38 赤い雄鶏の声⑫
「どうしたの、シャルロット」
皇后付きの侍女たちが、同僚のただならぬ様子に戸惑いながら呼びかけた。使者の男が背後から男爵令嬢の腕を強く掴んだ。シャルロットは彼女たちに顔を向け、思いついた言い訳を告げた。
「ロシニョール男爵が急病ですぐに来て欲しいとのことです」
「大変、すぐに皇后陛下に馬車の許可を」
「迎えがいるので大丈夫です」
封筒を握りつぶすのを我慢していたシャルロットは、その隅に何かが型押しされているのに気付いた。そして、封筒を持つ手の角度を変えた。同僚に紋章の型押しが見えやすいように。
一人の侍女が目を丸くして口を開きかけた。その前にロシニョール男爵令嬢は迎えの男性と一緒に去って行った。
宮殿警備に就くマルセルと一緒に歩いていたアロイス・ヴォトゥールは、回廊で侍女たちが何かを言い合うのに気付いた。
「何かありましたか?」
陸軍士官に尋ねられ、皇后付きの侍女たちは彼の隣にいる衛兵を見た。
「あなた、シャルロットの護衛の」
「エフィ…、ロシニョール嬢が何か?」
「今、御父君のロシニョール男爵が急病で迎えが来たのだけど…」
「でも、あの封筒の紋章は男爵家の物じゃなかったわ、私はっきり見たのよ」
「紋章?」
ヴォトゥールが聞き返した。侍女は大きく頷いた。
「はい、小夜鳴鳥ではなくて、ユリと羽根飾りでした」
「でも、それだとドートリュシュ大公家の紋章ですよね」
アロイスとマルセルは愕然とした。先に我に返ったマルセルが走り出した。
「ヴォトゥール様、馬をお借りします!」
「ああ、私も憲兵隊に連絡してすぐに追う!」
いきなり消えてしまった彼らに取り残され、侍女たちはおろおろするばかりだった。
目立たない馬車に乗せられ移動する間、シャルロットは無言で思考を巡らした。
――あの人たちは気付いてくれたはず。衛兵か、皇后陛下に伝えてくれれば……。
馬車の行き先の見当は着いている。ドートリュシュ大公邸か、彼の所有物件だろう。
大きな門を通り、馬車は停まった。大邸宅の扉に飾られた紋章は封筒と同じ羽で囲まれたフルール・ド・リース。ドートリュシュ大公邸パレ・ヴォライユだ。
――本邸を使うなんて大胆ね。それとも偽装工作する余裕がない?
その思いは漂う違和感に消えた。初夏というのに大公邸は窓が閉め切られた上に鎧戸まで閉じられていた。
当然邸内は薄暗く、昼間なのにガス灯がともる廊下をシャルロットは歩いた。やがて男は大きな部屋の前に来て止まった。扉をノックすると「入れ」という声がした。聞き覚えのある声だった。
扉が開き、シャルロットは室内に足を踏み入れた。よどんだ空気と不快な異臭。ダイグル公爵邸と同じ状況がそこにあった。
立派な長椅子に大柄な男性が座っていた。ドートリュシュ大公だが、その姿はシャルロットを驚愕させた。
「…大公閣下?」
皇王以上の威厳があった大公は痩せてやつれ、目ばかりが異様な光を放っていたのだ。虚ろに宙に向けた目は何も見ておらず、震える手はガラスのパイプを握りしめていた。
収縮した瞳孔におびただしい発汗。以前、シュエット博士から聞いた薬物中毒の症状そのものだった。
「やっと来たか」
部屋の奥、影から抜け出るように現れたのはロシニョール男爵だった。声も出ない様子のシャルロットを見て、男爵は醜悪な笑顔を作った。
「見ろ、皇族だの二公以上の家柄だのとふんぞり返ってた奴が、あっというまにこのザマだ」
「何をしたのですか」
「こいつが勝手にやったんだよ。興味本位で得体の知れない薬に手を出すからだ」
やはりと言う思いで、積年の恨みつらみをぶつける男爵をシャルロットは見つめた。
