33 赤い雄鶏の声⑦
皇王家のフルール・ド・リースの紋章を描いた馬車が豪華な公爵邸の前に停まる。
護衛の近衛士官が馬車から降りる男爵令嬢に手を貸した。
「ありがとうございます」
広大な屋敷の庭園を見渡し、シャルロットは首をかしげた。この季節であれば春から初夏にかけての花々が競うように咲き誇っているはずなのだが、妙に物寂しい。
微妙な違和感は公爵邸に入った後も続いた。邸内の作りも飾られた絵画や調度品も前世の記憶とほぼ同じなのに、受ける印象は異なっていた。
――贅を尽くした冷たい檻のようだったと思っていたけど、どうしてこんな淀んだ空気を感じるのかしら。
皇后からの使者であれば、当然公爵邸に事前通達がなされている。玄関ホールには執事を始め主立った使用人が整列しているが、公爵家の人間は一人もいなかった。
「皇后陛下より、公爵夫人へのお見舞いの品を持参しました。公爵閣下はご登城でしょうか」
シャルロットの言葉に執事の頬がぴくりと震えた。
「いえ、主は生憎と不調をきたし、見苦しい姿をお見せできないと…」
額から汗を垂らしながらの苦しい言い訳に、見舞い品を持つメイドや護衛の士官たちも不審そうな戸惑った様子だった。
「失礼します」
皇后宮からの人々の前に、老婦人が進み出た。〈デルフィーヌ〉の記憶にある人物、公爵夫人の侍女マダム・ビオロだ。ロシニョール男爵夫人の侍女同様に夫人の実家からのお付きで、公爵夫人に対して並々ならぬ忠誠心を持っている。
――あなたもいるのね、マダム・ビオロ。その割にご令嬢のマナーも作法もダンスも中途半端なのは何故かしらね。
彼女の薫陶を受けたのなら、前世に毛が生えた程度の物腰にならないはずなのにと〈デルフィーヌ〉は不思議に思った。
公爵夫人の侍女は皇后宮からの使いに対して完璧な礼をし、口上を述べた。
「皇后陛下におかれましては、恐れ多くもお見舞いの使者を遣わされたこと、感謝の念に堪えません。公爵夫人は長期にわたる闘病生活を送っておりますのでお見苦しい所もあるかと存じますが、どうぞこちらへ」
彼女の案内でシャルロットとメイド、護衛の士官二人は公爵邸の奥に進んだ。
公爵夫人の部屋に近づくにつれ、陰鬱な雰囲気は濃度を増すばかりだった。やがてある部屋の前に来るとマダム・ビオロは立ち止まり、扉をノックした。
「奥様、皇后陛下からのお見舞いの方々がお着きです」
返答はなかったが、侍女は扉をそっと開いた。なるべく住人を刺激しないような仕草は〈デルフィーヌ〉の記憶にあるものだった。
――音を立てないよう、いきなり近づかないよう、腫れ物に触るようだったわ。でも、それは……。
扉の所でシャルロットは公爵夫人に向けて礼をした。
「シャルロット・ロシニョールと申します、ダイグル公爵夫人。このたびは皇后陛下からお見舞いの品をお預かりして参りました。陛下は公爵夫人のご病状を大層気遣われ、一刻も早いご回復をとの仰せです」
「有り難きお心遣い」
目を潤ませながら侍女は頭を下げた。その奥で、誰かが身動ぐ気配がした。すぐさま侍女がそちらに駆け寄る。
「奥様、お目覚めですか」
意を決してシャルロットは公爵夫人が横たわる寝台へと歩いた。前世でも入ることのなかった母ジュヌヴィエーヴの部屋は、薬品臭ともまた違う匂いがした。侍女の手を借りて上体を起こした公爵夫人がこちらに顔を向けた。
――…これは、誰?
