31 赤い雄鶏の声⑤
「今日は上の空なのね」
ディロンデル公爵令嬢に言われ、シャルロットは我に返った。慌てて目の前の資料を読もうとするが、どうにも頭に入ってこない。諦めて彼女は頷いた。
「……はい」
「理由をお聞きしてよろしいかしら?」
面白がるようなユージェニーの言葉に、観念したようにシャルロットは話し出した。
「…実は、皇太子殿下に非礼を働いてしまいまして……」
皇后の会食での一件を打ち明けると、公爵令嬢は快活な笑い声をたてた。
「それは勇敢な発言だわ。あなたっておしとやかに見えて情熱的なのね」
「私は皇后陛下の侍女でしかないのに、あのような分を弁えないことを」
「そんな他人事のような言い方をされては怒りたくなるのも理解できてよ。でも……」
公爵令嬢は声を潜めた。
「その伯爵令嬢の件が事実なら大変なことよ」
シャルロットも同意見だった。
「はい。それに、どうしても納得できないのです。いかに古い慣習が残る地方で疫病流行という極限状況であったとしても、いきなり領主一族を襲うような極端な行動に出るものでしょうか」
重税や賦役で長年領民を虐げてきたとかならともかく、エステルハージ伯爵は領民の祭りにも参加するほど気さくに接していたらしい。
「前兆が何もなかったとしたら不自然ね。首謀者に訊きたくても処刑されているのでしょう?」
「残念ながら」
「もし、彼らを扇動した者がいたなら…、その目的は領主を、いえ、領主一族の抹殺ね」
単に貴族の暗殺であれば伯爵一人を殺せばすむことだ。だが、彼の家族を巻き添えにする手段を選んだ。そうしなければならなかったからだ。
その可能性に皇太子は気付いているのだろうか。重い気分でシャルロットは考えた。
謝罪の機会は思いがけず早く訪れた。
皇后の主席侍女であるクロチルド・フラモン侯爵夫人がシャルロットを呼んだ。
「ご用でしょうか」
すぐにやってきた男爵令嬢に、主席侍女は告げた。
「陛下が、あなたが配合したお茶の葉を皇太子殿下にお届けするようにと」
「それは、陛下が体調を崩された時のものでしょうか」
「そうです。殿下もご不調を来す時がおありだとかで」
「畏まりました」
すぐさま茶葉を配合し陶器の壺に入れた。メイドにそれを持たせて皇太子宮に向かう。皇太子付きの侍女に挨拶して壺を渡すと、そのままシャルロットは皇后宮に戻ろうとした。だが、侍女にやんわりと引き留められた。
「殿下が皇后陛下へお礼の手紙を渡したいと仰せです。こちらでお待ちください」
「…はい」
気まずさを抱えてシャルロットは控えの間で待機した。
しばらくして扉が開き、彼女は侍女が手紙を持ってきてくれたと思って振り向いた。そこに立っていたのは皇太子ルイ・アレクサンドル本人だった。慌ててシャルロットは立ち上がり、礼をした。
「そのままで。ああ、わざわざ運んでくれたお茶をいただこう」
皇太子はそう言うと、男爵令嬢の向かい側に座った。何を置いてもとシャルロットは彼に向けて頭を下げた。
「殿下、先日は大変失礼な発言をしてしまったことお詫びいたします」
「謝ることなどない」
「しかし…」
恐る恐る顔を上げると皇太子は笑いを堪えていた。心なしか、彼を取り巻く空気が明瞭になっているような気がした。
「これまで、ファニアがいない世界に価値はないと思い込んでいた。それで自分の無気力さを正当化してきた。だが、私は生きているし、生きている者にしか出来ないことがある」
彼に出来ること、彼にしか出来ないことを推し進めるつもりだろうか。シャルロットは頭の中に引っかかっていたことを質問した。
「一つ伺ってよろしいでしょうか」
ルイ・アレクサンドルが頷き、彼女は続けた。
「殿下は、エステルハージ伯爵領での暴動を自然発生的なものとお考えですか?」
皇太子は沈黙した。それが答えだった。だが、真実を追究するにしても外国では彼の力は届かない。方策を思案する内、あることが思い出された。
「…フィンク製薬」
驚く皇太子にシャルロットは言った。
「あの会社はフィンク半島で興りました。社員にはかの地の者も多いと聞きます。事件を知る者か知るための伝を持つ者がいるかも知れません」
「なるほど、考えてみよう。しかし…」
