25 白鳥の園⑱
一瞬で、〈デルフィーヌ〉はニドの街のエフィに戻っていた。裕福でなくとも愛情に包まれていた子供時代に。
兄のマルセルの方は、まだ現実感がない様子だった。
「……エフィ、か?」
思わず両手を差し出したものの、正装した相手を前に気が引けるのは仕方ないのかもしれない。
「…何か、本物のお姫様みたいだ。ニドのことは忘れられたかと…」
「そんなことない! 手紙をくれたでしょ、助けてくれるって」
マルセルの外套を掴んでシャルロットは叫んだ。若草色の瞳が涙で潤むのを見て、兄は妹の頭をそっと撫でた。
「ごめんな、嘘つきな兄貴で」
シャルロットは首を振り、彼にしがみついた。
もらい泣きをしていたモニカが、時計塔の鐘を聞いて焦った。
「急がないと。エフィ、こっちに馬車があるから」
三人はマルセルが用意した馬車へと走った。
「飛ばすぞ、掴まってろ」
マルセルが御者台から警告し、馬を走らせた。
馬車は市街地を抜け、王宮へとひた走った。門の衛兵に王宮警備章を見せ、マルセルは馬車寄せに付けた。シャルロットはモニカに抱えられるようにデビュタントの控えの間に急いだ。
そこではブリュノ夫妻がやきもきしながら待っていた。
「よかった、遅いから心配してたのよ」
「迎えの馬車の御者が乱暴な人で、警備兵が助けてくれたんです、マダム」
モニカが説明し、ブリュノは納得顔だった。
「この時期は荒稼ぎを狙う者も集まるからな」
「エフィ、ドレスは大丈夫?」
モニカに囁かれ、シャルロットは頷いた。もみ合いもあったが冬用の厚手のケープのおかげで、ドレスには汚れも破損もない。ただ、問題は別にあった。
「ああ、髪が崩れてしまったわね」
結い上げていた髪のシニヨンが落ちかかっている。舞踏家であるブリュノ夫人はさっさとシャルロットの髪を解いた。
「結い直してる暇はないから、波を整えて流しましょう」
そしてモニカと二人がかりで赤みを帯びたブロンドを広げ、簡単な編み込みを加えた。最後に小ぶりなティアラの位置を直してブリュノ夫人は満足げに微笑んだ。
「とても綺麗よ。あなた、ちゃんとエスコート役を務めてね」
「分かってるよ。さあ、行こう」
ブリュノの腕に手を添え、シャルロットはデビュタントの列に並んだ。ケープを抱えたモニカが小声で激励した。
「がんばって」
ファンファーレが流れ、白いデビュタントドレスの令嬢たちがエスコート役と一緒に階段を降りていく。典礼官がひとりずつ名前を読み上げた。
「ダイグル公爵家デルフィーヌ嬢」
最も身分の高い公爵令嬢が真っ先に階段を降りて淑女の礼をし、エスコート役の皇太子の手を取り白鳥の間を歩いた。皇王と皇后の前で最敬礼をして中央に立つ。
順々に大人の仲間入りをする少女たちが階段を降りていった。エスコート役は同じくデビューする少年の場合もあれば家族や婚約者の場合もある。
ブリュノ夫人が階段最上のカーテンの陰という特等席を教えてくれ、モニカとマルセルは遙か下で繰り広げられる絵物語のような光景に見とれていた。
「次、エフィよ。あのドレス、意地悪で破られたのを必死で直したの。でも前よりずっといいわ」
モニカが囁くのにも生返事で、マルセルは小柄な少女をひたすら見つめた。
「ロシニョール男爵家シャルロット嬢」
見事な礼を見せる男爵令嬢に、周囲はざわめいた。彼女のドレスはこの場の誰とも違っていた。形こそ流行の基本を抑えただけのものだったが、何より目を引くのはボディスを覆う白鳥の羽根だった。白い羽根は後ろの腰当て部分や髪の編み込み部分にも飾られている。ちりばめられたビジューの輝きと相まって今にも翼と化しそうな錯覚さえ与えるほど、清雅で幻想的なドレスだった。
ブリュノに手を取られ、シャルロットは皇王と皇后の前で深く膝を折った。皇后ヴィクトワールが扇をくゆらしながら目を細めた。
「何と可憐な。本物の白鳥が人に変化したようだこと」
隣で皇王も上機嫌で頷いている。
