13 白鳥の園⑥
振り向いた先に立っていたのは、一人の修道女見習だった。誰だろうかと〈デルフィーヌ〉は必死に考えた。
少し年上に見える彼女は大きく目を瞠ってこちらを見ている。茶色の髪と目、鼻の辺りに散ったそばかすに見覚えがあるような気がした。意を決したように見習いの修道女は近寄った。
「…エフィなの? 覚えてる? ニドの街で一緒に遊んだ」
その言葉に懐かしい街の記憶が一気に押し寄せた。遊び仲間の中心だったしっかり者の女の子の顔が重なる。いつも小さな弟を連れていた子だ。シャルロットは彼女に呼びかけた。
「モニカ?」
「そうよ、やっぱりエフィなんだ。綺麗になって見違えたよ」
嬉しそうに手を取り合った二人は、人目に付かない庭園奥に移動した。花壇の縁に並んで腰掛け、互いのことを報告し合う。
「男爵夫人の死んだ娘の代わりをしてたの。気の毒な人で、娘が死んだことを受け入れられなくて。ここには世間体を気にした男爵が入れたの」
「それでいきなり連れていかれたんだ。あたしは医術の勉強ができるからここに来たのよ。医学院はお金がかかるし女の子は入れてくれないから」
「そうなの……ねえ、モニカ」
最も知りたかったことをシャルロットは尋ねた。
「私の家族は元気なの?」
モニカは幼馴染みの手を取り、静かに告げた。
「おばあさんはあの年の冬を越せなかったの」
シャルロットは頷いた。半ば覚悟していたことだった。なさぬ仲の母と自分を家族として受け入れてくれた慈悲深い老女の魂浄をそっと祈る。モニカは続けて言った。
「マルセルは兵役が来て街を出たから、あの家はおじさんとおばさんの二人にだけになってる」
「…そう」
貧しくとも笑い声が絶えなかった古い建物を〈デルフィーヌ〉は胸の痛みと共に思い出した。彼女の左手首の傷跡を見て、モニカは黙り込んだ。シャルロットは慌ててカフスでそれを隠した。
「あの、跡は残ってるけど全然痛くないし、ちゃんと動くから」
焦る少女を見てモニカは吹き出した。
「変わってないね、そういうとこ」
つられて笑ったシャルロットは、この傷の原因になった男の子の名を口にした。
「ジョスはどうしてるの? 大きくなったんでしょ?」
モニカは俯いた。そしてぽつりと答えた。
「あの子は死んだの。二年前に肺炎で」
「……え?」
〈デルフィーヌ〉はすぐには信じられなかった。いつもモニカの影に隠れていたよちよち歩きの男の子がもういないなど、考えたこともなかった。
「それ、エスパ風邪で?」
「うん。薬がどこも品切れで、父さんたちは街の外にまで探しに行ったし、ピエール先生も精一杯のことをしてくれたけど、熱冷ましも咳止めもなくて……」
小さなジョスが苦しみながら死んでいった頃、自分は男爵邸で無事だった。使用人が数人体調を崩し男爵夫人も伏せったが、全員薬で快復した。シャルロットは濃灰色のスカートを握りしめた。
「…私、何も知らなかった……、あの家にいたのに!」
生きていれば十二歳。腕白盛りになっていたはずだ。白くなったシャルロットの手にモニカの手が重なった。
「それでも、エフィがいなければあの子は三つで死んでたかも。長生きはできなかったけど、あれからの七年をエフィがくれたのよ」
シャルロットは首を振った。涙がスカートの上に落ちる。あの年の疫病の大流行を呪わしく思い返すうち、あることに気付いた。
「…男爵邸には薬があった……」
「金持ちのお貴族様だから」
「流行する前からよ。予防に飲んでおけって薬を渡されて、注射もされたわ。病人が出たら面倒だからって」
あの男らしい言い草だとしか思わなかったが、それはまだ街中に病人が溢れる兆しもなかった頃だ。いきなりの述懐にモニカが困惑した声を出した。
「男爵は知ってたの? 街の人には何も知らせずに、自分たちだけ薬を用意してた?」
「ペローの家具、イービスのシャンデリア、男爵家がいきなり度を超した贅沢を始めたのは二年前よ。何で儲けたのかと思ってたけど、もしかして……」
「あの病気を利用したって事?」
「分からない。証拠は何もないし。でも、あの男ならニドの街が全滅しても金になれば気にもしないわ」
シャルロットは顔を上げた。いつもは可憐な若草色の瞳が、今は決意の鋭い光を帯びていた。
