2 ニド街のヒバリ①
意識の奥底で一瞬、その声を聞いた気がした。
『哀れで愛しい公爵令嬢。期待しているよ、新たな舞台で君がどんな役割を果たしてくれるのか』
聞き覚えのある声は、すぐに忘却へと溶けて消えた。
耳に流れ込んでくる会話が覚醒を促した。
重い瞼を微かに開き、ぼんやりとした周囲を眺める。所々に染みが浮き出ている木材の天井がまず目に入った。
まだはっきりしない意識の中で、デルフィーヌは違和感に囚われた。北限の塔にこんな部屋があっただろうか。ゆっくりと首を動かすと更に違和感が膨れ上がった。
狭い部屋にあるのは数点の粗末な家具のみ。使用人の部屋でもなければありえない質素さだった。
記憶が甦った時、彼女は愕然とした。自分は確かに塔の最上部から飛び降りたはずだ。地面に積雪があっても、あの高さで生き延びるなど考えられない。
起きようとすれば全身が痛んだ。特に激しい痛みを訴えるのは左手首、デルフィーヌが錯乱状態で傷つけた箇所だ。
そろそろと目の前に動かした左手首には包帯が巻かれていた。
――……え?
それよりも目を瞠らせたのは、その手の小ささだった。まるで幼い子供のものにしか見えない。
――どういうことなの?
身じろぎして再度痛む身体にうめき声が漏れた。すると、額にそっと誰かの手が触れた。
「目が覚めたの? エフィ」
優しく髪を撫でて囁くのは女性だった。貧相な身なりからして平民階級のようだ。呆然としていると、別の人物が顔を覗き込んできた。
「まだ薬が効いてるんだね」
そう言って老女が寝台脇の椅子に腰掛けた。混乱状態のデルフィーヌは彼女たちに説明を求めようとした。しかし、少しでも動けば容赦なく痛みが襲ってくる。むずかる彼女を若い方の女性がそっと押し止めた。
「痛むのね。あちこちぶつけたし手首を切ってしまったし」
理解できない状況が恐怖に変わり、デルフィーヌの意識を持つ幼女は涙ぐんだ。若い女性がそっと彼女の顔を拭いた。
「もう大丈夫よ。助かって本当に良かった」
女性の優しげな茶色の瞳にも涙が浮かんでいた。疲れ果てたデルフィーヌは目を閉じた。
悪い夢なのだと思おうとしたが、次に目を覚ました時も状況は変わらなかった。デルフィーヌはエフィと呼ばれる幼女で、貧しげな家で家族と暮らしている。
最初に目を覚ました時に側にいたのは母親と祖母。他に父親と兄も様子を見に来た。家にはいないが独立して別の町に転居した兄もいるらしい。
自分は酷い怪我をして何日も眠っていたようだ。あの北限の塔で自ら切りつけたのとそっくりな傷が左手首にあるのが薄気味悪かった。
身動きも出来ないため寝ているしかないのだが、うとうとする中で母と祖母の会話を聞くうちに現状の断片が掴めてきた。
「ジョスを庇って階段から落ちたと聞いた時は心臓が止まるかと思った」
「研ぎ屋の屋台に突っ込んでしまうなんてね」
「でも、ピエール先生が近くを通りかかっていたおかげで、すぐに手当てしてもらえたから」
「手首の傷は残ってしまいそうだけど」
祖母は糸車を回し、母は縫い物をしながらの雑談だった。
左手首の包帯に目をやり、デルフィーヌは溜め息をついた。神の御技か悪魔の気まぐれか知らないが、自分は『エフィ』として生きていかなければならないようだ。
――こんな惨めな生活をしろと言うの?
