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42 北限の鷲③

 彼女がここに来てから時間は意味をなさなかった。朝も昼も夜も、ただ漠然と傍らを通り過ぎていくだけだった。

 それが少しずつ変わっていったのはいつからか。薄布越しのようだった周囲の物が次第にはっきりしていき、ただの音だった話し声が意味をなしてくる。


 その日、遂に彼女は一つの壁を越えた。

「……エー…ル……」

 小さな掠れ声を聞きつけた看護婦が、すぐさま医師に連絡した。駆けつけたシュエット博士は穏やかな声で彼女に問いかけた。

「やあ、気分はどうかな?」

 彼女はゆっくりと首を巡らした。

「……ど、こ…?」

「病院だよ。ある屋敷からここに保護されたんだ」


 屋敷という言葉に反応があった。博士はもう一つ質問をした。

「君がここにいることを誰に伝えればいいかな?」

「……せん、せい。…ピエール、せん、せい、どうし…て……」

 のろのろとした動作で顔を覆う彼女の背中を博士が優しく撫でた。

「もう大丈夫だよ、モニカ。よく頑張ったね」




 執務室に戻ったシュエット博士は同僚や助手に意見を求めた。

「モワイヨン侯爵令嬢やダイグル公爵家の人々の容態が芳しくない中、モニカの回復は喜ばしいことだよ。若く健康で非常用者という点が大きかったのだろう。ただ、彼女がずっと口にしているのは誰だろうか」

「医療奉仕をしていた修道女見習いなら、医師が同行していてもおかしくないと思います」


 助手の一人がためらいがちに発言した。博士は頷いた。

「彼女が繰り返し呼んでいたのはピエールという名前だ。ただ、該当する者がいない」

「よくある名前ですから探しにくいだけでは」

「いや、修道院の活動区域での登録者を片っ端から見ているのだが見つからないんだ。警察は修道院の尼僧たちから医師の年齢、容姿の聞き取りをしていたからすぐに割り出せると思っていたが」


