3 ニド街のヒバリ②
家の中を歩き回るようになって数日後、来訪者があった。
「すみません、わざわざ」
母イルマが丁寧に礼を言う相手は診察鞄を持っていた。癖のある灰色の髪と丸眼鏡の彼の指先から漂う薬品臭に、デルフィーヌは医者だろうと見当を付けた。
果たして彼はエフィの左手首の傷を丁寧に診察した。
「うん、もう少ししたら抜糸していいかな」
「左手は元通りに使えるようになるんでしょうか」
心配そうに母親が尋ねると、気の弱そうな青年医師は安心させるように微笑んだ。
「神経を傷つけてる様子はないし、訓練していけば大丈夫でしょう。エフィ、左手をこうやってごらん」
彼は自分の手で開いたり閉じたりを繰り返した。幼女が真似をして繰り返すと、医師は大きく頷いた。
「最初は引きつった感じがするかも知れないけど、毎日繰り返せば慣れるよ。ただし、酷く痛んだりしたらやめること。いいね」
エフィはこくんと頷いた。母親が娘の頭を撫でて囁いた。
「ピエール先生にありがとうは?」
「ありがとう、先生」
丸眼鏡の奥の目を細めて、医師は帰っていった。一緒に聞いていた祖母が安堵のため息を漏らした。
「良かったね、エフィ」
早速手を開いたり閉じたりを繰り返す幼女は、いつものように母親の後をついて回り家の手伝いをした。
家事が一通り終わる午後に、母と祖母は窓際のベンチに座って糸紡ぎと下請けの縫い物を始めた。エフィが母親の膝枕でうとうとしていると、イルマが不意に窓の外を見た。祖母が不思議そうに問いかける。
「何かあるのかい?」
「さっき、ヒバリの声がした気がして…」
娘が眠っているのを見て、母親は呟いた。
「この子を生んだ時も、窓からヒバリの声がしたの。誰にも望まれない子を生んだと一人で泣いてたあたしに、あの鳥だけが祝福してくれた気がして、気がついたらこの子を『ヒバリ』と呼んでた…」
しゃべり始めたばかりのエフィは自分の名前「アルエット」を正しく発音できず、変な所で息継ぎするのが周囲には『エフィ』と聞こえ、やがてそれが愛称になったことを、彼女たちは懐かしそうに語った。
「この子は母親に似て指先が器用だから、将来はいいお針子になれそうだよ」
祖母が太鼓判を押し、母は愛しそうに娘の髪を撫でた。
やがて左手首の抜糸がすみ、以前と変わらないくらい元気になると外に遊びに行く許可が下りた。
「暗くならないうちに帰ってくるのよ」
心配する母親に手を振って、エフィは近所の子供たちの遊び場である広場に走った。
この界隈は低所得者向けの集合住宅が建ち並び、細い路地と階段が複雑に張り巡らされている。知らない者が入り込めば迷子になること確実で、いつしか元の区画名は忘れ去られ、『鳥の巣』と呼ばれるようになった。
生まれた時からここを駆け回って育った子供たちにとって迷路のような町は格好の遊び場だった。
エフィの意識の奥でそれらを知ったデルフィーヌは、狭い道を挟んだ建物の間にロープが渡され洗濯物がはためいている風景を物珍しげに眺めた。
この女の子の日常は元の意識が優先されるのか、デルフィーヌは奥から眺めるような感覚だった。
やがて物売りの屋台がひしめく広場にエフィはやってきた。彼女を目ざとく見つけた子供が手を振った。
「エフィ!」
たちまち、近所の子供たちが取り囲んだ。少し年かさで茶色い髪の女の子が心配そうに屈み込んだ。
「もう大丈夫なの?」
「うん!」
答えたエフィは女の子が左手首の包帯を見つめるのに気づき、慌てて右手で隠すように握った。
「痛くないし、ちゃんと動くよ」
