29 赤い雄鶏の声③
鳥の声が聞こえたような気がして、ふとシャルロットは顔を上げた。窓の外の空は寒々しい色が抜け、穏やかな青が広がっていた。
「どうしたの?」
同僚の侍女に訊かれ、男爵令嬢は首を振った。
「鳥が鳴いてるような気がしたので」
「ヒバリかしらね。宮殿の庭園には鳥も動物も多いから」
シャルロットが皇后付きの侍女として宮廷に上がって三ヶ月が経った。ヴィクトワール皇后に仕えて分かったことがある。
――皇王陛下とは表面的であっても穏やかな関係が築けている。皇太子殿下とは月に一回共に食事をされる程度。ダイグル公爵令嬢は……。
息子の婚約者だというのに、皇后は公爵令嬢と面会したことすらなかった。
――私は週に一回はお茶に呼ばれたし、季節の物をお届けしたりでむしろ皇太子殿下よりも頻繁にお会いしていたわ。
更に気掛かりなのは、皇太子ルイ・アレクサンドルが婚約者と共に夜会や公式行事に出席する姿が見られないことだ。あれほど皇太子妃の地位に執着していたシャルロット・ロシニョールが、何の障害もなく婚約者でいられるというのに。
彼女は何気なく同僚に訊いてみた。
「ダイグル公爵令嬢はあまりこちらに来られないのでしょうか」
先輩の侍女は周囲を見回し、こっそりと教えくれた。
「皇后陛下とはあまり仲がよろしくないのよ。殿下にべったりでご家族から引き離そうとする方だから。でも、最近の殿下はご一緒に出かけられないわね」
――現世でも同性とのまともな人間関係を構築できないのね。あの女の場合、男性でも盲目的な信奉者か敵としか分類してなかったけど。でも、殿下を放置するなんて何を考えているのかしら。前世ではあんな真似まで…。
思い出すだけで怒りに目がくらむような場面が鮮明に甦った。
* *
「今、何と言ったの?」
ベルフォンテーヌ宮殿のバルコニー。夜会が催される中でデルフィーヌ・ダイグルはシャルロット・ロシニョールと対峙していた。
今夜も皇太子ルイ・アレクサンドルは婚約者ではなく男爵令嬢を伴って出席した。周囲の憐憫の視線に耐えていたデルフィーヌは皇太子の侍従に呼ばれてここに来たのに、待っていたのは顔も見たくない女だった。シャルロット・ロシニョールは薔薇色の唇を可憐に綻ばせた。
「聞こえなかったの? 私、懐妊したのよ」
「……誰の…」
「ルイ・アレクサンドル様に決まってるでしょ。とても喜んでくださったわ」
目の前が赤くなりそうな怒りに公爵令嬢は肩を震わせた。
「恥さらしな。私生児を作るなんて」
「口のきき方に気をつけなさいよ」
小柄な男爵令嬢が、ずいと公爵令嬢に詰め寄った。
「殿下はあんたとの婚約を白紙に戻す手続きをしてるわ。仕方ないわね、私の暗殺を企てた、本当なら重罪人なんだから」
デルフィーヌは唇を噛んだ。親身に接してくれる護衛にシャルロット・ロシニョールに対する憤懣と憎悪を漏らし、消えてしまえばいいと罵ったのを暗殺計画として密告されたのだ。
「私の護衛までたらし込んで罪を捏造した癖に。それに、ダイグル公爵家に恥をかかせてただですむ訳が…」
「世継ぎが出来たからに決まってるでしょ」
「男爵家ふぜいが皇太子妃を出せるとでも思っているの?」
「だ・か・ら、相応しい家の養女になるのよ。どこだか分かる?」
シャルロット・ロシニョールは華奢な指をデルフィーヌ・ダイグルに突きつけた。
「ダイグル公爵家よ。私は公爵令嬢になるの」
「……嘘、そんなことお父様が許すはず…」
「出来の悪い娘の代わりに私が皇太子妃になってあげるの。よろしくね、お義姉様」
甘ったるい声にしたたるような悪意を滲ませてシャルロット・ロシニョールは囁いた。彼女が笑い声を残して立ち去った後、どうやって公爵邸に戻ったのかデルフィーヌは覚えていなかった。
それからずっと部屋に閉じこもり、夜も昼も寝台で膝を抱えては際限なく涙をこぼす日が続いた。
やがて扉が開き、入ってきた者がいた。彼女も知る人だ。穏やかな声が呼びかけた。そして……
* *
シャルロットは額を押さえた。
――……また。どうしてあの頃を思い出そうとするとこうなるの。