怒りを抱えると、頭の中に最後に吹雪の中で聞いた鐘の音が甦った。自傷に自殺。葬儀どころか教会の墓地にも埋葬してもらえない最期だった。
あの後、自分の骸はどうなったのだろう。あの女は皇太子殿下とのうのうと王宮で暮らしたのだろうか。
胸の中で抑えきれない激情が荒れ狂う。叫ぶことも暴れることも出来ない無力な身体が忌々しかった。
幼女の中の葛藤を知らない二人は尚も会話を続けていた。
「エフィが良くなったら、お祈りに行かなきゃね」
老婆の嬉しそうな言葉に、母は歯切れ悪い返答をした。
「…あたしは、本当なら教会に入ることも許されないけど」
「何度も言うけどね、イルマ」
溜め息交じりに老婆は反論した。
「使用人に手を出しといて身ごもったら追い出すような男のために、あんたが人生を棒に振る事なんて無いんだよ」
「お義母さんたちには本当に感謝しています。あたしみたいな女を迎え入れてくれて」
「お礼を言いたいのはこっちだよ。あたしは足を悪くして家のことも満足に出来なくなって困ってた所に、あんたが赤ん坊のエフィを抱えて働き口を探してたのが神様の思し召しでなくて何だい」
母は小さく笑い、記憶を辿るように言った。
「今も夢の様な気がするんです。ロジェの後添いになれて、マルセルにも母さんと言ってもらえて」
「そして、あたしは器量よしで働き者の嫁と可愛い孫ができた。エフィは本当にいい子だよ」
「今日、またリーズが野菜をくれたんです。ジョスを助けたくれたお礼だって。エフィが目を覚ましたって言ったら、とても喜んでくれて」
「子供は治りが早いからね、すぐにジョスやモニカたちとまた遊べるようになるさ」
ただの貧乏家族だと思っていたこの家にも、複雑な事情があるのだとデルフィーヌは理解した。
娘が目を覚ましたのに気付いて、イルマがベッドの側にやってきた。エフィの額に手を当てて様子を見る。
「まだ少し熱があるわね。スープは食べられる?」
戸惑い気味に幼い娘が頷くのに、母親は微笑んだ。
「待っててね」
額にキスをして彼女は離れていった。エフィの意識下でデルフィーヌは前世での公爵家を思い出した。父親も母親も兄も自分に興味は無く、ただダイグル公爵家に都合の良い存在であることを求めていた。
病気になった時も使用人が薬と食事を運ぶのみで、家族は見舞いにすら来なかった。
この世界の母親の優しい手の感触を思い出すと、どうしてか泣きたくなった。エフィはぎゅっと目を閉じて涙を堪えた。
全身の打ち身は日ごとに快復し、エフィはようやく家族と食卓で食事がとれるようになった。
「たくさん食べろよ」
そう言ってスープ皿を置いてくれたのは五歳年上の義兄マルセルだった。少年は明らかに分量の少ない自分の食事を瞬く間に平らげた。
前菜も何もない食事にデルフィーヌは困惑したが、エフィは自然に食べ始めた。素朴な味に慣れているのか、デルフィーヌの意識に不快感はなかった。
隣に座るマルセルの腹が鳴った。瞬きしたエフィは、きまり悪そうにそっぽを向く義兄を見て、自分の皿をそっと押しやった。
「お兄ちゃん、食べて」
「…でも、お前」
「もうお腹いっぱい」
少年は父と義母を見た。二人は苦笑気味に頷いた。
「エフィはずっと寝ていたから、あまり食べられないのね」
イルマの言葉に、マルセルは義妹に頭を下げた。
「ありがと、エフィ」
そして彼は勢いよく食べ始めた。感心するような速さで完食すると、少年は義妹の頭をぐりぐりと撫でた。
「待ってろよ。俺、早く父さんみたいな立派な家具職人になって、毎日腹一杯食わせてやるからな」
「うん」
エフィが真面目に頷くと、祖母が孫息子の耳を引っ張った。
「まったく、調子いいんだから」
「いてーよ、ばあちゃん」
両親と祖母は揃って笑った。デルフィーヌは思い出した。豪壮な公爵邸では食卓で笑い声など聞いたことがなかったこと。公爵夫妻と兄と揃って食事をした記憶すらないこと。
――こんなあばら屋で、残飯のような食事で、どうして笑っていられるの。
腹立ち紛れにデルフィーヌは罵ったが、それでも気付いていた。公爵家の贅沢な料理が、肉もろくに入っていないスープより美味しいと感じたことがなかったことに。
窓から入ってくる涼しげな秋の風が、エフィの金褐色の髪を揺らした。