左手を勢いよく握り開きを繰り返すと、女の子はやっと笑顔になった。そして、自分の影に隠れていた小さな男の子を引っ張り出した。
「ほら、ジョス。ちゃんとお礼言いいなさいよ。あんたのせいでエフィが怪我したんだからね」
自分が覚醒する原因となった事故の記憶がデルフィーヌに流れ込んできた。広場で遊ぶうちに小さなジョスが階段の方に行き、躓いたこと。階段から落ちかけた彼を庇ってエフィが一緒に転げ落ちてしまったこと。刃物が並ぶ研ぎ屋の屋台に突っ込んで左手首を切ってしまったこと。
エフィよりも小さなジョスが、もじもじしながら言った。
「ありがと、エフィ」
そして、ちゃんと言えたことに安心したのか予想外の事も付け加えた。
「お嫁さんになって」
呆れ顔で女の子がジョスの頭をはたいた。
「どさくさに紛れて何言ってんのよ」
「痛いって、モニカ姉ちゃん」
「エフィ、こいつの言うことなんか気にしなくていいから」
モニカに言われ、エフィは笑った。
「うん、父さんに聞いてみる」
「……え、ロジェおじさんに…」
モニカは小さな弟をつついた。
「覚悟しときなよ、あんた」
モニカたちと別れ、幼女は父と兄が働く家具工房に行った。
「父さん、お兄ちゃん」
家具の細工をしていた職人たちが、愛らしい客人に笑顔になった。
「ロジェ、エフィが来てるぞ」
「怪我したって? もういいのか?」
職人たちに囲まれて、エフィは頷いた。
「ピエール先生が治してくれたの」
「そっか、若いけどいい先生だよな」
「教会公認の医者なんかぼったくりなのに」
彼らが好き勝手に言い合ううちに、父ロジェと兄マルセルがやってきた。
「エフィ! 来てたんだ」
「外で遊んでいいって母さんが」
「そっかそっか、よかったな」
兄は妹の頭を撫で、父は無言で娘を抱き上げた。いかにも職人気質で無骨なロジェは、口数は少ないものの義理の娘を可愛がっているのは周知の事実だった。工房の者がからかいの声をかける。
「エフィは可愛いよな、ロジェ」
「どうする? あと十年もしたらニド中の若い野郎がこの子に会いに行列作るぜ」
職人仲間に冷やかされて、父親の額がぴくりとなった。無邪気な娘はさっきあったことを報告した。
「ジョスがお嫁さんになってって言ったよ」
父と兄が揃って硬直した。マルセルが低い声で問いかけた。
「どうする? 父さん」
「……とりあえず、家具の組み立て競争からだな」
その後は細工勝負に梱包勝負と婿撃退作戦を練る二人を、職人たちは呆れ顔で見守った。
久しぶりに外で遊んだことで疲れたのか、エフィは早々に就寝した。幼女の意識下でデルフィーヌはこれまでのことを思った。
決して裕福ではない中、寄り添って暮らしている家族。それは周囲の人々も同じだ。ニドの街自体が大きな家族のように住人を包んでいるように、かつての公爵令嬢は感じていた。
時々、訳もなくエフィとその家族に苛立つのは、この女の子が家族に愛されているからだ。そして、前世での自分が誰にも愛されなかったことを思い知らされるからだ。
そのことが市井の子供として生まれ変わった理由なのだとしたら……。
――なら、それでもいいかもしれない。
いつしかデルフィーヌはそう考えるようになっていた。このまま、ニドの街で成長し、同じ暮らしの者と一緒になり、イルマのような母親になるのなら。
家と政治の道具にされ、愛情を求めて叶えられず自滅した前世よりよほど幸福なのではないのだろうか。北限の塔の惨劇を思い起こすたびにその思いは強くなっている。
ここは貧しくとも自分の居場所がある。愛してくれる家族がいる。それだけでもデルフィーヌには貴重でかけがえのないものだった。