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15 白鳥の園⑧

 遅れて舞踏室に入る前に、シャルロットは三つ編みにした髪のリボンを少し緩めておいた。

 ――私は無事よ。次はどんな仕掛けを見せてくれるの、ダイグル公爵令嬢。


 広い室内はざわついていた。女生徒たちがブリュノ夫人を心配そうに取り巻いている。シャルロットに気付いたフェリシーが囁いた。

「マダム・ブリュノが足を怪我してしまったの。今日の授業はどうなるのかしら」


 そうするうちに、皇太子が婚約者と一緒に入室してきた。彼はブリュノ夫妻のただならない様子に驚いた。

「何があったのだ」

「申し訳ありません、殿下。妻が足を捻挫してしまいまして」

「それは気の毒だな」

「授業なのですが、見本演技に臨時の相手を指名してよろしいですか」

「構わない」


 皇太子が頷くと、ブリュノは女生徒の後方にいる男爵令嬢に声をかけた。

「ロシニョール嬢、お相手を願えるかな」

「私ですか?」

「見たところ、君はまたあぶれそうだし、何より一番筋がいい」


 前世では足にまめを作るほど訓練したことを〈デルフィーヌ〉は思い出した。ブリュノ夫人に目をやると励ますように笑ってくれた。

 おずおずとシャルロットはダンス教師に手を取られて生徒たちの前に進み出た。ブリュノがピアニストに合図し、音楽が始まった。

「私についてくればいいから、緊張しないで」


 ダンス教師はおどけた調子で言うと、基本姿勢をとった。軽快な四拍子の曲に乗って、二人はステップを踏んだ。フロアを高速で駆け回るようなダンスは息が合わないと目も当てられなくなるが、シャルロットはしっかりとついていった。

 最後にくるくると回転した時、男爵令嬢の髪を留めていたリボンがほどけ、赤みがかったブロンドが夢のように広がった。そのままレベランスをしたシャルロットに、リボンを拾い上げたダンス教師が手渡して拍手をした。椅子に座って見ていた夫人も嬉しそうに手を叩いている。

「ありがとう、ロシニョール嬢。では皆さん相手と組んで。アクセントは一拍目と二拍目に。スロー、クイック、クイック」


 授業が始まる中、シャルロットは一人窓際に行き、髪を直した。他の生徒に背を向けながらも角度によって横顔が見えるようにして、日を浴びた髪が煌めく様を見せつける。

 背中に視線を感じてもあせることなく、ゆっくりと三つ編みを作っていき、最後に唇に咥えたリボンで結ぶと、シャルロットは舞踏室を見渡した。ダイグル公爵令嬢と踊る皇太子は窓から離れた場所に押し込められていた。


 ――必死ね。

 〈デルフィーヌ〉は冷笑した。ためらいなく誰の懐でも飛び込んでいくのが前世のシャルロット・ロシニョールの得意技だったが、既に政治的に決められた相手を引きつけておくのは勝手が違うのだろう。


 ――安心なさい、こちらからすり寄る真似はしないから。

 強大な公爵家のご令嬢は可哀想な被害者になるのは難しい。現世でのシャルロットは皇太子と全く接点を持とうとしないのだから尚更だ。

 その後、教師に頼まれれば彼と複雑なステップを披露してシャルロットはダンスの授業を終えた。




 戻った寮では大騒ぎだった。

「凄いわ、シャルロット」

「あんなにダンスが上手だなんて」

「先生も褒めてらしたわよ」

「母がダンスが好きで、家でよく踊っていたの」


 照れながら男爵令嬢はそう答えた。嘘ではない。前世のダイグル公爵夫人はダンスの名手で数多い愛人のほとんどが舞踏家だった。

 そして、現世のダイグル公爵令嬢の踊りを思い出した。決して達者とは言えないステップなのが不思議だった。


 ――お母様との思い出なんて、気まぐれに教えてくれたダンスくらいなのに。

 自分に自信が無くいつも内心怯えていたデルフィーヌ・ダイグルにとって、唯一と言っていいほどの特技だった。

 これも世界のずれなのだろうか。〈デルフィーヌ〉はいくら考えても答えが出なかった。


 そして、ダンスの時間にベアトリス・モワイヨンの姿を見なかったことを思い出した。

 ――ピアノ線を使った罠が私を標的にしたものなら、全くの別人に仕掛けてしまったことになるわね。公爵令嬢の怒りを恐れて閉じこもったのなら気の毒ね。


 前世ではシャルロット・ロシニョールが皇太子に巧妙に近づくことになった出来事だが、同じやり方で現世のシャルロットを牽制したというのが妥当だろう。

 皇太子と踊ることはなかったが、それ以上の印象を与えたはずだ。距離を縮めようとしない、しかし目を離せない存在として。


 ――殿下の性格が前世と同じなら、効果的だったはず。

 生まれた時から定められた皇国の継承者という地位、両親からの期待、ダイグル派から選ばれた婚約者。それらの重圧にがんじがらめになり、厭世的な気鬱に陥っていた人だった。