「なあ、あんたが虫ケラ扱いしてさんざん汚れ仕事を押しつけた相手に邸を乗っ取られた気分はどうだ? 大公殿下」
長椅子を蹴りつけられても、大公はどんよりとした目を動かしもしなかった。ロシニョール男爵の狂ったような馬鹿笑いが部屋に響く。
やがて彼は沈黙するシャルロットに目を向けた。皇后の侍女を上から下まで値踏みするように眺める。
「…ふん、見てくれは少しはマシになったな。で、いつまでたっても連絡寄越さないのはどうしてだ?」
「名前しか知らない方のことをどうやって見分ければいいのですか」
平坦な声で答えると、男爵は鼻を鳴らした。前世のシャルロット・ロシニョールの人を小馬鹿にした顔が浮かび、自然と顔がこわばる。
「鈍いのは変わらないか、そんなの自分で調べろ」
「はい、ですからお聞きしました」
男爵が身を乗り出すのに、シャルロットは爆弾発言を打ち込んだ。
「ガロワ内務卿のご子息に」
「……何だと?」
「時期を見てお父様に報告するとおっしゃっていました。あなたと『赤い雄鶏』幹部との繋がりも調査すると…」
彼女の言葉が終わらないうちに、男爵は娘を殴りつけた。
「馬鹿野郎! 余計なことしやがって!」
「皇后宮への手紙類は全て王宮逓信係が確認します。男性は宮殿衛兵隊の許可がなければ入れません。内部の手引き無しで陛下に接触するなど不可能です。それを承知の上であんなメモを渡したのでしょう。私が不穏な噂を流すことを期待して」
かろうじて踏みとどまったシャルロットは整然と男爵に反論した。男爵は再度手を振り上げた。
「やかましい! こんな事をしてタダですむと思うなよ! ゴミ溜めから拾ってやったのに恩知らずが!!」
もう一度殴られてもシャルロットは怯まず彼を見据えた。
「私は奥様と違って何度殴られてもあなたに従わない。それはニドの街も同じ。疫病の年にあなたが薬の流通を止めたことを知れば、家族を亡くした人たちは死ぬまで抵抗する。エリクやプロスペール、大公の領軍を相手にしてもね。あなたはニドの街そのものを敵に回したのよ」
「…何で、それを……」
「知っているのは私だけじゃないわ」
顔を引きつらせてロシニョール男爵は廊下に向けて叫んだ。
「おい! 誰かいるか? こいつをあの女と同じ部屋に放り込んでおけ!」
入ってきたのはお仕着せではない私服の若い男性だった。シャルロットは彼に別の部屋に連れて行かれた。
そこは小さな部屋だった。窓は全て鎧戸が閉められ薄闇に慣れるのに時間がかかった。やがてシャルロットは部屋の中央の椅子に誰かが座っているのに気付いた。黒い見習い修道女の制服姿の女性が。
「モニカ!」
叫ぶなり彼女は椅子に駆け寄った。そこにいるのは間違いなく幼馴染みのモニカだった。
「大丈夫? 怪我はしてない? ……ねえ、どうしたの?」
見習い修道女は目を開けているが反応せず、ただ座り続けた。シャルロットは背筋が凍る思いがした。
「……まさか、あなたにまで薬を? そんな…」
すぐに病院に連れて行かなければ。そう思うものの、扉は施錠されてしまったし、廊下に出てもこの状態のモニカを連れていてはすぐに見つかってしまうだろう。
――どうすれば……。
仲間の侍女が不自然さに気付いてくれても、それが官憲を動かすまでに時間がかかるだろう。途方に暮れてモニカの手を握っていると、見習い修道女がのろのろと顔を向けた。やっと聞き取れるほどのか細い声がする。
「……エフィ……?」
「モニカ! 私よ!」
彼女の様子から大公よりはましな症状という見当が付いた。脱出計画を必死で考えるうち、不意に扉が開いた。振り向くシャルロットの前に若い女性が立っていた。
長い黒髪と青い瞳。誰よりもよく知った顔。ダイグル公爵令嬢デルフィーヌがそこにいた。




