすけにいく」とだけ書かれていた。少女は手紙とリボンを握りしめた。ずっと堪えていた涙が溢れてこぼれ落ちる。
もうニドの街には戻れない。エフィ――アルエットという少女は消え失せ、偽のシャルロットとして生きるしかないのだ。
エフィは床に座り込んだ。
「……母さん…お兄ちゃん、……お家に帰りたい…」
肩を震わせながらの嗚咽は唐突に消えた。代わりに少女の口から決意の言葉が漏れる。
「…必ず戻ってみせる」
涙で汚れた顔を上げたのは絶望した幼い女の子ではなく、怒りに震える公爵令嬢だった。
自分がシャルロット・ロシニョールだと悟った時は、手近にナイフがあればこの目をくりぬき心臓に突き立てたい衝動に駆られた。だが今、彼女の中にあるのは前世の経験を全て利用し、誰を騙しても裏切ってでも罠のような状況から抜け出してみせるという思いだった。
エフィの意識の底に潜み、舞台の奥から外を眺めていたような感触は消え、幕を引き明け舞台中央に出てきたような明瞭さで彼女は涙を拭う。
そして、〈デルフィーヌ〉はゆっくりと立ち上がった。
次から新章で、八年後の話になります。