その女性は記憶にある公爵夫人とはあまりにかけ離れていた。遠くから憬れを込めて眺めた華やかな美貌はやつれ、暗褐色の髪は艶を失い、生気のない青い瞳はぼんやりと開かれただけだった。
「……誰なの?」
掠れた声で呼びかけられて、シャルロットは我に返った。侍女が子供相手にするように説明した。
「皇后陛下がお見舞いの使者を遣わしてくださいましたよ」
「ヴィクトワールが?」
ゆっくりと公爵夫人の前に進み出て、シャルロットは挨拶した。
「私は皇后宮の侍女で、こちらのご令嬢と同じ聖ミュリエルの女学園で…」
言葉が終わる前に、彼女に向けて何かが飛んできた。思わず手で顔を庇ったが、それは届く前に力なく床に落ちた。公爵夫人に枕を投げつけられたのだと理解するまで数瞬かかった。
「奥様!」
慌てて侍女が公爵夫人を押さえ、メイドに叫んだ。
「お薬をここに、早く!」
公爵夫人は両手で耳を押さえ、理解できない言葉を叫んでいる。動くこともできずにいるシャルロットの腕に、護衛の近衛士官がそっと触れた。
「こちらに」
促されるままに廊下に出て、シャルロットは大きく息を吐き出した。無気力からの突然の感情の暴発。それは見覚えがあるものだった。経験があるものだった。
頭の中で錯乱したベアトリス・モワイヨンが叫び、前世のデルフィーヌ・ダイグルが叫んでいる。
――絶対おかしい。刹那的であってもあれほど人生を楽しんでいた公爵夫人が、なぜ廃人同様になってしまったの。それも、まるで前世の私そっくりの…。
やがて疲れた顔で出てきたマダム・ビオロが皇后の使いに丁寧に詫びた。
「申し訳ございません。奥様は時折錯乱されることがありまして」
「…いえ」
公爵はこのような妻を放置しているのだろうか。医学院の医師たちは皇都で似たような症状の者を多く見てきたと言っていた。シャルロットは小声で尋ねた。
「お医者様に転地療養を勧められなかったのですか」
「公爵様は、ただの気鬱だとおっしゃるばかりで」
静かな言葉にマダム・ピオロの強い怒りが感じられた。シャルロットは無意識に公爵の部屋に顔を向けた。
「公爵閣下もご不調とか。ご挨拶も出来ないのでしょうか」
「……お待ちください」
何かを吹っ切ったようにマダム・ビオロは公爵の寝室へ彼らを導き、扉をノックした。
「旦那様。皇后陛下からのお使いが……」
細く扉を開けると、むっとするような濃厚な香料の匂いがした。奥の寝台から明らかに男女が睦み合う声がする。一人はダイグル公爵。もう一人は……。
「……ああ、可愛いデルフィーヌ…」
公爵の言葉にシャルロットは愕然とした。薄暗い寝室の大きな寝台であられもない姿で抱き合っているのは公爵父娘だった。蒼白になったシャルロットを近衛士官が支えた。
「大丈夫ですか?」
言葉もない中、〈デルフィーヌ〉は目まぐるしく記憶を照合させた。前世で実の父のロシニョール男爵相手に娼婦のように身体を絡ませていたシャルロット・ロシニョール。どう見ても骨抜きの様子で娘を溺愛する男が、ダイグル公爵に重なる。
――そうやって、前世であの男から欲しいものを貢がせていたのね。
たかが男爵令嬢にしては部屋に収まりきれないほどのドレスや贅沢品をシャルロット・ロシニョールは持っていた。
――これは最強の脅迫材料ですもの。この邸で公爵を誘惑して、公爵夫人にわざと気付かせたのね。それに…。
考えるだけで吐き気がするが、彼女の標的が兄にまで及んでいれば公爵夫人を精神的に追い込むのに充分だろう。学園や宮廷で競うように令嬢のご機嫌を取っていた親子を思えば可能性は高い。
そこに執事が血相を変えてやってきた。
「こ、これは……、マダム・ビオロ、何と言うことを!」
公爵夫人の侍女は禍々しい笑顔を作った。
「何が武のダイグルよ。奥様にとって、ここは地獄でしかないのに」
顔を赤くした執事が怒鳴りかけると、新たな人物が姿を見せた。公爵家の嫡男エルネストだった。青年は王宮からの使いを迎えるにはまるで相応しくない乱れた服装で、目を血走らせていた。
「若様!」
執事の制止を振り切り、彼は父の寝室に乱入した。激しい罵りの応酬が続く中、マダム・ビオロがそっとシャルロットたちを玄関へと誘導した。
「とんでもない所をお見せしました。お叱りはいかようにも受けます」
どう答えていいか分からずにいると、階上から恐ろしい悲鳴がした。
「旦那様!」
執事が叫び、メイドたちが金切り声を上げる混乱状態の中、公爵の寝室からふらふらとエルネストが出てきた。片手に軍刀を持ち、ゆっくりと階段を降りてくる。その刃からは赤い血が滴っていた。