「何か調べる方法があるはず。違法な蓄財なら罪に問える」
「男爵家を敵に回すつもりなの?」
驚くモニカに、シャルロットは叫ぶように言った。
「一日だって忘れたことなんか無い! あの日、私を家族から引き離して、取り戻そうとした母さんを鞭打った連中を。あの男は死んだシャルロットの身代わり役が欲しかっただけで、逃げれば街ごと家族を潰すと脅されて泣くしかなかった」
少女は立ち上がり、狂気すら覗かせる表情で宣言した。
「男爵がニドの人々の死体の上に財産を築いたのなら絶対に許さない。必ず破滅させて、私は私の家族を取り戻す」
そして戻ってみせる。迷路のような街に、笑うことも忘れているかも知れない母の元に。
シャルロットの手をモニカが握った。彼女も覚悟を決めたようだった。
「協力する。あの年に何があったのか、一緒に調べよう」
「ありがとう」
今の自分の手で出来ることはあまりにも少ない。それでも、これが第一歩なのだ。逃げるのではなく、立ち向かうための。
天使像が見守る中、八年越しの再会を果たした少女たちは新たな目標へと進み始めた。
翌日、修道院の許可を得てシャルロットは外出した。介添え役はモニカが務め、二人は国立図書館を訪れた。皇国内最大の蔵書を誇る図書館は城のような外観に相応しい重厚な内装で、天井に届く書架に少女たちは圧倒された。しばらく見とれた後にシャルロットとモニカは手分けして資料を探した。
「当時の新聞はこのくらいでいい?」
「ええ。空いてる場所はある?」
二人でかなりの量の新聞を抱えたため、それらを広げられる机をシャルロットは探した。閲覧室は勉強熱心な学生で埋まっている。別の部屋に移動しようかと相談した時、彼女たちに声をかけた者がいた。
「こちらにどうぞ、お嬢さんたち」
声の主は異なる制服を着た青年二人組だった。いかにも育ちの良さそうな振る舞いと正確な発音から、〈デルフィーヌ〉は貴族の子息だろうと見当を付けた。
――覚えのある顔ね。本人ではなくて親の方に面識があるのかも。
モニカと二人で彼らの厚意に甘えることにした。机に広げた新聞を見て、青年たちは意外そうな顔をした。栗色の髪と黒い制服の青年が気さくな口調で尋ねた。
「何を調べているのか訊いてもいいのかな」
「二年前の肺炎の大流行についてです」
「もう病気は治まったのに?」
「私の友達が亡くなりました。理由になりませんか?」
淡々と答えるシャルロットに、二人はばつが悪そうな顔をした。
「失礼。好奇心で聞くことではなかった」
栗色の髪の青年が丁重に詫びた。その隣で、軍服のような制服の長身の青年が申し出た。
「手伝えることがあれば手を貸したいのだが」
「ありがとうございます。では、地方面で薬品の不足に関する記事を探していただけますか?」
「了解」
彼らは新聞を広げた。しばらく四人の机では紙をめくる音とノートにメモをとる音のみがした。
やがて閉館時間が近いことが知らされた。今日はここまでにしようと少女たちは新聞を畳んだ。栗色の髪の青年が提案した。
「薬品の流れを追うのなら、医療白書も参考になるよ。今度書架の位置を教えよう」
「ありがとうございます…」
「ああ、失礼。僕はウジェーヌ・ガロワ、法学院の者です。こいつは友人の士官候補生アロイス・ヴォトゥール」
「シャルロット・ロシニョールと申します。こちらは姉妹モニカ」
礼を言い、女学園の生徒と見習い修道女は図書館を出て行った。残された二人は小声で言った。
「あれが皇太子殿下の『小白鳥』か? 思ったより地味な子だな」
「清楚と言え。物腰が優雅で媚びがない」
「士官学校きっての朴念仁にしては詩的じゃないか」
脇腹をつつかれて、陸軍元帥の息子は顔をしかめた。内務卿の息子は噂の男爵令嬢に興味津々の様子だった。
寮に戻り、シャルロットは今日の調べ物をまとめた。
「最初、内務省は薬は充分にあると発表した。でも、感染が拡大するにつれて、特に地方で薬品不足が問題になってる。二年前の男爵の動向をどうやって調べればいいのかしら……」
用心棒のエリクや御者のプロスベールなら彼と同行しているはずだが、聞き出す術がない。考えた末にシャルロットはマダム・モワノに手紙を書いた。