 ――あの方は、私にとっての解放の象徴だった。皇太子妃になりさえすれば、望んでも叶わなかったものが手に入ると思い込んでいた。

 皇太子妃候補。それが当時のデルフィーヌ・ダイグルの唯一の価値であり、家族と自分を繋ぐ最後の糸だった。必死で縋る自分は、皇太子には重荷だったかもしれない。


 ――背負ったものを忘れさせてくれたシャルロット・ロシニョールに傾倒していったのね。

 ルイ・アレクサンドルに前世と同じ事をするつもりはない。それでもダイグル公爵令嬢に奪われる恐怖を植え付け、暴走か自滅に追い込んでやるためには彼にぐらついてもらう必要がある。それには前世と同じようにべたべたと甘え媚びを売っても逆効果だ。


 皇太子への態度からして、ダイグル公爵令嬢が前世のシャルロット・ロシニョールと同じ接し方だと推測できる。なら〈デルフィーヌ〉は決して自分から近づかない。

 冷静に計算する自分に気付き、彼女は自嘲した。

 ――前世であれだけ心を得ようとした人を、今は道具のように見なすなんてね。


 ルイ・アレクサンドルの弱さを理解できるし前世の思慕の記憶もあるが、この世界で無償の愛を与えてくれた人々に対する思いとは比較にならない。

 ダイグル公爵令嬢と皇太子との間にくさびを打ち込むこと、ロシニョール男爵の不明な財源を暴くこと。この二点を学園にいる間に達成するのだと〈デルフィーヌ〉は改めて決意した。




 学園での勉強と週末の調べ物はいつしかシャルロットの日常になっていた。

 冬至の聖光輪祭を迎え、年が明けてもモニカと二人でシャルロットは資料を求めて街に出た。


 国立図書館では、ウジェーヌ・ガロワとアロイス・ヴォトゥールと合流するのも習慣となっていた。彼らは医学院の友人も紹介してくれ、医術を勉強中のモニカは喜んでいた。


 新聞や公文書から数年前の事を調べるのは簡単ではなかったが、それでも続けていくうちに分かってくることはある。

「この年に政府から薬品の調達を請け負っていたのはパンソン系の商会だったのね」

「あそこなら政府関係の商取引に必ず絡んで来るからな」

 ウジェーヌが言うと、アロイスも同意見だった。

「軍の武器弾薬もあそこの系列会社が扱っている」

「さすが国際的な財閥ね」


 そんな一族のサラ・パンソンが反動的な修道院附属の女学園で学んでいるのも不思議だった。

「サラ先輩は花嫁修業なんて嫌がりそうだけど」

「あそこの本家は娘ばかりだから婿取りかな」


 医学書を探しに行ったモニカがなかなか戻ってこないのに気付き、シャルロットは探しに行った。書架の向こうに見覚えのある男性の姿を見かけ、彼女は立ち止まった。

「……あれは…誰だったかしら」

 丸眼鏡の男性が話し込んでいるのは短めのウィンプルを被った見習い修道女、モニカだった。謎の人物は短い会話を終えて出ていった。モニカがシャルロットに気付いてやってきた。


「ごめんね、つい話し込んじゃって」

「いえ。でも、誰なの?」

 不思議そうなシャルロットにモニカは笑った。

「覚えてないの? ピエール先生よ、ニドの街にいた」

 思わずシャルロットは自分の左手首を見た。この怪我をした時に手当てしてくれた医者だ。

「皇都に来てたの?」

「そうよ、あの修道院で勉強できるように推薦してくれたのもピエール先生なの」

 意外な繋がりに驚きながらも、シャルロットは調査に戻っていった。




 聖ミュリエル修道院附属女学園。高位貴族寮の自室でモワイヨン侯爵令嬢ベアトリスは震えていた。


 その有様を見下ろし、溜め息をつく者がいた。

「まったく、ここまで役立たずだとは思わなかったわ」

 びくりと全身をこわばらせ、ベアトリスは小さな声で謝罪を繰り返した。

「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」


 彼女の前に立つ者は鬱陶しそうに言葉を遮った。

「もういいわ、あなたの代わりなんていくらでもいるのよ」

 立ち去ろうとする相手に彼女は縋り付いた。

「……待って、お願い、…」


 相手は振り向き、小さな袋を彼女の目の前にかざした。

「ああ、これが欲しいのね」

 そして、屈み込むとベアトリスの耳に毒に等しい言葉を吹き込んだ。

「いいわよ、でも覚えておいて。あなたがこんな目に遇うのはあの女のせいだってこと」


 袋をひったくり、ベアトリスは中の錠剤を手のひらにあけると震えを堪えて口に押し込んだ。

「…長くなさそうね」

 青い瞳に微かな憐憫を浮かべて訪問者は去って行った。

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