ルイ・アレクサンドルは冗談めかして微笑んだ。
「母上の侍女でなければ秘書役として引き抜きたいほどだ」
「それはダイグル公爵令嬢のお役目では」
「彼女は力を持たない男性に興味を持たない」
きっぱりとした答えにシャルロットは困惑した。思っていたより彼らの関係は冷え切っていると言うことだろうか。
淹れられたお茶を飲み、皇太子は満足げに頷いた。
「確かに、気分がすっきりする香りと味だ」
「恐れ入ります」
「優雅に湖面を滑る白鳥は、隼の鋭さと梟の知恵も持ち合わせているようだ」
「それは皆様の幻想です」
「白鳥でも隼でも梟でもないなら、何なのかな」
彼のからかいにシャルロットは即答した。
「ヒバリです。小さな街の」
「なら、いつかは君の街に帰るのだね」
「はい、必ず」
どこか納得した様子で皇太子は退出した。皇太子宮から皇后宮へ繋がる廊下まで来たシャルロットは、肩の荷を下ろしたような気分だった。
――殿下が寛大なお方でよかった。何だか生き生きとしておいでだったし。
現世で彼と対面しても特別な感情を持たない自分は薄情な気がしたが、前世で彼を理解していたのかと自問すれば心許ない。
――幻影を見ていたのは私も同じね。あの方は幸福の象徴だったわ。
皇太子妃になることが全てで、それでしか家族の愛情を繋ぎ止められないとあの頃のデルフィーヌ・ダイグルは思い込んでいた。現世での皇太子のよりよき人生を願うと共に、懸念されるのはダイグル公爵令嬢のことだった。
力を持たない男に興味はない。それは前世でのシャルロット・ロシニョールのやり口そのものだ。身分の低い男性から皇太子に至るまで、彼女が一段上るたびに他人を踏みつけにして来た。
――あの女の厄介な所は、踏みつけにされたことを本人に気付かせないところよ。
完全に破滅し彼女の脅威とならない段階まで心を掴み操る。その様を魔女のようだと思ったことも数え切れない。
――でも、いくら心が通ってないとはいえ、皇国の皇太子より権力を持つ者なんて……。
皇王を狙うなど、あの皇后が決して見逃すはずがない。なら、ダイグル公爵令嬢の真の狙いはどこにあるのだろう。
考えながら歩いていると、前方から侍女たちを引き連れた貴婦人がやってきた。それが誰かを知ると同時にシャルロットは壁際に下がった。
ダイグル公爵令嬢だった。
メイドと共に礼をする前を公爵令嬢は歩いた。去り際に彼女は小さく吐き捨てた。
「いい気にならないことね」
皇太子とのことを全て把握していると言いたいのか、彼の信頼を得たことなど何の痛痒にもならないと言いたいのか判断できなかった。
公爵令嬢の侍女たちに露骨に探るような視線を向けられても、シャルロットはおとなしく頭を下げ続けた。
一行が遠ざかると、男爵令嬢は大きく息をついた。皇太子宮に行くかと思えた彼女たちは王宮から庭園に出て行った。そこに停まっていた四頭立ての豪華な馬車にダイグル公爵令嬢は乗り込んだ。
馬車の紋は公爵家の剣を掴む鷲ではなかった。シャルロットは目をこらした。
扉に描かれていたのは王家の象徴であるフルール・ド・リースとそれを囲む羽根飾り。
――ドートリュシュ大公家の紋章……。
皇位継承権第二位の大貴族のものだった。呆然としながらシャルロットは宮殿から出発する馬車を見送った。
――何を考えているの、シャルロット・ロシニョール。
膨れ上がる疑惑が彼女を立ちすくませた。
馬車の到着を知らされても、パレ・ヴォライユの主は堂々とした体躯を安楽椅子から動かさなかった。
「さて、ダイグル公のご息女がどんな用件やら」
居室の扉が開き、姿を現した公爵令嬢はやや素っ気ない礼をした。ドートリュシュ大公が内心で減点する中、彼女は口を開いた。
「突然の訪問をお許しくださり感謝します」
「あのような意味ありげな手紙を寄越すからには、重大な用件なのだろうな」
「もちろんです」
「皇太子の心が他の女にあると泣きつくならお門違いだ」
大公の意地悪い言いようにも、ダイグル公爵令嬢は微笑みを絶やさなかった。
「そのような些細なことではありません。皇国の未来に関わる問題です」
ほう、と大公は表情を変えた。
「聞かせてもらおうか」
「お人払いを」
公爵令嬢の言葉に大公が片手を上げ、居室の扉は閉じられた。