「お褒めのお言葉、光栄に存じます」
そう答えてシャルロットはダンスを始める位置に付いた。壁に並んだ招待客は尚も囁き合っていた。
「あの皇后陛下があれほどお褒めになるとは珍しい」
「ダイグル公爵令嬢にさえ厳しい態度を崩されないのに」
それらを黙らせるように楽団が流麗なワルツを奏で始めた。白いドレスの少女たちがそれに誘われるように踊り始める。
本来主役であるはずの公爵令嬢と皇太子を目当てに集まった人々は、ともすれば別の一組に目を奪われがちだった。添え物のはずの下級貴族令嬢に。舞踏家であるブリュノのリードは巧みで、それに引けを取らないロシニョール男爵令嬢のステップも見事だった。
赤みを帯びたブロンドがシャンデリアの光を反射し、それ自体が宝石であるかのように煌めきながら翻る。純白の鳥が舞い降りたような姿に賞賛の拍手が注がれた。
天井近くの階段からでも、輝くような男爵令嬢を鑑賞できた。モニカはマルセルの腕を掴みっぱなしだった。
「凄いわ、エフィ。一番綺麗よ」
王宮の警備兵は夢の中のようにただ見とれていた。
この番狂わせのような状況は、最も高貴な一組にも波紋を及ぼしていた。
「ルイ・アレクサンドル様?」
婚約者と踊りながら意識を別人に向けている皇太子にダイグル公爵令嬢が呼びかけた。
「すまない。どこかで見た令嬢だと思ったが、同じ授業を受けていたな」
その視線の先にシャルロットがいるのを見て、公爵令嬢は唇を噛んだ。
やがて最初のワルツが終わった。あとは舞踏手帳に書き込んだ順に踊ることになっている。今夜に限ってはデビュー組が優先されるが。
ロシニョール男爵令嬢の周囲にも男性陣が集まったが、互いを牽制し合っているようだった。
「踊りたければ申し込めばいいのに」
呆れ顔のブリュノに、シャルロットは笑いながら言った。
「先生の踊りが上手すぎて、皆様比べられるのを怖がっているのでしょう」
二人の元に皇王夫妻の侍従が歩み寄った。
「失礼、ロシニョール男爵令嬢、皇后陛下がお呼びです」
驚きながらもシャルロットは彼の後に従った。皇后の前で礼をすると、彼女は隣に立つ息子に向けて言った。
「ルイ・アレクサンドル。こちらの白鳥姫と踊りなさい」
シャルロットは耳を疑ったが、皇后の言葉に反対など出来ない。皇太子に向けて一礼し、彼の手を取った。白鳥の間に戦慄に近いざわめきが起きた。ちらりとダイグル公爵親子を見ると、蒼白になりながらも静観していた。
皇太子と向き合い、基本姿勢から音楽に乗って動き出す。流れるようなステップにルイ・アレクサンドルは微笑んだ。
「本当にダンスが上手だ」
「ありがとうございます」
礼儀正しく答えながらも〈デルフィーヌ〉の胸中は複雑だった。
――ダンスは勝手に上手くなったりしません。あなたが離れていくばかりの日々の中で、爪先を腫らしながら練習したからです。
少しでも彼に相応しいようにと必死だった。しかし、いつしか皇太子がダンスに誘うのはシャルロット・ロシニョールばかりになっていった。
今、目を伏せていてもルイ・アレクサンドルが自分を見つめているのが分かる。前世での、一度でいいから自分だけを見て踊ってほしいという願いが実現しているのに、達成感も幸福感もかけらもなかった。
曲が終わり皇太子と挨拶して別れると、ブリュノが心配そうに訊いた。
「顔色が悪いが、大丈夫かい?」
「少し緊張してしまって」
そう答え、皇王夫妻が退出したら早めに帰ろうとシャルロットは考えた。だが、意外な事態が予定を狂わせた。
「ロシニョール男爵令嬢、こちらへいらしてください」
彼女を呼びに来たのは皇后の後ろに控えていた侍女だった。不審に思いつつも彼女に付いていくと、広大なベルフォンテーヌ宮殿南西翼へと案内された。そこは通称「皇后宮」と呼ばれるヴィクトワール皇后が支配する宮殿だった。
まだ何か用があるのだろうかと、一歩ごとに募る不安を押し殺しながらシャルロットは回廊を進んだ。