 医師たちは困惑した顔を見合わせた。やがて一人が現実的な提案をした。

「聖ミュリエルに報告しますか」

「ああ、それがいいだろう」

 心配している人たちに朗報を届けようと、博士は大きく頷いた。




 それを聞いたシャルロットは思わず尼僧の手を掴んだ。

「本当に?」

「そうですよ、モニカは見事に神からの試練を耐えきりました」

「ああ、ありがとうございます」

 尼僧と共に十字を切り、男爵令嬢は幼馴染みの回復を天に感謝した。

「少しずつでも日常に戻れるようになるでしょう。あなたも力づけてあげてね」

「はい、必ず」




 聖ミュリエルの尼僧と別れ、シャルロットはディロンデル公爵令嬢の控え室に向かった。華やかなユージェニーは朗報を喜んでくれた。

「それは嬉しい知らせですわ。『ル・コック』紙の記者が駆けつけるのではなくて?」

「それが、モニカを襲ったのが誰かは判明していないので、公には伏せておくようです」

「そうね、重要な証人ですもの。お父上は喜ばれるかしら、ガロワ様」


 同席していたウジェーヌは眉根を寄せた。

「薬物の影響を受けていたなら証言を採用されない場合もありますよ。ところで、ロシニョール嬢、ピエールという医師に心当たりはありませんか?」

「ピエール先生でしたらニドの街の診療所にいました。今は皇都に来られているようですけど」


 すぐに返ってきた答えにウジェーヌは細い目をしばたたいた。

「え、顔見知りなんですか」

「昔、怪我をした時にも治療してくださいました。先生が何か?」

「実は、モニカさんが喋れるようになった時にその人の名前を繰り返してたんです。どうやら修道院の医療奉仕で一緒だったらしくて」

「先生の手伝いを続けたら助手になれるとモニカは言っていました」

「シュエット博士が必死で探してるんですが医師登録してないらしくて」

「博士とは面識があるのでは? 疫病流行時の新聞の写真に一緒に写っていましたけど」

「本当ですか? おかしいな、博士は知らないと確かに……」


 ブツブツと呟きながら、ふいっとウジェーヌは部屋を出て行った。非礼ともとれるいきなりな行動だが、令嬢たちは既に慣らされていた。

「まさか、ピエール先生が事件に巻き込まれているのかしら」

 不安そうなシャルロットに、ユージェニーが別の見解を示した。

「あるいは、何かに関わっているのかも知れませんわ」


 男爵令嬢が驚くと、公爵令嬢は淡々と指摘した。

「そんなに昔からの知己であるなら、あなたはその医師の何をご存じ? 正式な名前、出身地、学歴、何か一つでも答えられて?」

「……それは…」

 彼は常に『ピエール先生』だった。誰もがそう呼び、親切な医師だとありがたがっていた。噂好きのおかみさんたちも不思議と詮索することもなかった。

「…どうしてかしら」




 疑問を抱えて宮殿を歩くうち、シャルロットは義兄マルセルに呼び止められた。

「エフィ、モニカが良くなりそうだって? 今、ガロワ様が…」

 彼は義妹の様子がおかしいのに気付き、屈み込んだ。

「どうした? 嬉しくないのか?」

 シャルロットは首を振った。

「嬉しいわ。ただ、気になることがあるの」


 彼女は先ほどの公爵令嬢との会話をマルセルに語った。

「ピエール先生って、ニドの街の医者だよな? ここに来てるってモニカから聞いたような…」

 彼もそれ以上の情報は持ち合わせていなかった。

「考えてみると変かもな。あの下町じゃどんなことも筒抜けなのに」

「モニカはずっと先生の名前を呼んでるって。それも怖がってるみたいで」

「でも、何で先生がそんなことを」

 二人の思考はそこで行き止まりになってしまう。やがてマルセルは顔を上げ、シャルロットの肩を叩いた。

「またみんなで考えよう」

「…そうね」

 どうにか気持ちに折り合いを付けた義兄妹はそれぞれの職場に戻った。




 内務省に行くなり資料室にこもったウジェーヌは、周囲からの気味悪そうな視線もものともせずにエスパ風邪流行関係の新聞記事を漁った。

「あった、これだ。尼僧たちの証言に合うのは……この人だな」

 シュエット博士や医学院の教授たちの後方に彼はいた。

「若そうだな。下町に行く前に医学院にいたとか?」

 最高学府で学んだ医師が一般市民のために奉仕する話は時々耳にする。医学系の記事をまとめた資料を何気なくめくるうち、ウジェーヌは眉をひそめた。

「え?」


 拡大鏡を持ち出し、古い写真を詳細に検分する。写真の撮影年を確認し、彼は混乱した。

「嘘だろ、こんな昔の写真に全く同じ人間が?」

 初期の写真に写っているのは丸眼鏡を賭けた若い医師だった。ウジェーヌは薄気味悪そうに呟いた。

「写真撮影は……、カーユ氏に連絡するか」




 同じ頃、皇后宮を訪れた皇太子ルイ・アレクサンドルが母ヴィクトワール皇后とお茶を楽しんでいた。

「エスパ風邪大流行時のフィンク半島情勢について、パンソン家の情報部に調査を依頼しました」

 息子の告白に、母后は眉一つ動かさなかった。

「随分と積極的だこと」

「面白い話も入ってきました。同じ調査をアグロセンのシルベストル公爵家も行っていたと」

 皇后の祖母の実家の名を彼は口にした。


「あの公爵家は暴動の生存者に関して特に詳しく調べたそうですね。結果はどうだったのでしょうか」

 しばらく窓からの風を楽しむように庭園へと顔を向け、皇后はぽつりと答えた。

「エステルハージ伯爵邸焼失時に、巻き添えになった領民も幾人かいたようね」

 息を呑む皇太子を振り向くこともなく彼女は続けた。

「中には十五、六歳の少女もいたとか。可哀想に大やけどを負って記憶も定かではないようよ」

「……どこにいるのですか」

「安全な場所。この国の誰も手を出せないような」


 それ以上話すつもりはないと、皇后は扇を広げた。ルイ・アレクサンドルは立ち上がり、母に向けて深々と頭を下げた。

「全てを明らかにし罪を負う者を処罰してから、もう一度同じ質問をさせてください」

「なら、御身の安全に気をつけなさい。過激派革命家はダイグル公爵家からかなりの金銭を援助されていたし、大公殿下は不動産を提供していたようね」


 背筋を伸ばし、母后に礼をすると皇太子は退出した。ヴィクトワール皇后は主席侍女にぽつりとこぼした。

「大きくなるのは背丈ばかりかと思っていたけど…」

 お茶を淹れながらフラモン侯爵夫人が尋ねた。

「殿下にどのようなご決断をお望みなのですか」

「そうね、何より後悔しないことかしらね」

 季節は日没が次第に早くなっていた。

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