決定的な周囲の裏切りを突きつけられてから北限の塔に移され、悲惨な最期を遂げるまでの記憶がどうしても正確に思い出せない。かろうじてシャルロットに切りつけたこと、祝婚の鐘に逆上し自傷の末に塔から身を投げたことが浮かぶくらいだ。
――あれより最悪なことなんてないはずなのに、何が蓋をしているの? まるで……。
意図的に封じられているかのようだ。
その考えは〈デルフィーヌ〉を慄然とさせた。これまで転生という超自然的な事象を憎悪に狂って自殺した事への罰か、愚かさを天上の者が憐れんでくれたのかと思ってきた。ならば、あのシャルロット・ロシニョールが転生しているのは何故だろう。それも互いを取り替えた人生を送っていることは何者かが意図した結果なのだろうか。
――だからといって、その何かに従う義理なんてないわ。
シャルロットは頭痛を堪えて顔を上げた。
「思い出さなくては。そして現世との違いを見つけて、何が原因なのかを究明するのよ」
この年、リーリオニア皇国は紛争の地フィンク半島に侵攻し併合する。その結果をデルフィーヌ・ダイグルは知ることなく死んでしまったが、かの地の民族主義運動の激しさからしても平和裏に終わるとは思えない。
――前世の皇太子殿下は侵攻や併合に反対などしなかった。シャルロット・ロシニョールを初恋の彼女と完全に置き換えていたから? でも現世ではフィンク半島諸国に共鳴して皇王陛下を怒らせている。皇后陛下はお二人の仲介をする意思はおありなのかしら。
もし戦争状態になれば当然兄マルセルは動員されるだろう。生きて戻れるかも分からない。その可能性に〈デルフィーヌ〉は胸の奥が凍り付くような感覚に囚われた。
思考の迷路にはまり込んでいた時、困り果てた顔のメイドが控え室に入ってきた。侍女たちが不思議そうに彼女に声をかけた。
「あら、陛下にお茶をお出ししたばかりなのに」
運ばれてきた茶器類は手も付けられていなかった。半泣きの顔でメイドは訴えた。
「それが、陛下は気分が優れないとおっしゃって、追い払われてしまったんです。どうすればいいのでしょうか」
――そう、季節の変わり目には弱い方だったわね。
シャルロットは皇后のために用意された茶葉を収納した棚の前に立った。
「南方の、アサーテ地方の茶葉に、トルドの茶葉を少し……」
かつて皇后のために自ら淹れた茶葉の配合は今でも覚えている。シャルロットはメイドに言った。
「お湯を持ってきて」
「は、はい」
茶器を並べる彼女に侍女たちが尋ねた。
「それを持っていくつもりなの?」
「家の者がこの季節に体調を崩すとこのお茶を飲んでいたのです。陛下のお気に召すかどうかは分かりませんが」
腰が引けた様子の彼女たちに、シャルロットは笑いながら告げた。
「私が勝手にすることですので、お叱りを受けるのは私一人です」
やがて戻ってきたメイドからお湯を受け取り、男爵令嬢はポットに注いだ。
そして、メイドを連れて皇后の私室へ取り次いでもらった。
「下がれと言ったはずよ」
不機嫌なヴィクトワール皇后に深々と頭を下げ、シャルロットは説明した。
「差し出がましいですが、この時期の体調を整える効果がある茶葉を選んで参りました」
入室したのがシャルロットと知り、皇后は眉をひそめた。隣で主席侍女が不安そうに見守る中、彼女はカップに手を伸ばした。一口飲んで目を瞠る。
「……懐かしい味ね」
そうかも知れないと〈デルフィーヌ〉は思った。前世でこの季節にダイグル公爵夫人が好んで飲んでいたものだ。皇后となった又従姉妹と娘時代は一緒に飲んでいたと語っていた記憶がある。
カップを置き、皇后は最も年若い侍女を見下ろした。
「下がりなさい。それと」
主席侍女を振り向きヴィクトワール皇后はついでのように言いつけた。
「次のルイ・アレクサンドルとの会食にこの者を同席させなさい」
思わず顔を上げたシャルロットに、皇后は有無を言わせぬ視線を向けた。慌てて男爵令嬢は頭を下げた。
「はい、光栄に存じます」
皇后の真意は分からないが、ゴシップ誌に嗅ぎつけられないことを祈るばかりだった。




